日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 『救いは成れり』 2010/10/17 ヨハネ19:28-30

<<   作成日時 : 2010/10/17 14:32   >>

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「死に水をとる」という言葉があります。
元来は釈迦が死に際に水を求めたことに由来する仏教用語で、死者の復活を願って水を含ませるということのようです。
このまつごの水は 故人への最期の手向けであり、お別れの儀式ともいえます。
今は、"最期まで介護する"という意味でも使われるようです。
いずれにしろ、死の間際に人間が喉の渇きを覚える。
それは事実のようです。
人間は水の中に生まれ、水を採って死んでゆく、やはり水がなければ生きてはいけないのです。
洗礼式でも水が使われますけれど、水は命に直結した意味を持っています。

私はラグビー部時代、アメ車と言われていました。
水を飲まないと走れないのです。
大きなやかんにマネージャーが水を汲んできてグランドにあるのですが、私が飲むとカラになってしまうので私に回ってくるのは、いつも後半でした。

最後の晩餐を終えてからイエスはゲツセマネの園に行き、そこで夜を徹して祈られました。
その後、祭司長たちや長老たちは大祭司のところに引いていきました。
イエスは総督ピラトのもとに送られ、鞭打たれ、十字架を背負わされて街中を引き回されたうえ、十字架にかけられました。
この間、主はぜーぜーと大きな口をあけて息をしていたことでしょう。
イエスには一滴の飲み水も与えられませんでした。
イエスがこの「渇く。」と言われたのは金曜日の午後3時ごろでしたから、前の晩からすくなくとも20時間は経っています。
体中に傷を受け、大量の血を流した人が20時間一滴の水も与えられない、その苦しみは想像を絶しています。
イエスの「渇き」は極限の渇きだったはずです。
そして この言葉を持って「聖書の言葉が実現した」とヨハネ福音書は語ります。

一般的に人は安らかな臨終においても、渇きを覚えるものだそうです。
主イエスは、人間だからです。人間の肉体が味わう苦痛のすべてを味わわれた。
しかし、人間は肉体だけではありません。心がある。
その心が渇くということがある。
主イエスの「渇く」「わたしは渇く」という言葉は、肉体の渇きだけではなく、心の渇きを表現した言葉でしょう。
どういう時に、私たちの心は渇くのか?それは独りの時です。
その独りとは、一人で部屋にいるとか、そういう意味での独りではありません。
孤独であるという意味での独りです。
誰とも交わりがない、心の交流がないという意味での独りです。
私は、一人でいることが好きで、一日の大半をこの建物の中で一人でいることが多いし、それは自分にとっては快適なことです。
しかし、それは自分が独りではないことを知っているから快適なのです。

多くの人々と表面的には笑いながら過ごしている時に、自分は独りだと感じていることは、誰にでも経験があることだと思います。
ここにいる誰も自分のことを知っているわけではないし、自分も誰のことも本当には知らない。
ただ空間的に一緒にいるだけ。
仲間のように振舞っているだけ。
そういう孤独があります。
名前を知っているとか、仕事が何であるかを知っているとか、性格を知っているとか、そんなことは心とは何の関係もありません。

最近の大学のトイレには、個室内でお弁当を食べないでくださいという張り紙があるそうです。
クラスやゼミでは話をする人がいる、コンパや呑み会に誘ってくれる人もいる、でも一緒に昼食を食べる人がいない。
一人で食べている所を見られたくないからとトイレでお弁当を食べるのだそうです。

大学という所は一義的には学問をする所ですけれど、広い人間関係と深い人脈を築き学ぶ場だと思います。
そのような中で、孤独があるというのです。
もう少し狭く濃い世界だと考えられる高校の中にもあるそうです。

愛しているかどうか、愛されているかどうか、ただそのことだけが心にとっては問題なのです。
知るとは愛することであり、知られているとは愛されていることです。
誰のことも愛していない、誰からも愛されていない、その時、人は孤独になります。そして、孤独は絶望をもたらします。そして、絶望は死に至る病なのです。
そして、その死に至る時、心は激しい渇きに苦しむのだろうと思います。

2010年1月31日NHKスペシャル「無縁社会〜『無縁死』3万2千人の衝撃〜」というのがありました。
日本には誰にもみとられず、誰にも死に水を取ってもらえず、誰も遺骨を引き取りにも来ない身元不明の無縁死、あるいは孤立死があります。
そんな死に方をする人々が年間に三万人いるそうです。
無縁死が約三万人、自殺者も約三万人。
その番組によると、無縁死を身近に感じる人は独り暮らしの高齢の方だけでなく、むしろ30代、40代の独り暮らしの人々でした。
一人暮らしというとご高齢者というイメージがありますが、現在30〜40代の独居者が結構居るそうです。
これは事件や事故として公になった人だけですし、海外で失踪してしまった人の中には自殺目的で渡航する人もあるそうですから、実際の数値は計り知れません。

この年間三万人を一日に換算すると82人、自殺者を合わせると一日に160人以上です。
私たちがこうして礼拝を捧げている間にも、10人弱が誰にも見られない所で自らの命を絶つ、あるいは孤独の渇きの中で死んでいっていることになります。
また、最近では家族の中にあっても、お葬式の費用がないという理由で、死すらも闇に葬られてしまう人たちが多かったことも報じられました。
百何十歳の人が生きていて家族に年金が支払われていた。
死んだ人の分まで受け取らなければ生きている家族が生活できないという現状もあるのかもしれません。
世界中では豊かな国のはずの日本ですが、世の中が乾ききっているように思います。

そういう社会の中を、私たちは生きています。
そして、そういう人間社会の只中で、イエス様が渇いている。
十字架の上で渇いているのです。


主イエスは生前、自ら弟子たちの足を洗うほどに世にいる弟子たちを、この上なく愛し抜かれました。
しかし、その愛はこの時、弟子たちには通じていませんでした。
そのような中で主イエスは、こうおっしゃっています。
「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。」
そういう孤独。
現代においても共に一つ屋根の下に暮らしていても、自分は独りだと感じる孤独です。
そういう孤独を、私たちも互いに感じている、そういう場合があります。
そんな時、私たちの心は渇いている。
主イエスの渇きにも、そういう人間としての渇きがあると思います。

私は「聖書の言葉が実現した」という言葉の一つの意味として、主イエスは私たちと全く同じ人間として同じように渇きながら死んだのだと思います。
それは確かにそうなのです。
しかし、主イエスは私たちと同じ人間であっただけなのでしょうか? 
全く違います。
主イエスは、先ほどの言葉に続いて、こうおっしゃっているからです。
「しかし、わたしはひとりではない。父が共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

「わたしはひとりではない。」主イエスは、そうおっしゃいます。
「父が共にいてくださるからだ」と。
つまり、父は私、つまり主イエスを知っていてくださるということです。
愛していてくださるということだし、主イエスも父を愛している。
父なる神と主イエスは、そういう一体の交わりの中に生きているのです。
その事実は、十字架の時も全く変わることがありません。
この十字架においても、主イエスは父のふところの中におり、主イエスの中に父なる神が生きておられる。

繰り返しますが、主イエスは、たしかに愛の交わりを持てない孤独な人間として、つまり、罪人の代表として死んでくださるのです。
そういう罪人としての渇き、人間が味わう極限の渇きを味わっておられるのです。
しかし、その一方で、何ものも壊すことが出来ない父なる神と子なる神の愛の交わりを生きているのです。

わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。

無一物で生まれ、無一物で去って行く。すべての人生の姿です。
この事実を受け入れることができないとき、私たちは恐怖や悲しみに苦しみます。
反対に、この事実を受け入れることができるとき、私たちは死に対する備えができるように変えられます。
さらに、この人生で味わう様々な喪失の悲しみや苦しみにも向き合うことができるようになります。

しかし、この世での人生の最後に訪れる私たちの孤独と渇きをも負ってくださる。
そして、そのことは 十字架の主においてもそして復活の主においても完結するのです。

私たちは、そもそも「人が独りで生きるのはよくない」という神様の御心によって、共に生きるべき者として創造された人間です。

イエスはこうも言われました。
「渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。」と黙示録にあります。
イエスはいのちの水を「価なしに」、「ただで」くださるというのです。
もし、神が私に「どんな罪も犯してはいけない。」とか
「良い行いだけをせよ。そうしたらいのちの水を与えよう。」
「きよく立派な人間になれ。そうしたらいのちの水を飲ませよう。」と言われたとしたら、私は成し遂げることができなかったでしょう。
神が期待されるような人間にもなれなかったでしょう。
ところが、イエスは「いのちの水」を価なしに、ただで与える、恵むと言っておられるのです。
求めて、受け取るだけでよいのです。

私たちは「いのちの水」を「価なしに」「ただで」受けました。
しかし、それはもともと「ただ」でも「値打ちのないもの」でもありません。
それはとてつもなく貴重なものです。
誰もそのための代価を払うことができないほど高価なものです。
しかし、イエス・キリストは、ご自分のいのちという代価を払ってそれを買い取ってくださいました。
それは神の御子の命と引き替えに与えられた高価な「いのちの水」です。
こんなに素晴らしいものが、私やあなたに、代価なしに提供されているのです。

「聖書が成就するために」とは別の言い方をすれば、神の救いの計画が完成・成就するためということです。
イエス・キリストの渇きは私たちの救いのための渇きだといえます。
本来イエス・キリストは、決して渇くことのないお方です。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)と言うことのできたただひとりのお方です。
そのお方が「わたしは渇く。」と言われ、実際に渇いてくださったのです。

先ほど生前の主は、弟子たちを愛しぬかれた と申し上げました。
そして、その愛を持って私たち自身の「渇き」をも十字架上から開放してくださるのです。

罪ある者が受けなければならない永遠の渇きを、身代わりになってくださったのです。
イエスはご自分が渇くことによって私たちの渇きをいやしてくださいました。
ご自分のいのちを注ぎ出すことによって私たちにいのちの水をくださったのです。
しかもその水は永遠に枯れることのない水なのです。
既に天に召されている信仰の先輩方も等しくこの永遠の水に与っています。


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こんにちは、またブログ覗かせていただきました。また、遊びに来ま〜す。よろしくお願いします
http://www.fetang.co...
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