日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 神からの命を受ける 2011/3/27 Tヨハネ5:1-5

<<   作成日時 : 2011/03/27 18:40   >>

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春の選抜では阪神淡路大震災の時に生まれた子供が、高校生として戦っているそうです。
プロ野球は、開幕を遅らせることと、電気消費量の多い東京ドームでのナイターを自粛することなどでの合意を得て開催するそうです。
何でもかんでも自粛するのがいいか、というとそうではないと思いますが、かたや動くこともできず、いつ停電するかという思いでいる人もいる中で
煌々とライトを点け、空調をまわしてドームでナイターをせずともいいのではないか、という話になってきます。

いっそのこと、仙台球場を直して毎日仙台でのカードを組む、夏までに東北各地の球場を直して東北でナイターをする、位のことができないかと思います。
そうすれば、興行だけでなく、東北での雇用や人が動くことによって観光などでのお金が東北に落ちることになりますし、風評ではない情報が全国に広まるような気がします。

さて、イエス・キリストを信じる私たちは皆、神さまから生まれた者であると、今日の聖書の最初に書かれています。
主イエスを神の子と信じるものは、神さまから生まれたものだといっています。
「神さまから生まれた者」という言葉は、何とも魅力的な言葉に聞こえます。

ヨハネ福音書3:3-21にニコデモという議員と主イエスとのやりとりが記されています。
信仰とは、深く勉強したり、修行したりすることによって救いを見出すのではありません。
もともと罪人である私たちは、唯一、霊的な意味での生まれ変わりを経験しなければならないのです。
しかし、そのよく意味がわからなかったニコデモは、「それはもう一度母親の胎内に戻って、もう一度生まれてくるということですか。」とたずねました。
主イエスのお答えは、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ3:5)でした。
イエス・キリストを信じる信仰によって、そして水はバプテスマ、バプテスマの礼典を通して生まれ変わりなさい、と主イエスはおっしゃったのです。
「生まれる」という言葉が使われていますが、人間が「生まれる」ときは、自分の力だけで「生まれる」ということは出来ないわけで、生命を頂いて生まれさせられるわけです。
日本語では能動態で「生まれる」と言いますが、英語では“be born”と受動態です。
主イエスを信じることによって、霊によって生まれさせられる、それが神の子なのです。

卵の孵化を思い出してみてください。
ヒヨコは自らのくちばしで卵の殻を破って出てきます。

しかし人間は、いくら自然分娩などと言っても、生まれ出る赤ん坊の力では生まれてくることはできません。

「生んでくださった方」(1)とは神さま、「その方から生まれた者をも愛します」(1)、同じみ救い与った者を愛するようになりますという意味です。
別な言い方をすると、神さまに愛されている者は、必然的に、神さまに愛された他の人をも愛するはずです(大きい意味では、私たちは神の家族の一員であり、兄弟ですから)ということです。
愛はタテの関係とヨコの関係が相互に働くものなのです。

「世に勝つ」とはいったいどういう意味でしょうか。
世(world)は、神に逆らっているもの、み心に背くもの、それらを全てを含んだものをいいます。
広い意味では、神と敵対するこの世の傾向、モノの考え方、唯物主義、刹那主義、ご都合主義、これらすべてがこの世です。
そして狭い意味では、自分自身あるいは自分の中の自己中心の心ということもいえます。
自己を愛し、或いは肉欲のままに生きること、また自分の中にある汚い心、ねたみ、憎しみetc.。


スポーツ選手でも「最大のライバルは自分です。」という人がよくあります。
このくらい練習したから、もういいや、5回に1回はできるようになったからもう練習をやめよう。
そう思ってしまう自分自身の心の中に敵がいる と言うことなのかもしれませんし、
昨日の自分に勝つ、ということもあるかもしれません。
自分の心の中にある悪をやっつけるのは難しい。案外一番大きな敵は自分自身かもしれません。
この「世に勝つ」ということは、大変なことです。しかし「世に勝つ」ことが出来るのは、実は信仰なのだというのです(4)。

信仰というと、目に見えないものを信じることですから、一番頼りなく思われるかも知れません。
しかし本当に解っている人にとっては、信仰こそが「世に勝つ」力だということが解ります。
「世に勝つ」力はお金ではない、名誉でもない、信仰こそが世に勝つ勝利の力なのだと、ここでは強く訴えています。

パウロは(コリント第二5:6-8)で「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるから心強い」といっています。
この世の人は信仰は心強いどころか、不安をもたらすものだと思うでしょう。
しかし、私たちにとっては、信仰こそ心強い。
また(フィリピ4:11-12)では、「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」と言っています。

人は貧しいと卑屈になったり、犯罪に走ろうとしたりするものです。
このあと何かあったら不安だからと買占めをしてしまう。
もしかしたら、もっと手に入りにくくなるのではないかと長蛇の列を作ってガソリンを買いあさる。
逆に豊かになると傲慢になって、神さまから離れ、他人のことも顧みないような者になってしまいがちです。
人間の弱さとあさましさとでも言うべきでしょうか。
己に勝つことは私たち自身の力ではとても難しいことなのだと思います。

ところがパウロにとっては、豊かなときは、神さまの恵みだと受け止めて、感謝できるというのです。
貧しいときには、主イエスの貧しさに比べれば大したことではない、といって、むしろ貧しい中で、神さまを信頼する心がいっそう深くなることに感謝する。
どういう境遇にあっても足ることを知る。
なぜかというと、同じ(フィリピ4:13)に、「私を強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」と書いています。
そしてついには、(フィリピ1:21)「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」という境地にまで達しています。
キリストが私のうちにいきておられる、だから死ぬことは利益である。
なぜなら「永遠の命」が与えられ、全き救いに導かれるとき、この世で欠けの多い者が豊かに満たされて、全き自分として生きるときが来るという確信があるからです。
自分自身の力だけではどうすることもできないけれど、聖霊の助けによって、わたしたちは強められ、己を克服することが可能になるというのです。

「勝つ」という言葉は、英語では“overcome”という単語が使われます。
overは「上に」、comeは「来る、行く」という意味で、やっかいな障害を取り除いて行く、ということではないのです。
どんな困難があろうとも、その上を行くということ。
信仰によって、人知を超えた神さまのお力によって、はるかに高いところを行くことができる。
障害が全く気にならなくなるほど、愛の力が増し加えられることによって、“overcome”(勝利)するのです。

神さまが私たちを愛していてくださることを信じる信仰が心にあれば、どんな試練に出会ったとしても、神さまの助けや励ましを生活のどこかに見つけだすことができるでしょう。
そして、神さまの愛に頂いた力で、世の闇に打ち勝って、また一日前に進んでいくことができるのでしょう。

今日の聖書の4節から5節に、私たちが試練に打ち勝って生きていくことができるという励ましの言葉が書かれています。
「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に勝つ信仰、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」。

私たちが試練に負けないで、前を向いて歩いて行くことができるように、神さまは主イエスをこの世に遣わし、その命をかけて私たちの罪を滅ぼしてくださいました。
私たちは過去に犯した罪にとらわれることなく、今日一日を新しい気持ちで、大事に生きることができるようになりました。


神さまの愛が、つねに私たちを守り、私たちを世に勝たせてくださる。
これを信じながら、くじけずに、今年も一年、生きていきましょう。
きっと日々の歩みの中で「生きていてよかった」という瞬間に出会える。そう思います。皆さんの上に、神さまの恵みが豊かにありますように。


主イエスがニコデモと話しておられるときのことを思い出してください。
「だれでも新しく生まれなければ、神の国に入ることはできません。」という主イエスのことばに対して、ニコデモは、何のことだかさっぱり分かりませんでした。イスラエルのためにメシヤが来られて、この世界の神の国が立てられるという約束を信じていたニコデモですが、なぜその約束が、「新しく生まれなければ」与えられないのかと疑問に思ったと思います。
そこで主イエスは、「新しく生まれなければならないというのは、肉の誕生ではなく、霊の誕生のことである」ということを教えられました。
それでも合点がいかないニコデモに対して、主イエスは旧約聖書に出てくる「青銅の蛇」を引き合いに出して、どのようにして新しく生まれることができるのかをお話になりました。
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければいけません。それは信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。(ヨハネ3:14−15)」
「人の子」というのは、旧約聖書においてメシヤを指しています。
メシヤが、青銅の蛇のように上げられなければいけない。
そしてメシヤを信じる者がみな、永遠のいのちを持つ、つまり新しく生まれることになる、と教えられました。
私たちは、「イエスがキリストである」という信仰によって、神によって生まれました。
生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。

前回の4章の学びは、「神を愛する者は兄弟を愛すべきです(4:21)」という言葉で終わっていました。
この手紙は、「イエスは神の御子キリストである」という宣言と、「兄弟を愛しなさい」という勧めの二つによって成り立っていると言っても過言ではありません。
この兄弟を愛する理由の一つとして、「同じように神によって生まれた者」ということができます。
私たちは神によって生まれたので、生んでくださった神を愛することができます。
そして、同じように神によって生まれた人だから、その人も愛することができる、ということです。
私たちは、クリスチャンとしてただ独りで生きられる者ではなく、愛し合うという関係と交わりの中で生きていくことができます。
私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。
神を愛して、その命令を守ることによって、神の子どもたちを愛していることがわかります。
もし仮に兄弟のことを思っていて、神の命令に反することを行なうのであれば、それは兄弟を愛しているのではありません。
神を愛して、神の命令を守っている中で、その愛にとどまっていることによって、兄弟たちを愛することができるのです。
神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。

非常にはっきりと書かれています。
神を愛するとは、神の命令を守ることです。
私たちは神を愛すると言いながら、その命令を守ることを避けようとします。
けれどもそれは神を愛していることにはなりません。

そして、よく覚えていなければいけないのは、「その命令は重荷とはならない」ということです。
命令、命令、というと、重荷に感じてしまうのが私たちの肉です。
けれども、神によって生まれた者として、神を愛して、神の命令を守りたいと願う、その願いが与えられています。
神の命令を守ることを重荷ではなく、主にある平安のうちに行なうことができます。
命令を守ることのほうが、むしろ要らぬ心配、重荷、その他もろもろの人間的な行ないから解放されるでしょう。
なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。
私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。

私たちが神の命令を守ることが重荷にならないのは、ここに書かれているとおり、信仰によるからです。
主イエスは、群集から、「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか?」と質問されました。
主は、「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」と答えられました。
イエスを信じることそのものが、すでに世に打ち勝っていることであり、すでに私たちを勝利者の位置においています。
そこで、神の命令が与えられても、それを守る力が与えられており、神を愛する愛からそれを行なうことができます。
世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
先ほどは、イエスがキリストであると信じる者が神によって生まれる、とありました。ここでは神の御子と信じる者、となっています。
イエスが、カリスマ的指導者であり、今の困窮から自分たちを救い出すような存在であれば、それはイエスに対する真の信仰ではありません。
そうではなく、イエスが、父なる神のふところにおられた独り子としての神であるという信仰が必要です。
イエスがキリストであるということを受け入れるのは、信仰が必要ですが、イエスが神の御子であることを受け入れるのは、もっと信仰が必要でしょう。
それは、イエスを神として、この世のそのほかのものはみな神としないことです。
世界はイエスによって造られ、イエスがすべての主であることを認めることです。
イエスによってのみ救いがあり、その他の可能性をすべて排除することです。
しかし、イエスを神の御子であると信じるときに、私たちは神によって生まれ、そして世に打ち勝つ者となります。

どんなに辛い時でも、神さまは私たちを上から下から包み、心に中で励ましてくださるから、大丈夫です。
この時にまた、私たちは神さまの赦しと励ましによって、また新たな力をいただき、何が起こるかわからない新しい年度に足を踏み出していきます。
神さまが共におられるということをいつも感じていれば、すべては神さまのみ心によって、何らかの形で道を示し最善へと導いてくださいます。
そう期待し、希望をもって一歩一歩進んでまいりたいと思います。

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