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zoom RSS 主と共に歩む生涯 敬老礼拝 2011/9/11 ヘブライ13:5-6 

<<   作成日時 : 2011/09/17 15:03   >>

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ヘブライ13:5-6 


最近、高齢者問題 などという言葉を聞きます。
高齢になった人は問題でしょうか?
確かに高齢化 といことはいろいろな場面において 今までになかったことを私たちに知らしめてくれることがあります。
子供の頃、できなかったことができるようになることは大きな喜びでした。
自転車に乗れるようになった時、世界が広がりました。
どこまでも行けるような感覚になったものです。
できることができなくなる、見えるものが見えなくなる、聞こえていたものが聞こえなくなる…。
できなくなっていく自分に劣等感を感じ、心を閉ざしがちになり、絶望を感じることでしょう。
戦後の日本を立ち上げてきた世代が、いくら自分が頑張ってもどうしようもない

今日の箇所はヘブライ人への手紙のまとめの箇所ですが具体的にどのように生きるのかということが書かれています。

旧約聖書で教えられてきたいろいろな基準や戒めはユダヤ人たちへのものではないのか、信仰者たちでも守らなければいけないのかという議論が教会の中に存在しました。
使徒言行録の中には、それについての会議が開催されたことが記録されています。
ヘブライ人への手紙の中では、どこの国の人でもどういう背景の人でも基本として守られるべき教会における基準が示されています。
もちろん、これらの内容は、救われるためにはこれらを守らなければだめだと言うことよりもむしろ、キリストによって愛されている私たちはこれらのことごとを積極的に守っていきましょうという勧めになっています。
どの項目についても、当たり前といえば、当たり前なのですが、しかし、どれをとっても簡単なことではありません。
頭ではわかっていても、実行するとなるといつでもいつでもそれらを守り続けるためには神様の力が必要だということがわかります。

「信仰によって生きる」という「信仰」とは何でしょうか。
へブライ人への手紙11章1節には、その信仰の定義が記されています。
まずそこから見ていきたいと思います。
ただし、この信仰の定義は、へブル書のいう定義です。
パウロならば、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」と定義するでしょう。
しかし、へブライ人への手紙の信仰の定義はまた違った意味で定義されているのです。
ユダヤ人(ヘブライ人)の考える「信仰」とは、実に「動的」な捉え方です。
これはギリシャ人の知的な概念とは全く質を異にします。
信仰とは、永遠の事柄を確信して、かつ積極的に、神に近づき、神を求めることを意味します。
心配症だろうか。まだ起きてもいない先の事を、ああなったら、こうなったらと思い煩うことの多いものです。
主は「何も思い煩うな」、いっさい思い煩うなと、いっておられるに関わらず、くよくよと思い煩ってしまう。
「思い煩い」と「平安」は絶対に同居することはありません。
思い煩う途端、心は暗くなり、落ち込み、沈み込み、今、目の前のする必要のある事柄をする気力が奪われる。
又、私たちは、だいたい失ったものを数え、無いものを数え上げるのです。
あれが無い、これが無い、あれもこれも出来ていない・・心はネガティブに落ち込んで行く。
これは神と共に歩んで居ないというときの症状だといえるでしょう。
9.11から3.11から半年
第二次世界大戦中、ナチスの時代に生きた有名な牧師にボンフェッファーという人が居ますが、その人はこう言っています。
ドイツの人々が神とともに歩むということをしなくなったからだと。
生きた信仰者がいない国となったというのです。
福音的教会の伝統ある国ですが、第二次世界大戦頃には全く信仰のある国とは言えない状態になってしまいました。

このことばは今もなお現代の教会に対する信仰の危機の警鐘ではないでしょうか。
「神とともに歩む」(原文の歩むは、歩きまわるという変化形です。普通に歩むのではなく、より意識的、自覚的なイメージです)

しかし、これら日常的な生活をしっかりと正し、丁寧に生きていくことで私たちの心の平安がもたらされます。
ただし、これらのことを必ずしも誰でもが賛成してくれるわけではありませんし、信仰者であっても、「面倒だ」とか「自分だけよければそれで良いではありませんか」とか、言い訳を考えながら生きている人もいます。
社会的にはそんな基準は古いと反発されることもあります。
また、私は完璧にこれらのことはすべて守っていますなどと言い切れる人はいないのではないかと思います。
これらの課題は常に私たちに、喜びと痛みとを通過させるものなのです。
愛をもっておこなっている行為においても痛みを感じることがありますし、守らねばという頑張りは時に苦痛を引き起こします。
これらの基準は、神様の恵みに生かされている私たちが、守れるはずの戒めであり、それを逸脱しないようにと心がけながら生きるための基準です。
にもかかわらず、わがままで自分本位な私たちは、良いことだとわかっていてもなかなか実行に移せない場合があるのです。


私たちは、これらの基準を守ろうとするとき、神様はその姿勢や努力を喜んでくださることを知る必要があります。
時々、正しいことだと知っていても臆病になることがあります。
あるいは、人の目を恐れたり、人の言葉を恐れたりして正しいことだとわかっていてもなかなかそれを実行できない場合があるのです。
その時に思い出すべき言葉がこれです。

13:5神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。
13:6だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。
「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」

礼拝で祝福を受け、自分の心が満たされることを味わえるのは幸いなことです。
しかし自分の心が満たされ、喜びが満たされたとしても、それが外側に表明されないと私たちの心は消化不良を起こしてしまう傾向があるのです。
他者を意識すること、他者への祝福を祈ること、他者への挨拶をしてみること。
さらには他者への助力や支援を考えること。
家族のことを考え、今与えられているものについて感謝すること。
そういうことのために心を向けることで礼拝の祝福が完結するのです。

先日の水曜日の学び会で、してくださいしてくださいの祈りから「感謝です」の祈りに変えられたという記事がありました。
自分に欠けていることを求める祈りばかりをするのではなく、与えられているものに感謝する、
自分ばかりではなく他者を思い、祈る。
外側に祝福の心を向けるというのは、なかなか大変なことなのです。
というのも、すぐに「伝道」という形に結び付けてしまうと、そこには下心が発生しており、純粋な愛の表現とは言えなくなる場合があるし、知らない人にいくらニコニコしていても家に帰ったら鬼のような顔しかできないとしたらそれは矛盾しています。
知恵が必要ですし、能力も、方法や手段についての知識も必要です。
人への迷惑にならないように、思いやりは十分に配慮が必要です。
だからこそ、神様の知恵と助けが必須なのです。
私たちは、神様の愛を分かち合おうと思うとき、人への恐れ、孤立、恥、そういうものと常に隣り合わせに生きているのです。
わかってもらえないこともありますし、人から拒絶されたり、理解されなかったりすることがあるからです。
私たちひとりひとりが、その生活の場で丁寧に他者を祝福し誠実に生きようとしていることを神様は評価してくださいます。
そして、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われるのです。

人への働きかけは常にリスクを背負っています。
もしかしたら、こんなことを言ったらあの人に軽蔑されるかもしれないとか、あの人に喜んでもらいたいけれど反発されたらどうしようとか、こちらに悪気がなくても相手がどう理解してくれるのかわからないので、不安は常にあるのです。
良かれと思ってやったことで反発を受けたり、非難されたりすることは私たちの生活の中には良くあることです。
そんなときに思い出すべき言葉、それが「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」
勇気が出てくる言葉です。

私たちはイエス様に、探し出された集団の一人一人です。
イエス様に愛されている存在です。
それがわかっても、なお、不安になることがあるのです。
「これ、やって大丈夫かな」、「これやらなくて大丈夫かな」と心が揺れることがあるのです。
神様は私たちの心をご覧になり、私たちの限界を知ってくださいます。
そして、足りないところだらけの私たち、罪を犯し、失敗を繰り返す私たちにさえ「「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」」と言ってくださいます。

私たちは、その愛にこそ目を留める必要があるのです。
私に何ができたかということではなく、私が何をしてこなかったかということでもなく、私がどんな失敗をしてしまったのかということでもなく、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われる神様の恵みの約束にこそ心を向ける必要があるのです。

この手紙が記された当時、多くの信仰者が迫害を受けていました。
10:33には「見世物にされた」とあります。
子供から大人まで信仰者達がロマの円形競技場の中に押し込められ、腹をすかしたライオンなどの獣に襲われて命を奪われるという迫害のことです。
「獄に入れられた」、「財産を奪われた」(34節)というのは、キリストを信じているだけで、不当逮捕され、持ち物すべてを没収されるという理不尽な迫害のことです。
信仰者に対する迫害は今日も続いています。
中国では政府支配下の公認教会があります。
しかし、自由に聖書に基づき、まことの福音が伝えられている家の教会(地下教会)に多くの人々が集まっています。
家の教会は非合法な集まりということで、共産党政府によって指導者は逮捕され、信徒は仕事を奪われるなどしています。
それにも関わらず、集会は農家の納屋などの隠れた場所で絶えることなく続けられていて、信仰者が増え続けています。

迫害下にある信仰者に対し、「迫害を耐え忍んで行こう、救いの確信を捨てるな。集会をやめないで、キリストにしっかり繫がって行こう」との勧めがなされています。
私たちには、今は表立った迫害がないかも知れませんが、私たちが信仰者として生きて行こうとする時に様々なものとぶつかります。
そのような中を生涯を通して信仰生活を守っていく、そのことはすばらしいことです。
自分だけでは決して信仰生活をし続けていくことは難しいでしょう。

しかし、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と約束してくださる神が私たちと共にいます。

どんな時も、どんな状況でもです。
わかくて元気な時だけでなく、神の恵みは一生涯、かわることがありません。
思い煩いにとらわれるのではなく、主の平安の中にある生涯を歩んでまいりましょう。


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