日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS あなたがたに平和があるように 2010/11/07 ヨハネ21:1-24

<<   作成日時 : 2010/11/07 12:12   >>

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尖閣諸島での中国漁船衝突事故のビデオがインターネット上に流出しました。
私はかつて漁船とイージス艦が衝突事故を起こしたときのようにもっと暗い時の事故なんだろうと思っていました。
あきらかに故意に衝突させて来ていることがわかりました。
金庫に厳重に管理され、出るはずのないところからということですからなんとなくキナ臭い感じがいたします。
国会でも 証拠を出せといわれ、いや出すわけにはいかない という論争がありました。
現場では自分たちの正義が、熱意が伝わっていないという思いの蓄積があったのだと思います。
当然、映像を「明るみに」出さないようにという中国からの圧力もあったでしょう。
いろいろな思惑、いろいろな立場、「流出」というかたちで、直接的な責任を逃れて玉虫色にされてしまったのではないかと思います。

さて、本日の箇所の冒頭です。
その「週の初めの日」の「朝早く、まだ暗いうちに」とわざわざ書いてあります。
「暗いうちに」とは、まだ「闇であった」ということです。
「闇」という言葉は、ヨハネ福音書では「光」と共に最初から最後まで重大な言葉です。福音書のはじめに「光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と出てきますし、光の到来が闇を際立たせる、とも出てきます。
また、闇の中では何も見えないとも出てくる。
明るみに出る ということなのだろうと思います。

この点については、今日の個所以降、何度も出てくる「見る」という言葉との関連を考えざるを得ません。
物理化学的に申し上げましても、私たちは光がなくては何も見ることが出来ません。
そして、1節から10節までの間に「見る」と訳された言葉も、実は原文では三つの異な
る言葉が使われています。
「見る」と一言で言っても、その意味は多様ですし、深さも多様なのです。
これから読む個所の時間の経過の中で、朝の光は次第に強くなっていくわけですが、それと比例するように、「見る」という言葉も変化し、その意味も深くなっていきます。そして、それは11節以降にも続いていくことになります。

とにかく、彼女は墓に行った、そして、「見た」のです。
そこで何を見たのかというと「墓から石が取りのけてあるのを」です。
ただそれだけです。
彼女は、「主が墓から取り去られた」と思い込みました。
当時から埋葬品を狙う墓泥棒がいました。
主を恨んだ故に墓を荒らしたり、死体にさらに傷つけたりする人もいると思ったかもしれません。
しかし、この時彼女が見たのは、墓の蓋である石が取り除けられているという事実だけです。

そして、ここで 主は「どこに置かれているのか」とあります。
この「置かれている」は、依然お話しまし通り、イエス様が「よい羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃった時の「捨てる」と同じ言葉です。
そして、「どこ」という言葉は、イエス様の居場所、イエス様の位置、イエス様の本質を表す時に使われます。
ですから、「どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」とは、「イエス様の死の意味がわたしたちには分かりません」という意味ということです。
それはつまり「イエス様が誰なのか分からない」という意味なのです。
マリアだけでなく、ペトロにも愛弟子にも分からない。
まだ朝は明けきっていない。
まだ暗いのです。暗い中では真相は見えては来ないのです。

続いて「その日、すなわち週の初めの日の夕方」、弟子たちも、マリアと同じく「主を見る」ことになります。

次に「八日の後」、つまり、一週間後の日曜日の出来事です。
その日、弟子たちはまたもや戸の鍵を締め切っている。
そして、八日前にいなかった弟子の一人トマスが、信じない者から信じる者に生まれ変わるという出来事が記されています。
そこでも、「見る」という言葉がキーワードであることは明らかです。

ここで一つ疑問が生じます「なぜ、弟子たちは主イエスを見て喜んだのか」という問題です。
弟子たちは、主イエスを裏切りました。
裏切った上で、ユダヤ人を恐れて隠れているのです。
ユダヤ人に見つかるのも怖かったでしょう。
でも、何よりも怖いのは、裏切った相手と出会うことだと思います。
夫に裏切られて死んだお岩さんが、恐ろしい顔でウラメシヤと出てきた時に、夫の伊右衛門は恐怖のどん底に叩き落とされました。
弟子たちに裏切られて死んだイエス様が、突然幽霊のように出てきて、十字架の傷痕も生々しい手やわき腹を見せた。
それなのに、なぜ、弟子たちは喜んだのでしょうか?
「そこには赦しがあったからです」というのが、説教で語るべきことでしょうし、神学的にも正しいことは分かります。
でも、それは後からわかることで、瞬時に弟子たちにそのことがわかったとは思えません。

私は この時の弟子の喜びの内容を知りたい、と思ったのです。
この時の弟子の喜びさえ知ることが出来れば、ちゃんと喜びをもって生きていける。
斜に構えた、ひねくれた生き方ではなく、正々堂々と、何も恐れることなく生きていける。
そのように生きたい。
そういう願いをもって、でも全く願いとは裏腹に生きてきたことを思います。

ヨハネ福音書では、イエス様は時間と空間の中を自由に移動されるのです。
イエス様自身が「風は思いのままに吹く」と言われます。
そして、そこで「風」と訳される言葉はヘブライ語やギリシア語では「霊」と同じですし、「息」とも同じです。
それは、創造の神様がアダムのソーマに吹き入れた息です。

また、他の福音書を読んでいると、ペトロを筆頭にする十二弟子が前面に出てきて、彼らとイエス様との関わりが記されています。
それに対して、この福音書では、十二人には限定されない形で「弟子たち」という言葉がよく出てきます。
実際、「多くの弟子がいた」と記されているのです。
そして、その「弟子の多くが去って行った」とも書かれています。
こういう不特定多数の「弟子たち」という書き方を通して、ヨハネ福音書は、「ここに登場する人々は他でもないこの福音書を読んでいる一人一人のことなのですよ」と語っているのだと思います。
そういう書き方は他の所でもいくつも出てきます。
弟子たちは主イエスを裏切りました。
しかし、それを攻めることは出来ません、それこそ私たちの日常生活は、裏切りの連続なのですから。
「イエス様を信じます。イエス様に従います」と信仰告白して洗礼を受けていなければ、別段裏切りでも何でもありません。
それはただ罪の闇の中で生きているだけのことを、すでに救われたキリスト者である私たちがすると、それは罪の闇の中でしたことに「裏切り」という罪が付け加わるのです。
毎週主のみ前で、主イエスから、罪を赦して頂き、平和を頂いて世に派遣されます。
しかし、一週間の歩みの中で、どうしたって罪を犯してしまいます。
だから、私たちの礼拝の最初の祈りの基本は、罪の悔い改めなのだし、主に赦しを乞うこと以外の何ものでもない。
カトリック教会の礼拝では、最初にキリエ・エレイソン、「主よ、憐れみたまえ」という讃美をします。
そのこと抜きに主イエスの前には恐ろしくて立てないからです。
裏切った相手の前に何食わぬ顔で立てるほど太い神経はしていないのです。
少なくともそんな恐ろしいことは、罪を知る限りは出来ません。
知らないからこそできることです。

ドイツ語で罪人のことをゴットローゼン、神を失った人々と表現します。
神様との交わりを失った人々という意味です。
だから弟子たちは、戸を閉ざし、閉じ籠っている。
それはまた心を閉ざし、殻に閉じこもっているということでもあります。

そして、その根本的原因は、突き詰めて言えば、自分の罪を誰も赦してくれはしないという絶望なのです。
諦めというよりは絶望、愛を信じられないのです。
赦されぬ罪があると確信し、自分はその罪を犯したと確信した場合、人はその心を閉ざす他にはありません。頑なに閉ざす。
自分でその戸を開けることは出来ません。
誰にも裁かれたくないからです。
赦されないまでも、裁かれたくもない。
私たちは、そうやって互いにその心を閉ざすものです。
そして、その閉ざされた空間の中で息苦しい思いを抱え続ける。安息出来ないのです。
弟子たちは、ユダヤ人にも裁かれたくはないし、本当に恐ろしい主イエスにも裁かれたくないのです。
誰にも会いたくない。でも、彼らは、この日の早朝にペトロを通して、墓の中に主イエスの遺体がなかったということを知らされています。
その知らせは、喜びであるよりは不気味な知らせだったと思います。
しかし、その後、彼らはマグダラのマリアから、「わたしは主を見ました」という知らせを受け取りました。
それは、彼らに激しい動揺をもたらしたでしょう。彼らは、どうしてよいか分からぬ思いにさせられたと思います。

彼女は言います。
「わたしは主を見ました。それはイエス様の肉体の蘇生なんかではありません。復活された主イエスです。主は言いました。『あなたたちは、わたしの兄弟たちだ』と。『わたしの父はあなたたちの父、わたしの神はあなたたちの神だ』と。主イエスは、これから神のもとに上り、そして帰って来る。そのことにおいて、あなたたちの罪は赦されるのです。あなたたちは今尚、主の愛の中に置かれているのです。信じてください。」

主イエスがおっしゃったことは、そういうことですから。その知らせを受けつつ、なお、閉じ籠るしかなかった弟子たちが、ここにいます。
しかし、彼女がここでイエス様から派遣された使者の務めを果たしたことが、この後の展開にとっては決定的な意味を持ったのだと、今の私は思います。

閉じ籠っている弟子たち、決して自分たちでは部屋から出て来られない弟子たち、マリアの知らせにもかかわらず、どうしたらよいのか分からぬ弟子たち、その弟子たちの所に主イエスが来てくださる。
そのことによって、事態は全く新たな展開を始めます。
復活の主イエスは、家の壁も戸も関係なく、弟子たちの所に来て、真ん中に立って下さり、即座に「平和があるように」とおっしゃった。
これは、「あなたがたに平和がある」とも訳せます。
願望というより断言の意味の方が強いと思います。
ヘブライ語では、シャロームという言葉です。
元来の意味は、「神があなたと共にいます」です。

復活された主イエスは、時空を超える神として弟子たちの只中に来て、「恐れるな、わたしだ」と言って下さった。
「心配するな、恐れるな、わたしだ。わたしはあなたを見捨てはしない。孤児とはしない。共にいる。あなたたちを、赦しているのだ。」そう言って下さったのです。
その時、弟子たちは、マリアの告げたことが本当であったということが分かったのです。
そして、これまで主イエスが何度も語って来られたことがすべて本当だったということが理解できたのです。

 主イエスは、弟子たちにこうおっしゃっていました。
「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが分かる。」

主イエスは、「あなたがたに平和がある」とおっしゃったと同時に、そのしるしをお見せになりました。
それらは、釘が打たれた手、槍で刺された脇腹です。
特に、その脇腹は、槍で刺された瞬間に、「血と水が流れ出た」場所です。
それを見ることは、毒を盛られて醜く変形したお岩さんの顔を伊右衛門が見るように恐ろしいことであるはずです。
でも、その「血」は、弟子たち初めすべての人間の罪が赦されるために流される贖いの血でした。
「世の罪を取り除く神の小羊」が流す血であり、神の愛が詰まった血です。
そして、その「水」とは、人を生かす命の水であり聖霊のことです。
ご自身の死を通して、罪に死んでいる者を新たに生かす愛の霊です。
手と脇腹を見せることは、お前たちのお陰で、俺は殺されたんだ、どうしてくれる・・という恨みを示すことではない。全く逆なのです。

「お見せになった」と記されている言葉はデイクヌーミという単語です。
イエス様が神の独り子であり、イエス様を見ることによって父なる神を見ることが出来る、という意味で使われる言葉なのです。
父と子が互いにその内に生きているという意味であり、それはまた弟子たちも、イエス様の内に招き入れられる時に見ることが出来る現実なのです。
つまり、愛の交わりの中で見ることが出来る現実です。

弟子たちはそれを見た瞬間、その言葉を聞いた瞬間に、父と子は死を越えて一体の交わりに生かされており、そして、その交わりの中に罪赦された自分たちも招き入れられている、そのことが分かった。
だからこそ、彼らは、「主を見て喜んだ」のです。
イエス様を見て「ラボニ(先生)」と言ったのではなく、二度も振り向くことで「主」と出会ったマリアと同じく、イエス様の姿に「主」を「見る」ことが出来たのです。
そこに彼らの喜びがある。
そしてそれは、彼らだけのものではなく、今日、この週の初めの日に、この部屋に集まっている私たちにも与えられるべき喜びです。

主イエスは、重ねて「平和があるように」「あなたがたには、平和があるのだ。」そう断言された上で、こうおっしゃいます。
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。
「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

ここで主イエスが「息を吹きかけた」とあります。これは明らかに創世記二章七節に記されている人間の創造の業を思い起こさせるものです。そこには、こうあります。
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

人は、肉体だけで生きているわけではありません。
神様から命の息を、つまり神の霊を吹き入れられて、初めて人として生きることができます。
肉体だけで生きているとは、つまり、罪の中に生きることであり、それはやがて朽ちる生ける屍なのです。
罪の赦しの愛を信じることなく、罪の赦しの愛に生きることがない。
それが禁断の木の実を食べた後のアダムとエバの姿です。
彼らは肉体として生きていますが、ゴットローゼンです。
神様との霊の交わりの中に生きる命としては死んでいる。生ける屍です。
このアダムの創造記事は、罪人を新たに生かす神の救済をこの時既に暗示していると思います。

もう一つ、この「息を吹きかける」という言葉が出て来るのはエゼキエル書37章です。エゼキエルとは、神様に対して繰り返し罪を犯し続け、ついに裁きを受けてバビロンに捕囚をされてしまった民と共にバビロンに連れ去られ、元来は祭司であったのに、そこで預言者として立てられた人物です。
その彼が見させられた幻の一つが37章には記されています。
それは、彼が神様によってある谷に連れて行かれる所から始まります。その谷は、骸骨で一杯だったのです。神は問います。「人の子よ、これらの骨は生き返ることが出来るか。」エゼキエルは答えます。「主なる神よ、あなたのみがご存知です。」すると、神様は、こう言われる。

主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」 わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。

霊が殺された者の上に吹きつく、それが「息を吹きかける」と同じ言葉です。
その骨に、神の息、霊が吹きかけられる時、骨は生き返る。
新しい存在となり、大きな集団となっていく。

神の言葉と共に神の命の息を吹きかけられるのは、一人一人であると同時に集団です。弟子の一人一人であると同時に弟子の集団、教会なのです。
私であると同時に私たちなのです。

そして、この霊は、今、主イエスの体から流れ出た血と共に与えられる霊です。
私たちの罪の赦しのために流された血と共に流れ出て来る聖霊。この霊を受けなければ、私たちは罪による死の中から生き返ることは出来ないのです。
つまり人として生きることは出来ない。

主イエスは、私たちを人として生かすために週の初めの日に、十字架の死から復活させられ、私たちの所に来て、真ん中に立ち、今日も手を広げて、「あなたがたに平和がある。わたしは共に生きている。わたしが生きるから、あなたがたも生きる。信じなさい」と語りかけ、聖霊を吹きかけて下さっているのです。
そのことがあったのに、その一週間後、この弟子たちはまだ戸の鍵を締め切っています。人間とは、そういうもの。
マンガやドラマ、RPGゲームのように簡単に生まれ変わる者ではありません。
でも、またそこにも懲りずにイエス様は来て、真ん中に立ち「あなたがたに平和がある」と語りかけてくださる。
そして、聖霊を吹きかけつつ、彼らを愛と赦しを信じ、愛と赦しに生きる人間に造り替える業を継続してくださるのです。
光の中を歩むものと変えてくださるのです。

私も、このイエス様の愛と赦しの中で生かされ、徐々にではあっても、少しずつ心を開くことを覚え、体の中にイエス様の息を吸い込むことを覚えつつあるように思います。そして、かつてよりは少し、愛と赦しを信じて喜び、愛と赦しに生きる人間にされつつある。
皆さんも、程度の差はあっても、本質は全く同じだと思います。
誰も彼もが、まだまだ肉の思い強く、霊の導きだけで生きることなど程遠い現実を生きている。
でも、そういう私たちの所に今日もイエス様は来て、真ん中に立ち、「恐れるな、わたしだ。あなたがたに平和がある。あなたがたの罪は赦されているのだ。聖霊を受けなさい。そして、信じなさい」と語りかけてくださる。
その霊的な現実の方が、私たちの肉の現実よりもはるかに強いことを信じます。

そして、今日は主イエスによる罪の赦しと復活の命に、パンとぶどう酒を通して与る聖餐礼拝の日です。
聖霊の導きの中で、悔い改めと信仰と賛美をもって聖餐の糧を頂きたいと思います。
そして、「平和のうちにこの世へと出ていきなさい。主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕えなさい」という祝福と派遣に、全身全霊を傾けて応答する者たちでありたいと願います。

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