日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 主の復活の証人として 2011/5/1  Tペトロ1:3-9

<<   作成日時 : 2011/05/05 10:45   >>

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ロイヤルウエディング英国皇室での結婚式がありました。
テレビでの中継をごらんになられた方もいらっしゃるとは思いますが、結婚式も葬式も、キリスト教にとっては礼拝です。
ですからこの式で一番肝心なことはドレスが誰のデザインでいくらぐらいであるとか、指輪がどうのとかではありません。
聖書の朗読や司祭のメッセージであり、祝祷であるべきです。
英国王室はイギリス国教会頂点ですから、
そして、本人たちにとってもっとも重要なのは神の前に誓うことであるはずです。
日本人にとって、結婚式は本人たち中心のイベントであって、神の前である必要性もなければ、そんな意識すらないのだろうなぁと思いました。
結婚式の本質も理解しない中継がイヤになって興ざめして途中で見るのをやめてしまいました。

また、震災から49日が経ち、諸宗教合同の慰霊祭が石巻で行われたという記事を見ました。
魂を慰めるということは、仏教であろうとキリスト教であろうと大切なことだと思います。
しかし、慰める方向性、祈る方向性が少し違うような気がしました。


さて、聖書日課に従ってペトロの手紙を学びます。
この手紙は使徒ペトロの名前を冠にしていますが、十二弟子のシモンペトロの著作ではないと考えられています。
もっと後の時代の整ったギリシア語であること、旧約聖書の引用がギリシア語訳の聖書からの引用であることなどがその理由です。
それと、生前のイエスを知っているという記述がない事が挙げられます。
ギリシア語に精通したペトロに親しかった者が代筆したという考えもあるようです。
しかし古くから聖書の正典として教会に用いられてきた大切な書簡です。


(1)わたくしたちの喜びは「主イエス・キリストの父である」神さまが「ほめたたえられる」ことです。
(2)神さまは憐れみによってわたくしたちを新しく生まれさせてくださる。
(3)神さまはわたくしたちに「生き生きした希望」をあたえてくださった。

神が褒め称えられる、それは「祝福される」という言葉と同じです。
ことばを崩していうと〈良いことを言う〉という意味の言葉です。
神を祝福する、とは、神に対して〈良いことを言う〉ということです。
ですからそれは、神をほめる、ほめたたえる、ということになります。
私たちは神様をほめたたえるために命を受けているということが出来ます。


聖書によれば、人は二度生まれることができるとあります。
一度目の誕生は、通常の意味における誕生です。
毎年「お誕生日おめでとう」を繰り返す、あの誕生のことです。
私たちは必ず誰かを親として生まれてきます。
誰かを親とする家族の中に生まれてきます。
もちろん、実際にはその親が親としての役目を果たさず、家族が家族としての機能を果たさず、親も家族をも知らないで育つということはあり得ます。
しかし、いずれにせよどのような形であれ、私たちは必ず誰かの子として生まれてくるのであるし、家族の中に生まれてくるのです。
そのようにして私たちはこの人生をスタートする。
これが一度目の誕生です。
もちろん、その誕生は私たちすべてが経験しています。
だから私たちは今、この世に存在しているのです。
この誕生だけを経験して一つの人生を生き、一生を終える人もいます。
しかし、聖書によるならば、人はもう一度誕生することもできるのです。二度目の誕生。それは信仰による誕生です。
信仰によってもう一つの人生がスタートします。
一度目の誕生において、この世の親の子供として生まれたように、二度目の誕生においては、「神の子供としてのわたし」が生まれます。
一度目の誕生において、この世の家族の中に生まれたように、二度目の誕生においては、「神の家族の中にいるわたし」が生まれます。
神の子供として、私たちはイエス様が教えてくださったように、「天にまします我らの父よ」と祈りながら生き始める。神の家族として、「天にまします我らの父よ」と祈りながら生き始める。そのようにして、私たちは二度目の誕生によって始まるもう一つの人生を生きていくのです。
キリスト者はキリストの十字架に与ることによって肉の体は死に、キリストにあって新しく生まれます。
だからこそ主を信じる者は、滅び行く肉の体を棄て、キリストが復活を遂げられたように、肉体の死を遂げても復活の体が与えられ、永遠の生命が与えられる者とされるのです(4節)。
朽ちず、汚れず、しぼまない財産はすでに天国にあります。
その中に、神さまによってキリスト者とされた者は入れられるのです。
これはどういうことか。
私たちはキリスト者とされ、朽ちない祝福に満たされているのですが、なおも地上の歩みを続けています。
地上の歩みは朽ち、汚れ、空しい財産に囲まれているのです。
天における創造者であられる方からの永遠の生命と全ての祝福に与っている者が、なおも地上における朽ちていくものを追い求めていくのですか?
必然的に、生活は変化し、神の国を求めます。
もちろんこれは金儲けを行わず、地位を求めず、世離れした生活をするのではありません。
主が地上にお与え下さった数々の賜物を用いて生活します。ただそれらにおぼれないと言うことです。

そして第二に、それは「生き生きとした希望への誕生である」ということです。
3節に出て来ます「生き生きとした希望」というのは「生きている希望」という言葉です。
テレビでも「希望」という言葉をよく耳にしますが、「絵に描いた希望」ではない希望を
わざわざ「生きている希望」と書かれていることは、もう一方において「生きていない希望」「死んだ希望」もあるということです。
同じように見えても、生きている花と切り花は異なります。
一方には命があり、もう一方には命がありません。
希望にも命のある希望と命のない希望があるようです。
希望が真の命を伴っていなければやがて枯れて消えていきます。
そのような、やがて枯れてしまう希望は、私たちの周りにいくらでもあります。
枯れない希望。命ある希望。生きている希望。
それは神から来るのです。
人間が絶望することはあっても、神が絶望することはないからです。
人間から見て終わりであっても、神にとっては終わりではないからです。
人間にとってピリオドであっても、神にとっては一つのカンマに過ぎないからです。
神はその事実をはっきりと現してくださいました。ペトロはその証人です。
ペトロはキリストが十字架で死んで終わりではなかったことを知っているのです。
キリストは復活した。ペトロは復活の証人です。
人間にとっては決定的な「終わり」である死であっても、神にとって「終わり」ではないのです。その先へと続くのです。
いや、むしろそこから始まるのです。
神様は終わりを始まりにすることのできる御方です。


「証人」とは普通、その人が見たこと聞いたことを忠実に語る人を意味します。
イエスは天に帰られる時に「あなたがたはわたしの証人となる」と言われました。
クリスチャン、信仰者とは、別の言い方をすると、キリストを証言する者ということになるでしょう。
証人は自分が語ることを考え出したり、作り出す必要はありません。
ただ、自分が経験したこと見聞きしたことを語ればよいということになります。
しかし、これが案外難しいのです。
忠実な証人として生きること、これが神様がクリスチャンに期待していることといえます。
実は、ギリシア語では「証人」という言葉と「殉教者」という言葉が同じなのです。
それは、キリスト教の歴史を見ると、信仰を正直に証ししたために多くの人がいのちを失ったことを見ると当然のことと思われます。
現代を生きるクリスチャンにとっても、真実を真実として語ることには勇気が要ります。回りの人々が反対の意見を持っていたり、また正直に語ると自分の生活にいろいろマイナスなことが起こると思われる時は難しいのです。


実際、ペトロの手紙を受け取った人たちは試練の中にありました。
迫害という試練、それは時として命を脅かされるという試練だったのです。
ペトロはその現実を知っているのです。
「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」(6節)と書いているとおりです。
しかし、ペトロは知っているのです。
そこにおいて、本物が本物として輝き始めることを。
あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明されるのだ、と彼は言うのです。
言い換えるならば、二度目の誕生によって始まったもう一つの人生の真価が、試練において明らかにされるのだということです。
それが「火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊い」ことが明らかにされるのです。
暗ければ暗いほど、灯の光は輝く。
光は闇よりも強いことが明らかになるのです。
しかし、もう一方において、現実に教会と共に生きている一人の牧師として、わたしはこんなことを想像いたします。
試練が続くなかで望みを失いかけている人たち、苦しみが続く中にあって信仰を揺さぶられる人たちもきっといたに違いない。
「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです」とペトロは書いているけれど、現実の教会には、試練に揺さぶられて、喜びが吹き飛ばされてしまっている人もいたのではないだろうか。
「私には本当は信仰なんてないんじゃないか」と、そう思ってしまう人たちもいたのではないだろうか。
そのようなことを考えますときに、私はペトロがここであえて「試練の中で偽物が偽物として証明されるのだ」という言い方をしていないことに心を惹かれます。
「クリスチャンと言いながら実は信仰なんてない偽物は試練において明らかにされるであろう」というようなこと、ペトロは言っていません。
大事なことは、「わたしは偽物なんじゃないか」などと言って悩みにさらに新たに悩みを加えることではないのです。
そうではなく、二度目に生まれてもう一つの人生を生きているのだという事実に目を向けることなのです。
ですから、ペトロはまず神様を誉めたたえながら、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」というように神がしてくださったことを語り、そこに目を向けさせようとしているのです。
そうです、本当に目を向けなくてはならないのは、そこなのです。
具体的には洗礼を受けて、信仰生活をスタートさせたという事実にこそ目を向けなくてはならないのです。
二度目に生まれて、神を父として、神の家族の中に生き始めたのだという事実にこそ目を向けなくてはならないのです。

そして、そのことを通して、神さまはわたくしたちに「生き生きした希望」をあたえてくださったということです。

それは、死んでも生きるという希望です。
クリスチャンの人生は、死んだらおしまいという運命から解き放たれています。
主が再び来られるその時に復活させていただけるという希望にあふれたものに変えられているはずです。
それは現実を現実として厳しく見ることの延長線上にある希望です。
根拠のない幻を描くことではありません。
身が裂かれるような現実・事実の前で、イエスを復活させた神の力に頼ることです。
それも、絵に描いたもちではなく、具体的に主イエスの復活によってそのことは証明されています。
そして、神は私たちのために天の国に私たちを迎えていれてくださいます。
さらに地上での苦難の報いが与えられ、神の愛のふところの中で涙の人生も永遠の喜びに変えられるのです。
これが、クリスチャンに与えられた生き生きとした希望。
私たちはこの希望をしっかり見据えて、今の時を歩んでまいりたいと思います。

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