日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 神の光 ヨハネの手紙1 1:6-10  2011/1/9

<<   作成日時 : 2011/01/09 11:58   >>

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年末年始に、芸能人格付けランキングという番組をしていました。
高価な本物と、安価なものを用意して、AとBのどちらが本物かというのを見分けるというものです。
一流芸能人ならわかるはずだ、というのが前提の番組です。
聖書的にはランク付けをして差別することはあまり好ましいとはいえませんが、芸能人がもっともらしく薀蓄を語るわりに当たらないというのも面白い所です。
例えばAに私たち庶民には到底口にすることの出来ないような高級輪牛肉。
一方Bにはスーパーで100g1000円の肉を目隠しして食べ比べるという具合です。
豚肉と牛肉、というように全く違うものを当てるのならともかく、100g1000円という肉ですらなかなか口にすることは難しいものです。
私たちは、実際の所、高級品はこのようなものだろう、というイメージを持ち、それにとらわれてしまうものなのだということだと思います。

さて、第一ヨハネは、キリストを目で見た、といいます。
耳で聞いた出来事は、時として視覚を呼び覚まします。
わたしたちは聖書を読みながら、また牧師が語る説教を聞きながら、心の中でキリスト・イエスのお姿を浮かび上がらせます。
わたしたちは自然に、そのようにして生き生きとした主イエスのお姿を心で見ているのですが、しかしそれだけでなく、ヨハネはキリストに「手で触れた」といいます。
教会の中で宣べ伝えられるキリストのお姿が、もはや視覚以上のリアリティを持っていたことを意味します。
それは見たというよりも体験した、というほうが正しいのだと思います。
そこには人格的な深い交わりがあります。
どこか誰か偉い人の美談だったら「ああそうなの、すごいねえ、その人は」で終わりです。
しかし教会が記憶しているのは救い主イエスについての物語です。
「救いの光が、あなたに来たのですよ」という喜びの知らせは、聞く側に震えるようなリアリティをもたらすのです。
わたしたちにとって、「触れる」というのは、とても大事なことです。
そして嬉しいことです。
誰かが悩んで苦しんでいる時、「大丈夫ですか」と口で言うだけでなく、肩にそっと手を添えてもらったら、それだけでずいぶん嬉しい気がします。
「ああ、この人は本当にわたしのことを思ってくれている」と感じます。
もっとも、日本社会ではあまり他人にべたべた触る文化はありませんが、日本語でも暖かい交流のことを「ふれあい」といいます。
「触れる」ということが、安心と平和につながることを、わたしたちは経験的に知っています。
わたしたちの主イエスが、そばにいてくださり、触れていただいていることを感じるとき、ほかのものでは得難い喜びを、わたしたちは経験し、心に刻むのです。

さて、「神は光なり」ということは神様の性質を最も根本的に最も適切に言い表していると思います。
まず、光は闇に打ち勝つものであります。
どんな暗闇でも、小さな光があれば、真っ暗闇ではなくなります。

光の三原色というものがあるように、神様にも幾つもの側面があります。
神はまず唯一無二のものであり、義であり、愛、正義、智慧、公平なものです。
それらの属性が合して一大光輝となります。
さらに、ヨハ1:14に、キリストの栄光(光)は恩恵(愛)と真理(義)とであることを述べているのもこの意味です。
その光によって凡ての不義、邪悪、虚偽、汚穢が露わにします。
光と暗とは相交わることがありません。光に居る者は暗黒と交わることはありません。

頭の悪い私が三位一体の神を理解できたのは、この光の性質に気づいたからでした。
「神は光である」、私たちはこの神の光に照らされて、心の中の闇、罪が照らされます。私たちは心の中に闇を、人に見せることの出来ない醜い自己を持っています。
その私たちの闇が神の光に照らされて明らかにされます。
その罪を私たちが認め告白する時、罪が清められます。
ヨハネは言います「私たちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。
しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(1:6-7)。
ヨハネは、交わりから去っていった人たちのことを考えながら手紙を書いています。
それは「神は光である」と言いながら、教会の交わりを壊して去っていった人たちのことです。
人間は弱い存在ですから、罪を犯します。
罪とは神の御心に反する行為であり、それは神との交わりを妨げると同時に、人との交わりも妨げます。
何故なら、罪は自己主張をし、お互いの自己主張の衝突が争いを生むからです。
ヨハネは、共同体の交わりが人間の罪によって妨げられ、破壊されている現実を見つめています。
ですからそれを克服する道を説きます。
神は、罪を犯さざるをえない弱い人間が、光の中で交わりを維持することができるように、罪を克服する道を備えてくださった。
それが「御子イエスの血」、受難による贖いだということです。

神は「御子の血による清め」を備えてくださいました。
では、私たちはどうするのか。

もし私たちが
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
と宣言されます。

しかし、 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。

この手紙が書かれたころ、教会を分裂させた人々は、自分たちには罪がないと主張したようです。
私たちに罪がなければ、キリストが死ぬ必要はなかった。
そのような態度は、福音に示された神の言葉を拒否することです。
ヨハネはヨハネ教会の皆に勧めます「自分が罪を行う弱い存在であることを認めて、子の血による清めを受け、互いの交わりを維持するように」と。
自分には罪はないとして、相手を裁く心が交わりを破壊するのです。

「あなたがたは世の光である」、マタイの福音書から招きの言葉を読みました。
ヨハネは「光の中を歩みなさい」という別の言葉で言い直しています。
光は自分のために輝くのではなく、相手を照らすために輝きます。
世の光であるとは、立派なクリスチャンになって、その行為で周りを感化することではありません。
社会を改革するために熱心に行為することでもありません。
私たちは自分の罪を知り、自分の惨めさに泣いたことがあります。
泣いたことのある者は他者の悲しみを悲しむことが出来、苦しんだことのある者は他者の苦しみを理解できます。
その意味で、私たちは悲しむ人、苦しむ人に共感することが出来る、その共感を通して他者を照らす光とされているのです。
ヨハネは言います「兄弟を愛する人はいつも光の中にいます」(2:10)。
私たちはキリストの十字架を通して、人と交わることの出来る、光の中を歩む存在にさせられている。
ですから、その光からそれるな、キリストから離れるな、ヨハネはマタイと声を合わせて、私たちにメッセージを送っているのです。

現実の教会の中には罪があります。
「キリストにあってはユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」(ガラテヤ3:28)とパウロは述べました。
現実には意見の違う人も考えかたの異なる人もいます。
全ての人を好きになることは出来ません。
しかし、私たちには嫌いな人も愛する能力が与えられています。
愛は感情ではなく意思です。
そして、その人のためにもキリストが死なれたことを私たちは知っています。
ですから、私たちはその人を憎みません。
しかし、私たちが和解の手を差し伸べても拒絶される時があります。その時どうするか、聖書(ルカ9:5他)は、異端とはかかわるなと教えます。
その先は神の業であり、私たちには関与できません。
しかし、少なくとも、こちらから拒絶することはしない。
自分の信仰が異端か、聖書に基づいているかの判別は簡単です。
自分と異なる人を受入れるか、憎むか、です。
ヨハネは言います「光の中にいると言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」(2:9)。
「あなたがたはすでに光にされている。だから光の中を歩みなさい」、この言葉を今日は心に刻みたいと思います。

本日は主の洗礼主日でした。
洗礼によって、人間は神さまから神の子、キリスト者とされます。
しかし私たちは洗礼を受けたらすぐ、キリストの栄光を表せていたでしょうか。
残念ながらまだ完全な形、完成品ではありません。
肉なる体を身にまとっています。
そこで内側からの 変化が生涯、その人を作り変える出来事として、信仰生活となってくるのです。
例えるなら、洗礼は山登りの入り口のようなもの。
洗礼はゴールではなくて出発と言われるのはこの点です。
登山家の第一歩は誰もが素人です。
はじめから登山家という人はいません。
ですから、私たちが登山道のゲートをくぐったからといって、 直ちにプロフェッショナルな登山家になるわけではありません。
山登りのノウハウは知りませんし、自分一人の力ではとても頂上にたどり着くことはできません。
私たちが目指しているのは天の国、その頂です。
考えてみますと無謀な計画です。
もうこの時点で、私には無理だと尻込みしたくなります。
私たちにはこれぞ、という秘策があります。
それが主イエスさまです。
優秀なガイドがすぐそばに付いています。
一人ではありません。
イエスさまが共におられます。《これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》。
どんな素人や未経験者でもイエスさまと一緒に歩き、一歩一歩、信仰の歩みを続けることで、目に見えないところから何かが変わり始めます。
ガイドと一緒に登ることで、素人が登山家になるように、イエスさまと共に生きることで、肉なる人間が信仰者となり、キリスト者となり、神の子となるのです。
しかし、スーパーマンみたいにひょいと私の体を持ち上げて、一気に空を飛んで行ってくれるわけではありません。
それなら簡単ですが、決して安易な道のりではないのです。
なぜなら、示された道は十字架の道です。
これを自分の足で、一歩一歩、苦しみに耐え忍びながら、主と共に人生の歩みを進めます。
天候が良く景色を楽しむ日もあれば、雨や風に悩まされる日、あるいは、切り立つ崖に死の恐怖を覚える日があるかもしれません。
途中には多くの困難が待ち構えています。
しかし光の中を歩むのであれば、大丈夫です。
十字架と復活、いずれ完成の時が来ることを私たちは知っています。
その時には永遠の命を得て、人生の全景を眺めることができます。


神の前に立ち、自らの闇を照らすとき、私たちは罪に目覚めます。
真なる光に照らされ、真なる言葉によって導かれるのです。
悔い改めを持って光なる神に従ってまいりましょう。

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