日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 神にとどまる民  2011/2/6  Tヨハネ2:28-3:3

<<   作成日時 : 2011/02/07 00:48   >>

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本日の朝日新聞の1面の見出しは「大相撲春場所中止」でした。
今年の成田山新勝寺には、大河ドラマの主役となる上野樹里さんやばると関などが来て、豆まきをしたそうです。
大相撲の賭博問題、八百長問題が取りざたされています。


このヨハネの手紙の著者は自らを「長老」と名乗り、ガイオ(ガイウス、カイオス)なる人物にあててこの手紙を書いています。
『使徒言行録』19:29にはパウロの同行者としてマケドニア人ガイオ、20:4にはデルベのガイオ、『ローマの信徒への手紙』16:23にはコリントのガイオなる複数の人物名が登場しています。
しかし、この手紙の宛名人がこういった人々と同一人物なのかどうかは不詳です。
長老であるヨハネがこれだけの手紙を書いたのですから、よほどの熱意があったものと思われます。
どうしても書きたかった、一刻も早く伝えたかったことがあったからです。

ヨハネが一貫して心に留めていたこととは、本物の信仰と偽物の信仰の違いについてでした。
キリストを信じる信仰が名ばかりのものであってはなりません。
真実の信仰に基づいた生活となるように、それが願いでした。
実際には、この当時、信仰に関する知識を競ってみたり、誇ってみたり、思いもよらないことで教会は動揺させられていました。
ただでも外側からの弾圧に耐え忍んでいるキリスト者たちでしたから、内側からのこのような動きに対して非常にもろかったのだと思います。

キリストの十字架とは無縁なことが教会に入り込んでいたと考えられます。
それら一つ一つが聖徒の交わりを損ない、互いに愛し合う交わりを歪めていました。


現代を生きる私たちに、もし明日世の終わりが来て、再臨があると告げられたらどうでしょうか?
主イエスにお会いできるとワクワクするでしょうか。
この世でまだ遣り残したことがある、と後悔するでしょうか。
私たちが時を選んで生まれてくることができないのと同様、私たちの命の終わりは私たち自身で決めることができません。

この手紙の時代の人々は、自分たちが生きているうちに、天に昇られた主イエスが再び来られると考えていました。
ですから彼らには期待と共に緊張感がありました。

果たして「自分は胸を張って主イエスの前に立つことが出来るのか?」ということからの緊張です。
しかし、もうこの時代には、そんなことは起こらないと主張する偽預言者も現われていました。
世の終わりが近い、このとき、偽預言者があらわれ、神様の福音がゆがめられて伝えられていました。

そこでヨハネは「とどまる」という言葉を、27節、28節に3回も用いています。
これは24節にも3回出てきました。
「だから教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(2章27節)だからとどまる必要があったのです。
とどまるとは、ヨハネの福音書15章5節で「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」と繰り返される「繫がっている」という言葉と同じです。

ヨハネは反キリストについての部分を終えるにあたって、様々な教えや風潮に惑わされることなく、愛の道を歩むために「御子の内」にとどまりなさいと繰り返し命じるのです。
そしてこの部分を始めるにあたって、もう一度同じ言葉を繰り返します。
言うまでもありませんが、それが魂を健康に保つ上で非常に大切なことだからです。
ではイエスキリストの内にとどまるとはどのようなことを意味しているのでしょうか?
それはキリストの体の一部として生きているということです。

約束を信じて希望を持って働き続けることは時に困難を覚えます。
しかし現代の教会は100年どころか2000年の歳月が経っても、この希望とそして緊張感を持っているからこそ健康を保って存在することができるのです。
たとえ命のあるうちに再び来られる主イエスにお会いできなくても、自分がこの地上での命を終えるときのことを考えるなら、同じ希望と緊張感を持たざるを得ません。
ちょうど、家の中で命じられた仕事をしながら留守番をする子供たちのように、主イエスを待つのです。
仕事をせずに遊びほうけて主イエスをがっかりさせたくないという気持ちから来る緊張感と素晴らしいお土産を持って帰ってこられるという期待を胸に人生を生きているのです。
そのように「御子の内に」歩み続けられるのは、私たちが主イエスを信頼しているからです。

「バプテスマを受けたからクリスチャンですが、目に見える体に属してはいません」というのでは御子の内にいることにはなりません。
帳簿上で何々教会教会員というだけでも、特定の教会の礼拝に定期的に出席していると言うだけでも不足です。
とどまるということは、居たくないところに無理矢理居させられることではありません。
教会は生きて働くキリストの体です。
主イエスと一緒に、今与えられている働きを忠実に果たしているということです。

私たちは主イエスが正しい方だと知っています。
そうであるなら、キリストの体であり、神の子供たち、神の家族である私たちも義を行なう者として、世におかれているということです。
目に見える不義に目を背けるわけにはゆきません。
私たちは神様に、自分ができることを見つけて不義を正すことを期待されています。
ただ私たちには限界があります。
全てのことを行なうことはできません。また正しいと信じてしていることでも後で誤りだと気がつくことがあります。
私たちがするべきこと、しなくても良いことを、神様にしっかりと聞きながら歩む必要があります。
そうでなければ主イエスを主とするのではなくて、自分を主とする者になってしまい主イエスの内から迷い出し、正しく歩むことはできなくなってしまいます。


神様があなたをどれほど愛しておられるか、考えたことがあるでしょうか。
勿論、神の愛を知り信仰生活を送っておられるのですから、神の愛を知らない方はいらっしゃらないはずです。
ヨハネのように、私もあなたに言いたいのです。
あなたは神様に自分の子供として愛されています。
親は喜んで子供のために犠牲を払います。
事実、神様は私たちがもう一度神様の家に子供として帰れるように、私たちの身代わりに主イエスをとなって、神様に背を向けたという罪のために死をもって償われました。
創って下さった神様に背き自分を神のようにして歩むことは、死をもってしても償うことのできない大きな罪です。
この時代にささげられた傷のない動物の犠牲でも不可能でした。
犠牲となれるのは罪のない一人の人だけです。
そしてそのような人は、イエスキリスト以外には一人もいないのです。
聖書はあなたが現状に満足できないこと、怒り、悲しみ、無力感、依存症といった問題の根本にこの罪があることを教えています。
どうぞあなたもこの罪を悔い、イエスキリストの十字架を信じ、主イエスに従って生きる新しい道を踏み出して下さい。
2節は既にこの歩みを始めている人々を励ましてくれます。
私は大人になるまで神様を知りませんでしたから、もちろん自分が牧師になるとは思ってもいませんでした。
クリスチャンになってからも、数年間は思ってもみませんでした。
神様の私に対する計画をもっと前に知ってしまったなら、ヨナのように逃げ出していたに違いありません。
絶妙のタイミングで示されたので、ためらうことなく方向転換をしました。
そして、与えられた務めを楽しんでいます。
それは自分なりにうまくやれていると言う自信があるからでは決してありません。
自分がどれほど主イエスの姿から遠いかということは痛いほど分かっているのです。
でも神様がこんな私を子供としてくれたことを思えば、今自分がどれほど主イエスに似た者となっているかはたいした問題ではないことが分かります。
終わりの日まで完成はありません。
しかし神様の子供という事実は既にあり、家出をしない限り誰にも奪われることはないのです。


ここの書かれていることは、キリスト者はキリスト者らしく自分の身を清めなさい、と言う命令ではありません。
主イエスに再び実際にお会いでき、しかも自分も主イエスに似た姿に変えられるという望みを持って歩み続けるなら、主イエスの清さに近づいてゆけるという良い知らせです。
いつ終わりが来るのか、自分はいつ天に召されるのか、そんな心配はする必要がありません。
いつも御子の内にいるなら、今の状態がどんなにも未熟であっても、いつその時が来ても大丈夫です。あなたは神様の子供なのですから。
いつでも、神様の子供として、胸を張って主イエスの内にとどまっていましょう。



私たちは主イエスが正しい方だと知っています。
そうであるなら、キリストの体であり、神の子供たち、神の家族である私たちも義を行なう者として、世におかれているということです。
目に見える不義に目を背けるわけにはゆきません。
私たちは神様に、自分ができることを見つけて不義を正すことを期待されています。
それは先週お話しした、世界を愛することの一つです。
ただ私たちには限界があります。
全てのことを行なうことはできません。
また正しいと信じてしていることでも後で誤りだと気がつくことがあります。
私たちがするべきこと、しなくても良いことを、神様にしっかりと聞きながら歩む必要があります。そうでなければ主イエスを主とするのではなくて、自分を主とする者になってしまい主イエスの内から迷い出し、正しく歩むことはできなくなってしまいます。


ヨハネはキリスト者が反キリストの惑わしに屈することなく、しっかり立つように薦めます。
そのためには御子からいただいた、油を持つ者であることを自覚し、御子の内にとどまる必要があると説明しているのです。
油とは聖霊のことです。
生前主は弟子たちに、聖霊を与えること、聖霊はすべてのことを教えてくださること(ヨハネ14:16以下)を約束されました。
それが、ペンテコステの日に実現し、彼らは聖霊を受け、主の教会が誕生しました。
以来教会は聖霊に教えられ、真理を悟り、偽りの霊を見分け、真理を知っているのです。
聖霊は唯一の教師で、誰からも教えてもらう必要はないのです。
聖霊ははじめから聞いたこと、すなわちイエスの人格と業を、福音として教え続けておって下さるのです。
キリストの内には知恵と知識の宝がすべて隠されているのです(コロサイ2:3)。
この油としての聖霊は、キリスト証言である聖書と教会の礼拝を中心にする生活によって誰にでも与えられるのです。
それをしっかり受け止めて生きることが、御子の内にいつもとどまることなのです。

つまり、キリスト者とは御父と御子との交わりに生きる者です。
それではその交わりに生きるとは具体的にどのような生活でしょう。
ここでは御父の愛によって、その子とされていることを知って、自分を清めるというのです。
私たちには奥深くに罪が宿っていて、神に背き、神の子になれない者でした。
しかし神は御子を通して罪を贖い、聖霊を与えて新生させて下さいました。
と言って直ちにその実質が身に付いたわけではありません、譬えで言えば畑に種が蒔かれたようなものです。
蒔かれた種は今は明らかでなくとも、やがてその実があらわれてくるのです。
今は品性において劣り、失望することがあっても、私たちの罪のため死んで甦られた御子主イエスとの交わりが、私たちを立ち帰らせて下さるのです。
主イエスを信じている今、すでに神の子なのです。
そうであるならば罪を犯すまい、人をうらむまい、神の子にふさわしく生きようと思い、自分を清める意欲が、新たに息を吹き返すのです。



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