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zoom RSS イースター記念礼拝 2011/4/24

<<   作成日時 : 2011/04/25 18:13   >>

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今年はいつもより遅れてプロ野球が開幕しました。
震災の傷跡が残る中、開幕戦だと浮かれていていいのかという思いと、計画停電のさなかにドーム球場でガンガンと電気を使って試合をすることがいいことなのかというのが主な理由でした。

真贋の程はわかりませんが、本当は計画停電などしなくても電気量は十分まかなえていたという話もあります。
電力会社にたてつくと、生活はこんなに困難になる、原子力発電は必要なのだということをわからせるためにそのようなことをしたのだ、ということを言う人もいます。

放射能は見えないから怖いと言いますが、電気も見えないがゆえに電力会社の言うことを信用せざるを得ないということでしょうか。

私たち日本人が電力に依存し、電気さえあれば何でもできる、という便利な生活に慣れすぎてしまったことに問題があるのだろうと思います。
省エネ家電、地デジ化のあとは、原子力を推進して、電気自動車を売ろうとしていたという策略があったという人さえいます。
憶測ばかりでものを言うのはよくありませんけれど、どうもそのような経済至上主義てきなものを感じます。

花見を自粛するとか、お祭りごとは縮小するなどの声が上がっているようですが、仙台は七夕祭りを今年も開催するそうです。
規模は縮小するものの、「復興を願う祭りにしたい」として一つの目標としています。
被害が大きくいまだにライフラインの整備も整わない石巻市も花火大会を行うという決定をしたそうです。
みなが一体となって地域を盛り上げ、頑張っていこうという姿がそこにあると思います。


地震の被害、津波の被害と原子力発電所の問題は別にして考えないといけないと思います。
地震や津波は天災ですが、原発事故は明らかに人災だからです。
壊れてしまったものは棄てて、新しく作り直せばもとのようになります。
しかし、放射能はそうではありません。
汚染してしまった場所は広大で、棄てる場所も制限されています。
迅速な対応を と言っても 具体的に誰がどのようにやるのか。


それは、命が軽んじられている現実を見せ付けられているように思えてなりません。
しかし、そのような中でも やはり私たちはイースターおめでとう!と声を大にしていいたい。
あの十字架につけられた主イエスご自身が私たちに「よろこびなさい」と言われるからです。

今もなお、悲しみ、苦しみ、困難の中に居られる方にとっては、不謹慎かもしれませんが
人類史上最大の出来事であるイエス・キリストの復活によって、私たちの罪が赦され、完全に義とされ、神の子どもとされました。
それは、私だけの出来事、教会に行っている人だけの出来事ではないからです。

この出来事によって、失望から希望へ、暗闇から光へ、死から命へ移されています。

イエスさまが神の子であられたことは、聖書に書かれているさまざまなできごとに示されています。
神の子であられるならその方は聖なるお方、つまり罪のないお方です。
そんなイエスさまが十字架にかかられて処刑されたのですから、それはイエスさまご自身に原因するものではありません。
イエスさま以外のだれかの原因によるものだっていうことがわかります。
では、それは誰に原因があるのか。
それはつまり私たち人間の罪、人間の罪の結果である刑罰とのろいを、神の子が身代わりに受けられたっていうことです。

「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた(イザヤ書53:5)」と聖書にあるとおりです。

そうして、そのように苦しみを受け、死なれたイエスさまがよみがえられました。
この「よみがえり」は、単純にもう一度生き返る、というゾンビのようなものではありません。
そうではなく罪の結果である「死」を打ち負かし、罪びとがゆるされて生きるようにという神さまのみこころのあらわれなのです。
言い方をかえると、この世に人として生まれ、苦しみを受け、よみがえられたイエスさまの歩みそのものが、神さまからのメッセージだということです。
それと同時にそのメッセージがほんとうであることの動かない証拠なのです。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。」イエスさまはそう言われます。
そして、このイエスさまを信じるなら、たしかにイエスさまを通して与えられた罪のゆるしが受けられるのです。

人はふつう「良いことをすれば天国に行ける」と考えます。
しかし、聖書の教えではそうではありません。
天国への道を開いてくださるのは私たち自身の努力ではなくってイエス・キリストです。私たちに求められていることは、ただこのお方を救い主として信じることです。

イエス・キリストはよみがえられました。
今も生きておられます。
あなたと共におられます。

そこに絶望が絶望で終わらない希望があるのです。
墓はすでに空っぽなのです。
絶望は絶望で終わらなかった!
今、本当に絶望するような中にあって主イエスが「喜びなさい」と声をかけてくださる。教会は、そのことを本当に信じて歩む群れでありたいものです。

さて、主イエスは「ガリラヤでわたしと会うことになる」と言われました。
ガリラヤとはどこでしょうか。
仏教には、悲願ではありません。


ガリラヤはイエスが生きた場所です。
ガリラヤで、弟子たちは初めてイエス様に会った。
ガリラヤは、弟子たちにとって、信仰の出発点だった。
イエス様を裏切って失敗したり、辛いことがあったエルサレムからもう一度、イエス様と一緒に過ごしたあの場所に戻りなさい、信仰に立ち返って、新しい出発をするのです、と励ましてくださったんだね。
悲しみは喜びに変えられ、死はいのちに変えられ、大失敗はイエス様を深く愛する心に変えられた。ここがみんなのガリラヤ。
私たちも新しい出発をしましょう。

主イエスが罪人としてレッテルを張られ、虐げられた友と共に食事をされた場所です。
そして湖のほとりで弟子たちを召し出されたあの場所です。
そして神の国の福音が宣べ伝えられた場所です。
そこへ行けばイエスに会えると言うのです。
現代に置き換えるならば「ガリラヤへ行きなさい。そこで私と会うことになる」とは「痛みのあるところで私と会うことになる」ということでしょうか。

痛みのないところでは、私たちは本当の意味で主に会うことができないのかもしれません。

掲示板に仙台の宮城野区蒲生というところにあった教会の写真を掲示してあります。
瓦礫の中に礼拝堂の十字架でしょうか、十字架だけが立てられ、その元に人々が集まっています。

主イエスのガリラヤでの歩みはまさに「痛み」と共にあったのです。
痛み苦しむ者と常に共におられた。
そして、その歩みの極みがあの十字架での「痛み」であるのではないでしょうか。
今、私たちの周りに「痛み」が溢れている。
また誰にも分かってもらえない苦しみの中であえぐ人がいる。
そのような中でガリラヤの主イエスの歩みを思い起こせといわれているのです。
なぜならば、天使が言うようにすでに先に立って主イエスがそこにおられるからです。そこで私たちは復活し今も生きておられる主イエスに出会うのです。

パウロは、Tコリント15:17〜19で、もしキリストのよみがえりが嘘であったら、キリストを信じている人たちは今なお罪の中にあり、この世にあって単にキリストに希望をおいているだけのすべての人の中で一番哀れな者であると言っています。

復活の主を信じて、それぞれのガリラヤへ希望をもってここから遣わされていきましょう。

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