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zoom RSS 死ぬのが好都合だ 2010-9-5  ヨハネ18:12-27 

<<   作成日時 : 2010/09/05 10:17   >>

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実は今週も先週と同じ福音書からみ言葉を聞いております。
毎月、月末に翌月の1ヶ月の予定を決めております。
黙想して聖書の箇所を選び、賛美を選ぶ、牧師の醍醐味だともいえる至福の時です。
しかし、月末なってくると、若干のブレといいますかが生じてくることがあります。
いい意味でもっと語りたいという誘惑に駆られるわけです。
と、なかば苦しい言い訳をしながら始めたいと思います。

ヨハネ福音書の受難物語は、他の福音書と違っている部分が幾つかあり、そのひとつが、イエス・キリストがまずアンナスのもとに連れて行かれたということです。
そのことは先週もお話しました。
他の福音書では、いきなり大祭司カイアファのところへ連れて行かれたと書かれています。
このアンナスと言う人は、カイアファのしゅうとであったとのことです。
逆に言えば、カイアファはアンナスの娘婿であります。
大祭司というのは、祭司の中の最高責任者、最高権威です。
13節によれば、「カイアファがその年の大祭司であった」となっていますので、交替職務であるかのように思えます。
しかし実際には、一度大祭司になれば生涯大祭司、終身制であったようです。
ちょうど日本においては天皇です。
天皇については言及しにくいので、言い換えるならばカトリック教会のローマ教皇のような存在でしょうか。
ところが歴史を見てみますと、紀元15年にローマの総督としてエルサレムに着任したヴァレリウス・グラートゥスは、時の大祭司アンナスをその地位から下ろし、別の人物を大祭司にしたということです。
さらにその後も、しばしば大祭司の更逐を行い、次々に交代させました。
宗教的権威を骨抜きにし、ローマへの従属意識を高めることを狙ったのでしょうか。

アンナスは紀元6年から15年まで大祭司でありました。
その後、イシマエル、エレアザル、シモンと続き、カイアファは紀元18年に大祭司になったということです。
彼は、18年から36年まで、18年間もの間大祭司を務めました。
しかしこの大祭司交代劇においても、例えばエレアザルはアンナスの息子でありましたし、カイアファは娘婿ですから、いかにこの一族が権力を持ち続けたかが、伺えます。
ローマの総督のあずかり知れぬところで、策略を駆使したのでしょうか。
カイアファの時代になっても、このアンナスという人物は影響力を持ち続けたようです。


彼らはユダヤ教のサドカイ派というグループに属していました。
サドカイ派はファリサイ派と並んでユダヤ教の2大勢力グループです。
サドカイ派を神殿に拠って権力者たちと結託していた祭司のグループであったと考えている。
サドカイ派自体が消滅し、そのライバルであったファリサイ派がユダヤ教の正統派になったため、サドカイ派に関する資料はほとんど残されていない。サドカイ派を知るために有益な資料と考えられているのはフラウィウス・ヨセフスの著作やタルムードなどである。新約聖書の福音書にもサドカイ派は現れるが、その中でサドカイ派は霊魂の不滅や死者の復活、天使の存在を否定しており、それもまたファリサイ派との論争の種になっていたと記されている。

祭司とは、本来、人を神に執り成す仕事です。
ところがそういう権威が集中するところであるからこそ、人のことよりも自分のことを考えることが起きてきます。
罪を犯しやすいといえます。
人間のエゴイスティックになっていく姿が見えてくるようです。
ですからこのアンナスもカイアファも、大祭司にふさわしい人物であったとは言えません。
この時、目の前で裁かれているイエス・キリストこそ、まことの大祭司にふさわしいということが浮かび上がってきます。
イエス・キリストは、誰を犠牲にするよりも、あるいはどんな動物の犠牲を捧げるよりも、自分自身を犠牲の捧げ物にして、父なる神様に私たちを執り成してくださったお方です。だからこそ、あの17章のイエス・キリストの長い祈りも「大祭司の祈り」と呼ばれるのです。

主イエスを逮捕するときに、ローマの軍隊まで繰り出し、捕らえるだけではなくて「イエスを捕らえて縛り」(12節)とあります。
この福音書だけの表現です。

そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」


アンナスの質問が形式的であったことは、先ほど申し上げました。
それは彼らが実はすでにイエス・キリストに対して、裁きの判決を決めてしまっていることを示しています。
いつ彼らがそれを決定したのか。
それは11章47〜53節に記されています。
「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう』」(11:47〜48)。


彼らは、人々が神殿を中心とした信仰ではなく、主イエスを信じる信仰に変わってしまえば、自分たちの存在価値がなくなることを恐れているのです。
また、そういう混乱に乗じて、ローマの支配権が今以上に強化されるだろうと群集を翻弄しました。
そうすればかろうじて与えられている自治権も失い、何もかも失われてしまうことを恐れている。無理もない話です。

そのように動揺する人々の中で、カイアファは冷徹な目をもっていました。
彼はこう言ったのです。
「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
彼は、ユダヤ教のトップです。
これは、非常に説得力のある論理でした。

つまり、民全体の罪の赦しを神に祈り求め、そのための犠牲祭儀を捧げる立場であり、また民に神の御言を語り聞かせ、民が信仰によって生きることができるように導く立場なのです。
しかし、現実の彼は、商売人であり、政治家でした。

ここで「好都合だ」ありますが、それは「自分の助けになる、自分の利益になる」という意味です。
主イエスの捕縛は「正しいかどうか」ということではなく、自分たちにとって「好都合かどうか」ということで判断されているのです。
人間の利己主義を示す言葉です。


そこでは、その人間が正しいのかどうかということは二の次です。
その男を犠牲にすることによって、みんなが助かるのであれば、それでいいじゃないか、ということを、カイアファは提案したのです。
ですから、既に、「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」(11:53)。
陰で殺そうというのではありません。
ユダヤの最高議会で、それを決定していたのです。
あの時、カイアファが口にした言葉の通りに、ことは進んでいきます。
福音書記者ヨハネは、それを確認するかのように、ここでもう一度、「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった」(14節)と繰り返し記すのです。
表面的には、カイアファの思惑通りにことが進んでいるように見えます。
それは、非常に人間的なこと、政治的なことです。
イエス・キリストの死というものは、そのレベルですべて説明がつくような事柄であるかも知れません。
「なるほどイエス・キリストは、それでみんなの犠牲になって死んだのか。」ところが、そこには、神様の意志が働いていた。
カイアファをして、神が語らしめた。
カイアファは知らないのです。
「一人の人間が民の代わりに死ぬ方がよい。」それは神様のご意志でもありました。
そのことがこの後、粛々と進められていくのです。

しかし、下手をすると私たちの場合もそのようなことが起こるのではないでしょうか。
キリスト者である方が都合のよい場合、信仰者であり続け、不利になれば、さっさと信仰者であることをやめてしまう。
隠してしまう。
当時の人々は、主イエスを捕縛して、自分たちの都合のよいように主イエスを利用しようとしているだけなのです。
しかも、その前提には、自分が正しいという思い込みや裁く権利があるとの錯覚があります。
人は権力を笠に着て、それを振るうのです。
権力を持つ者、その者に追従する者たちは横暴に振舞うのです。

ヨハネ福音書は、イエス様を殺した人たちを「ユダヤ人」と呼んでいます。
いったい、ここで言う「ユダヤ人」とはなんでしょうか?
もしもこの言葉を、イエス様を十字架に付けた「悪い民族」のことだと誤解するなら、その時わたしたちは、間違いなく、「ユダヤ人」をわたしたち全体のための「身代わりの山羊に」仕立てていることになります。
過去2000年間、キリスト教は、こうして「ユダヤ人」を身代わりの山羊として扱ってきました。
ナチスのユダヤ人虐殺は、この理由のもとに容認され実行されました。
決して一部の人間だけの仕業でも偶発的な出来事でもなかったのです。
では、ヨハネ福音書は、なぜイエス様の十字架を「ユダヤ人」のせいにしたのでしょう?
それは今指摘したとおり、旧約聖書には、このような犠牲の構造が、宗教的に組み込まれているからです。
しかもその構造が、人類全体の文化と文明の根底に潜むことを明らかにするだけでなく、人間の宗教性それ自体に潜む犠牲の構造だということ、このことを「ユダヤ教/ユダヤ人」が明らかにしているからです。
小さなグループからより大きな団体、会社や様々な組織、社会や国家や民族、これらの大小様々な人間の集まりの中には、グループ内のいじめから戦争まで、広い範囲の「犠牲の構造」が潜んでいます。


群衆も指導者も、為政者も宗教的指導者も、全員がひとつになって、イエス様を十字架につけたというのが真相です。
ちょうどナチスのユダヤ人虐殺の場合のように、虐殺は一部の指導者だけでなく、一般の民衆も同じにその罪に荷担したのです。
だからイエス様の十字架の出来事においては、いかなる意味においても、ある特定の人間が、被害者であり、加害者であるというように考えてはならないのです。暴力は、人と人との間の一切の区別を失わせるからです。神のみ前にすべての人が罪を犯したとパウロが言うのはそういう意味です。だから、大祭司が「みんなに好都合である」と言った時の「みんな」とは、文字通り人間全体を指しているのです。

わたしたちはこういう暴力の典型的な例をカインによるアベルの殺害に見ることができます。
人類の文明は、そこから始まったと旧約聖書は伝えています。
このような人類の営みに潜む悪こそ、イエス様を十字架に付けたほんとうの犯人であり、ヨハネ福音書は、このような意味で、その真犯人を「ユダヤ人」と呼んだのです。
ですから、ここで言う「ユダヤ人」とは、意識的、無意識的に、そのような社会と文明の構造の中で生きているわたしのことであり、あなたのことなのです。
ヨハネ福音書の言う「ユダヤ人」の真の意味が、これです。
だから、キリスト教という宗教の名の下に人種的な差別をこめてユダヤ人を犠牲にする者たちのほうこそが、ここでヨハネが言う「ユダヤ人」であり、大祭司カイアファであり、彼と「共に立つ」最高法院のメンバーの一人なのです。

ですから、私たちは、主イエス一人を殺してしまうほうが好都合だ などと考えてはなりません。
共に主の十字架に預かるものとしての歩みを重ねてまいりたいと思います。

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