日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 心を一つに 2011/5/29 Tペトロ3:8-17

<<   作成日時 : 2011/05/29 11:50   >>

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私は土曜日にラジオを点けていることが多いのですが、その中で「よい週末を」という挨拶を耳にします。
普段でも、午前中に会った人に、今日もよい日を というような挨拶をする場合がありますが、旅行者などには、「いい旅を」などという場合などです。
これは英語の挨拶の日本語訳です。
「Have a good day, sir」、「Have a nice trip!」
今日という日が神様の恵みあふれる素敵な一日でありますように
神様の守りと平安のうちにある旅となりますように
という祈りでしょうか。

では、私たちにとって、いい日 というのはどのような日でしょうか。
楽しみに計画していた教会のピクニックが、こともあろうか台風によって中止を余儀なくされました。
それでもお弁当は作らないといけないから、早起きをしてお弁当を作ってきた。
中には雨の中の町内清掃で、夕方から熱が出て風邪を引かれるかもしれません。
テレビの占いでは何座の今日の幸福度は何%です、などと堂々と放送しています。
信仰者にとって、幸福度はどんなものさしを当てて判断するものでしょうか。
幸福な気分になれたか、不幸に遭ったかで判断してはいないでしょうか。
1日の生活をおえて、床に入る前祈る時にこう思うのです。
「今日はいい事が続いたからいい日だった」、「自分の思うとおりに進まなかったから悪い日」だった。
よいことと悪い事を+-であらわすのであれば、私たちの人生は、病気や怪我ばかりしていたから−続きだとか、今年は風邪を引かなかったから+だった、ということになりがちです。
そして、なんとかそれも帳尻を合わせようとするのです。

それが進んでいくとご利益があるかどうか、という損得勘定で、信じる神様を選ぶという傾向があるのではないでしょうか。

日曜ドラマ「仁」の中で、「神様は乗り越えられる試練しかお与えにならないのです。」という台詞が何度も何度もでてきて私は逆に興ざめしてしまいました。
あの時代に、神様は、現在私たちが考えている神様とは理解が違うはずですから、むやみに聖書っぽい台詞を唱えないで欲しい、と思ってしまったのです。


さて、本日の勧告は8節、9節です。
「皆心を一つに、同情しあい、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」
来年の全国ティーンズキャンプでは、「みんなで広めようナザレンの輪」-みんな主にあって一つ-と、方向性が決められました。

何年も前から関東と関西の中高生キャンプを合同で行いたい、という願いがありましたが、予算的にもなかなか実現しませんでした。
同じナザレンのキャンプなのに妙な対抗意識のようなものがありましたし、どちらか片方に負担をかけすぎてしまわないか、という問題もありました。

今回、全国のナザレンが一体となって「教会の一致」と揚げられております。
「皆心を一つに」とは正にそのことなのです。
ここでの意味は、広く全世界のキリスト者の一致なのです。
信仰における一致を呼びかけているのです。
続いて「同情しあい」とありますが、「同情」という訳は誤解を少し招きやすいと思います。
むしろ「思いを同じくし」や「共感しあい」が良いと思います。
この世が正に終わらんとするとき、キリストに連なる教会が、信仰上の相違からバラバラであってはいけません。
全国の教会学校は生徒不足に悩んでいます。
それぞれの群れが小さくなりつつあり、信仰継承ですら困難な今だからこそ、
同じ神を、同じキリストを信じる教会の群れは、「思いを同じくし」、「共感しあい」なさいと言うことなのです。
このことには、心からアーメンと言うことができるのではないでしょうか。

「兄弟を愛し」はもちろん、冒頭に「皆」とありますように、"兄弟姉妹を愛し"の意味です。
お互いの信仰的立場を認め合う関係は、「憐れみ深く、謙虚になりなさい」との御言葉を満たすものでしょう。

「憐れみ深く」とは、内蔵からその感情が生起するような深く激しい感情の表れであると、ある注解者は説明いたしております。
そして、善きサマリア人が追いはぎに襲われた人を発見したとき、その人を見て憐れに思った感情そのものだと言っておられます。

「謙虚になりなさい」はイエスさまの姿から多くを知ることができるでしょう。
たとえば、マルコ10:35~45を参照してください。
そして、イエスさまはこのように言っておられます。
「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:44,45)
9「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさ
い。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」
テサロニケ一5:15にも「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。」とあります。
マタイ5:38~48には関連した御言葉がございます。
両者の対応関係をある注解者は次のように考察しております。
「悪をもって悪に-----報いてはなりません。」は「悪人に手向かってはならない。」(マ5:39)、「かえって祝福を祈りなさい。」は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マ5:44)、「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」は「あなたがたの天の父の子となるためである。」(マ5:45)と言うことです。また、「かえって祝福を祈りなさい。」はロマ書12:14「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。」に対応しております。
新たなるイスラエルを受け継ぐべきキリスト者が日々の歩みの中でいかになすべきかが具体的に語られております。
9節は特に非キリスト者社会の中に生活するキリスト者にとって、字面状は信仰者としてわかりました、もっともです、と言わざるを得ないことですが、これを実行することの難しさを考えざるを得ません。
9「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」は、大変に重い宣言ではないでしょうか。

しかも、この9節の根本はキリストにあります。
全てがキリストにおいて実現するのです。

フィリピの手紙2章に
「どうか同じ思いとなり、同じ愛の心をもち、心をあわせ、一つ思いになって」
「へりくだった心を持って互いに人を自分より優れたものとしなさい」とあります。
一つとなろうとすること。
共感し同情しあうこと。
兄弟を愛すること。
憐れみ深く人に接すること。
そして、謙虚になること、これらは全て主イエスに倣う事によってのみ実現することです。

心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。
「あがめる」という言葉はペテロの手紙によく出てくる言葉です。
「聖なるものとする」という意味で、キリストが神のものである、さらに、キリストは神である と言う意味になります。
キリストのみ業を思い、御心に生きることによって「キリストを主とあがめて生きる」ということです。
悪口を言ってしまったり、一つとなろうとしなかったり、共感し、同情しあわなくなってしまったり、兄弟を愛さなくなってしまったり、人に哀れみ深く接しなかったりするのは主のみ業を軽んじ、無視することになってしまいます。
逆に、主をあがめることがよくわかれば、14節の「しかし」が「だから」と読むことができます。

しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。

キリストにあって苦しみを受けることが幸いである、と言うことができます。
苦しみの中にあっても、「恐れたり、心を乱したり」することなく「キリストを主としてあがめる」ことができるのです。
そして、そこにこそ幸いを見出すことができるのです。

幸いな週でありますように。

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