日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS キリストの愛から離れない 2011/8/7 ローマ 8:31‐39

<<   作成日時 : 2011/08/14 14:02   >>

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東日本大震災をきっかけに自殺に追い込まれる人が相次いでいるそうです。
内閣府が5日、震災に関連して自殺した人として公表したのは、6月だけで16人。
専門家は「将来を悲観して思い詰める人が増える恐れがある」とコメントをしているそうです
追い込まれるという言葉がありますが、どうしたらいいのかわからない、どうしようもない、という状況は誰にでもあります。
人生は選択と決断の繰り返しです。
決断が正しくて、いい結果に結びつくこともあれば、そうでない場合もあります。

31節から8章の終りの39節までの段落は、1章から8章まで全体の結論として考えられています。
パウロは31節の箇所で「では、これらのことからどう言えるでしょう」と言っています。
この「これらのこと」というのは1章からずっとここまでの全体を指しています。
パウロはキリストによる福音をローマの教会に説明しています。
その説明において、非常に大切なポイントを繰り返し強調します。
その重要なポイントとは、キリストによる福音が旧約聖書にある神の御恵みの教えと全く同じであることです。

同時に、新しい契約は旧約聖書の約束の完成なのだということを強調しています。
私たちはキリストにあって新しい「良い知らせ」が与えられています。
それは、御子なる神御自身が私たちの罪を負って十字架の上でその罰を受けてくださったということです。
その十字架において罪と死とサタンに対して勝利を得てくださったということです。
そして主ご自身はよみがえって天に昇られて御父の右に座して支配しておられるということです。
この復活のキリストが王座に座ってすべてを支配することに至って、はじめてそれは「福音」になるのです。

新約聖書が書かれた頃、紀元70年にローマ軍によってエルサレムの神殿が破壊されました。
その時には、パウロもペテロも皆殺されて、ヨハネだけが生き残っていたかも知れないといわれています。
他のリーダーたちの殆どは死んでいた。テモテもテトスも既に死んでいたと考えられています。
そのような中教会への迫害はますます激しくなっていきました。
キリスト者だとわかれば合法的に殺されてしまったような時代でした。
パウロたちが死んでからの20〜30年間の教会は、御言葉をもって深く教えることのできる優れたリーダーはほとんどいないような状態でした。
その人たちがローマ帝国を相手に戦ったのです。
信仰を貫いたのです。


言い換えれば、今の私たちのキリスト教会の現状よりも弱い状態にあったとも言えます。
教会の建物など一つもありません。
神学校もなければ、教育を与える施設もシステムも何もありません。
今で言う所の聖書は断片的にしかありません。
ユダヤ社会から切り離されたユダヤ人キリスト者は、聖別された食料を手に入れることすらままならない情況でした。

その弱い人たちがローマ帝国と戦い、そして勝ったのである。
それ故、パウロがここで話していることは単なる熱狂的な信仰とか言い過ぎのことではないことがわかる。
小さい者が大きな口を叩くというようなことではない。すべてが現実のことであったのだ。
「神が私たちの見方であるなら、誰が私たちに敵対できようか」とパウロは言う。
この問いは、その時代のローマの人たちにとっては実に現実的な意味があったのだ。

パウロは言っている「敵対できる者」との関りにおいて考えてみていただきたい。
神が私たちの味方であることを信じてすべての戦いに出て行っても、戦いにおいては実際に傷つくこともあります。
言い換えれば、神を信じていても実際にはいろいろな困難や苦しみに遭うことでしょう。
そんな時には、「これはなんだ。神が味方なのに、どうしてこうなるのか」と思うかも知れません。
しかし、神は私たちに一番大きな祝福を与えてくださったことを忘れてはならないのです。
神は御自身の最愛の御子を私たちに与えてくださった。
これ以上の祝福はありません。



「艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」
パウロはその当時の考えられた人がキリストから離される原因を列挙しています。
一つでも強力な壁ですが、場合によってはひとつくらいなら耐えられるかもしれません。
しかし、これが同時に降りかかってきたら、生身の私たちは降参することしかないでしょう。
今、この日本の国ではキリスト教を信じているからと言って、迫害されたり、死の危険にさらされたりすることはありません。
しかし、もし今とは状況が一変して、またクリスチャンが迫害される時代がやってきたならば、どうでしょうか。
そういう迫害に私たちは耐えることが出来るでしょうか。
おそらく多くのクリスチャンたちは、たとえ迫害にあっても、勇敢に立ち向い、信仰を守り通すことが出来ることでしょう。
私も、出来ればそうありたいと願います。
けれども、そう出来るかどうかは、正直言って自信がありません。
もしかすると、すごすごと逃げ出してしまうかもしれない。
今日の御言葉は、「艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」と堂々と語っていますけれども、しかしこの御言葉は、「あなた方には、こういう苦難に耐え得る力があるか」と問うているのではありません。
そうではなくて、たとえそういう殉教の死の危機に追い込まれようとも、「キリストの愛から私を引き離すことは出来ないのだ」このように、この手紙を書いたパウロは言ったのです。
問題の中心は、キリストの愛です。
神様の愛であります。
私が迫害に耐え得るかどうかが問題なのではありません。
たとえ厳しい迫害に会って、腰が引けてしまったとしても、そんな私を神様はお見捨てにならない。しっかりと抱きかかえて下さる。支えて下さる。愛して止まないのであります。
これは何も殉教の死という特別な時だけではなくて、私たちがそれぞれに死を迎える時にも同じ事が言えるのだと思います。
死を前にした時に私たちは、もしかすると、うろたえ、じたばたするかもしれません。
あるいは死の時には、認知症になって、何にも分からなくなっているかもしれません。
けれども、たとえ私たちの側の意識が薄れて何にも分からなくても、あるいは信仰が揺らいでしまっても、それで主イエスの愛が揺らいでしまうわけではありません。
主イエスは私たちを最後の最後まで、諦めることなく、見捨てることなく、しっかりと受け止めていてくださるのです。
やがて私たちが天国で、地上での歩みを振り返る時に、「あぁ、あの時も確かに主イエスの愛は離れていなかったなぁ」こう振り返ることが出来るのだと思います。

神は永遠の神、地の果てまで創造された方です。
その英知は計り知れません。
この方が私たちの味方であるなら、私たちはいったい何を恐れる必要があるでしょうか。私に敵対するということは、この神に敵対することになるのです。
この神様に敵対して勝てる人などだれもいません。
ですからこの神がともにおられるなら、私たちは何も恐れる必要はないのです。

誤解しないで頂きたいのですが、ルールを決める側とルールに従って競技するプレーヤーがいたとします。
ある特定のプレーヤーが勝つようにルールを定められているとしたらどうでしょうか。
一般的には不正だ、ということになるかもしれません。
しかし、神様はそうしてまでも私達を常に勝たせようとしていてくださるのです。
ルールに従うように人間を創られたのです。
義なる神様が正しいのですから、神様を敵に回して勝てるはずなどないということも言えるでしょう。
神を信じない人から見れば、神を信じる人の生涯とは「不正だ」と叫びたくなるくらいのこのような違いがあるのです。

たとえ私たちが気づいていなくても、主イエスの方はいつも私たちと一緒に歩んでくださる。
私たちの人生を背負っていてくださるということです。
主なる神様が、この私のことを、ご自身の独り子と引き替えにしてくださるほどに、価高く、尊く、あなたを愛している、とおっしゃられるのです。
そして、その神様の愛は、決して変わることがありません。
私たちが年老いて仕事が出来なくなっても、若い時の元気や美貌が失われていっても、たとえ寝たきりになって、意識が薄れてしまっても、「あなたがあなたであることには変わりない。あなたは、私にとって、絶対に失われてはならない、掛け替えのない、尊い存在なのだ。私はあなたを愛している」こう言ってくださるのです。
この神様の愛を堅く信じ、委ねることが出来るならば、もう安心です。
たとえどのような苦難が襲ってこようとも、もう、やせ我慢をして、平安な素振りなどする必要はない。
悩み苦しみ、ジタバタする自分を、すべて主イエスの前に投げ出せばいい。
そこにこそ、決して揺らぐことのない平安があるのではないか。
これこそ信仰者が味わうべき本当の平安ではないか、そう思うのであります。

今、皆さんが受けておられる患難や苦しみは何でしょうか?
たとえそれがどのようなものであっても、それらのものがキリストの愛から引き離すことはできません。
皆さんの中に聖霊が内住しておられるからです。
この聖霊が皆さんを助け、導いてくださるからです。
どの道に行っても、どんな失敗や困難に直面しても、すべてのことを働かせて益としてくださいます。
信じましょう。
この聖霊様が皆さんの中に内住しておられるとき、この勝利の確信が生まれ、どんな悪魔の悪巧みがあり、どんな試みや患難があったとしても、私たちの救いは決して揺らがないということを。
私達は最後まで守られるのです。
神様が選ばれた民は、どんな危険な場所に置かれても、どんなことがあろうとも、決して揺らぐことはありません。
神様が天の御国まで私たちを引いて行ってくださるということを。
そしてその恵みを聖餐式を通して味わい知りましょう。

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