日本ナザレン教団 成田キリスト教会

アクセスカウンタ

zoom RSS 永遠の命なる神  2011/4/10 Tヨハネ5:12-21

<<   作成日時 : 2011/04/10 18:08   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0





ここまで第一ヨハネを学んできました。
ヨハネ福音書に比べれば短い期間でしたが、できるだけじっくり学べたのではないかと思います。
このヨハネの手紙1は、手紙と名がつけられていますが、23とは異なり当時の手紙の形式に則っては居ませんし、挨拶も結びもありません。
ヨハネの福音書が書かれ、既に教会で用いられていたにもかかわらず、教会内に起こった新しい考え方による分裂に対して警鐘を鳴らす目的でかかれました。
書かれた相手は個人ではなく、ヨハネ共同体に向けてでしたから、副読本のような位置だったのかもしれません。
ですから、逆に伝えたいことをストレートに書き記していると言うこともできるのではないかと思います。
その目的を13節で説明しています。

このような時に改めて思わされることは、わたしたちにとって本当に大切なのは、生活上の安定なのではない、ということです。
そういったものはすぐにも消え去るものであるということを、今回の地震も教えてくれています。
私たちにとって本当に必要なもの、それは私たちの魂の飢え渇きが本当に求めている場所なのです。
今日はこの日本中が心を痛めている中で、本日の御言葉の恵みに与りたいと思います。

一読して 印象に残ったのは「私たちは知っています」と繰り返されているところです。
これは信仰告白です。
礼拝に集ってきている人たちが、お互いに 「知っていること」、「信じていること」、「大切にしていること」を確かめ合うのです。

「永遠の命」「愛」「交わり」という三つの言葉がこの手紙の重要なポイントでした。
この「永遠の命」という一番大事なことについて、結論となるこの部分で、読者に、確信を持っていただきたいという願いで、ヨハネは再度訴えているのです。

私たちが「永遠の命」を既に得ているということを読者に強く訴えています。
この「永遠の命」は、時が来ればそのうちに頂けるというものではありません。
信仰生活を一生懸命頑張っていれば、いつか頂けるというものでもありません。
実は、私たちは既に「永遠の命」を頂いているのだというのです。
「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ5:24)
イエスさまを信じるものは、「永遠の命」を頂いて、義とされている、だから神さまの前に立っても裁かれることはない。
そして死からも自由になっているのです。
「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
「永遠の命」という言葉は、いったいどういう意味を持っているのでしょうか。
普通はお墓の向こう側の命、という風に考えがちです。
死んだ後も命が永らえる、それが「永遠の命」だろう、とこう思われがちです。
はたしてそうでしょうか。

マタイ19:16-22に一人の男性と主イエスとのやり取りが記されています。
後半部分を見ると、この男は青年で、資産家であることが分かります。
律法も詳しく勉強している、いわゆるエリートです。
それなりに地位も名誉も財産もあったことでしょう。
本来ならそんな若者が、死んだ後の命を求めて、イエスさまのところへ来るでしょうか。
この若者は、何か心の奥深くに、まだ何か足りないものを感じていたのではないでしょうか。
そしてイエスさまのところへ来て「永遠の命」について尋ねたのです。
聖書の言う「永遠の命」とは、決して、死後も命がつながるというものではありません。
攻撃されても倒れないゲームのボスキャラ、死んでも生き返るというゾンビのようなものではありません。
この「永遠の命」というのは、今私たちが持つことの出来るものなのです。
どんな時も、自分の境遇や環境がどのような状態であっても、なおその中で感謝ができるような命。
人間はこれとこれが揃えば幸せだ、というような条件が崩れても、その中で喜ぶことが出来るような命。
「永遠の命」とは、いつか先のことではなくて、今、今日このところにおいて普通の人が、自分中心にものを考える考え方から、大きく変えられることです。
そういう力、普通は不平不満を言い、人を呪い、神を呪ってもおかしくないような状況の中で、神さまを讃美し、感謝し、そして周囲の人たち、かつては憎いと思っていた人たちへも感謝が出来る。
今自分が満たされて、生きていることが喜びであるというような生き生きした命、これが欠けていたために、この青年はイエスさまのところにきたのではないでしょうか。

14-15節は私たちの祈りについて説明しています。
神さまは私たちの願いを聞き入れて下さいます。
そして神のみ心が成るようにと願って祈れば、必ず聞き入れて下さるというのです。
これは祈りの極意です。
人間にとって一番卑怯なことは、あいての弱みに付け込むことではないでしょうか。
被災者詐欺、放射能詐欺 などというのがもう出ているそうです。
祈りの最低のレベルは、神さま是が非でも、私を儲けさせて下さい、私を良くして下さい、私を有利にして下さい、といったことから始まります。
一方、相手を思い、尊重する執り成しの祈りがあります。
自分が良くなるように、得するようにというようなご利益から離れて、他の人の幸せのためというような祈りへと発展していくのです。
そして最も重要な祈りは、神さま、あなたのみ心が成りますように、それに私が少しでもお手伝いできれば、私を用いて下さい、という祈りだと思います。
そして神さまはそういう祈りを一番喜ばれるのです。
そういう祈りは、必ず引き上げて下さる、というのがこの約束です。

神さまのみ心にあわせて祈ると神さまのご意思ならば必ず成る。
イエスさまはゲッセマネでそういう祈りをされました。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)
私たちがお祈りするとき、「イエス・キリストのみ名によって」「イエス・キリストのみ名を通して」とこう祈ります。
私は様々な祈りをささげましたが、主イエスのみ名というふるいにかけてくださって、御心に適ったものをきいて下さい。
という意味がそこにあるのです。

ですから、主のみ心にそって祈る祈りは必ず聞かれる、という確信を持ちたいと思います。

そして16-18節において「死に至らない罪」と「死に至る罪」について説明します。
「死に至る罪」とは、もう許されることのない罪、滅びる以外ないという罪ということでしょうか。
この世的な「執行猶予」のようなことでしょうか。
「死に至らない罪」については、その罪を犯している兄弟のために、執り成しの祈りをささげ、「永遠の命」が与えられるよう願いなさい、といっています。
しかし、「死に至る罪」に関してはその限りではない。これはどんな罪を指すのでしょう。
「人が犯す罪や冒とくは、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒とくは赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタイ12:31-32)
「死に至る罪」とは、聖霊に逆らうこと。
これは神のみ心だと分かっているのに、それを否定したり、逆に、神のみ心ではないということが分かった上で、それを犯したりする罪、つまり故意の罪をのこすとをいうのです。
過失致死、過失傷害といった言葉のように、誤って傷つけたという場合と、故意に、殺意を持って人を危めた場合とは、全く刑の重みが違います。
18節に「神から生まれた者は罪を犯しません。」とあります。
信仰者は人間ですから、また罪を犯すことがあります。
不注意な過ちを犯すこともあるでしょう。
しかしそれを弁護し、許して下さる神さまいらっしゃいます。
神さまは愛であると同時に義である方で、義であると同時に愛である方だということをここから教えられます。

偶像を避けることを21節で勧めます。
偶像とは、偽りの崇拝物です。
拝むべきは、イエス・キリストと父なる神のみであって、それ以外のものを第一とするならそれは偶像です。


「偶像」は、文字通りには、人の手で作られ拝まれるものです。
しかし、それ以外にも目に見えない偶像もあります。
ここでは、私たちが偶像を作り出す心も問われます。
私たちは、自分の足りないものを満たすことを考えます。
自分の不安を取り払うように、どこかに確かなものがあると思い、あちらこちらを探し回るのです。
手紙は、そんな私たちを「偶像を避けなさい。」と言って送り出すのです。
「偶像を避けなさい。」と手紙を終える伝道者の忘れられない言葉に「神は愛です。」があります(Tヨハネ4:16)。
主なる神は、私たちへの愛を御子イエスによってお示しになります。
私たちのために苦しむことを選び、私たちの罪を一手に引き受けて、主イエスは、十字架と復活を成し遂げられました。
偶像を避けることは、この神の愛をまっすぐ受けとめることです。


人間には、虚栄心、名誉などといった、自分の心や生活において、自己優位性があります。
それは、自分自身を神さまよりも勝るものとして位置づけているものです。
自己のメンツや体裁ばかりを気にしていて、自らの落ち度を認めない、それは明らかに自分自身を偶像化していることになるでしょう。
十戒には、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」とあります。
ところが自分の名誉とか虚栄心とかが自分の中にあると、それがその人にとっての偶像、神さまとなってしまうのです。

「礼拝」という言葉は英語で“worship”です。「worth(価値)+ship(抽象名詞をつくる語尾)」というところからきているそうです。
つまり「神を最高価値とすること」、それが「礼拝」なのです。
「子たちよ、偶像を避けなさい。」(21)との言葉で手紙が締めくくられています。
この一言は、最初に学んだように、当時の異端との激しい戦いの中にあって、信仰を守りぬくために、愛情と力に満ちた言葉であると感じます。

手紙の冒頭は、「初めからあったもの、わたしたちが聴いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます」というものでした。
私を救い、私を愛する者をも救う神の愛を、この十字架に至る愛を、死を打ち破る愛を、主なる神の愛の強さを私たちは知っています。
私たちに現われた永遠の命である主を、私たちは見て、証し、伝えるのです。
生きていれば、心細くも、弱くもなります。
しかし、主は大胆に踏み出すように、私たちを導いてくださいます。
何より、主なる神は、御子を世に送られ、永遠の命へと私たちを大胆に招いてくださいました。
それゆえに、私たちは真実の神の愛に生き、歩むものとなるのです。

「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)
イエス・キリストを知ること、信じること、ここに「永遠の命」の確信があるということに感謝します。

月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
永遠の命なる神  2011/4/10 Tヨハネ5:12-21 日本ナザレン教団 成田キリスト教会/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる