日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 聖なる者となる 2010/8/1  ヨハネ17:6-19

<<   作成日時 : 2010/08/01 16:03   >>

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本日は、ナザレン教団では青年日として指定されている主日です。
自分はもう青年ではない、とおっしゃる方もおられるかもしれません。
NYIの定義によると18歳から22歳までが世界基準の年齢制限のようですが、日本においては40歳が上限になっています。
それでも減少傾向が顕著です。
かつではNYIで活躍されたという方が齢を重ねておられることと思います。



さて、先週からヨハネ福音書17章の主イエスの祈りの箇所を学んでいます。
今日の箇所は「弟子たちへの祈り」、「弟子たちのための祈り」と言われるところです。
主イエスは間もなくこの世から去らなければならない。
しかし、イエスを信じた者たちは引き続きこの世に残こります。
だから「神様、彼らを守ってください!今までは私が彼らを守り導いてきました。しかし、今あなたの御許に行かなければなりません。彼らを悪い者から守ってください」と主イエスは祈られました。
それこそ親がこの世を去る時に、残される子どもたちを守ってくださいと胸を引き裂かれるような気持ちで祈るのと近いものがこの祈りにはあると思います。
主イエスの愛があふれる祈りだと思います。

聖書は、私たちに二つのことを教えてくれます。
ひとつは、神とはどんなお方かということ。
もうひとつは、「私」が何者なのかということです。
人は神のかたちに造られました。
人の心には、神しか埋めることのできない空洞があって、人は、意識するにせよ、しないにせよ、何らかの形で神を求めているといいます。
神を知ろうとしています。
神を否定する人であったとしても、人生の目的や意味、いつの時代にも変わらない真理や真実を知りたいと願っています。
また、多くの人は、自分が何者かということを知ろうと苦闘しています。

自分が何者であるかを知る時、それが生きる力になるということは、人間にそのままあてはまります。
しかし、自分を知ることは神を知ることとつながっています。
人は、神を知ることなしに、自分を正しく知ることはできません。
しかも、神を知ることは、キリストを知ることなしにはできないのです。
信仰者は、もちろん、キリストを知っているはずですが、キリストをどのようなお方として知っているでしょうか。
また、自分が信仰者であるということをどのようにとらえているでしょうか。
キリストは誰なのかということとともに、信仰者とは何者なのかということを、はっきりと理解しているでしょうか。

6節で、主は、信仰者を「世から選び出してわたしに与えてくださった人々」と呼んでいます。
が、ここで信仰者は「世のものではない」と言われています。
14節にも「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。」とあります。
信仰者がこの世に属していないというのは、どういう意味でしょうか。
信仰者も、信仰者でない人もみな、この世で生活しています。
おなじように食べて、働いて、生きています。
信仰者は霞を食べているわけではりませんせんし、昔荒野に降ったマナを食べて生きているわけではありません。
信仰者は、どこの国、どの町に住んでも、そのところで良き市民として生きようとし、他の人と特別変わった生活をするわけではありません。
しかし、信仰者の生きている原理が、聖書が「世」と呼んでいるものとは根本的に違うのです。
14節で「世は彼らを憎みました。」とあるように、「世」というのは、神に逆らい、神から遣わされたキリストを憎み、キリストを信じる信仰者を嫌う人々をさしています。
また、25節に「世はあなたを知りません。」とあります。
神を知らない人々、いいえ、実は、神を知ろうとしない人々、神を否定する人々が世を作り上げていると言うこともできます。
神を否定した社会であっても、何かの原理、原則がなくてはやっていくことができません。
ルールを作るのは結局のところ、そこでは人間が神となり、人間の欲望が支配原理になるのです。
それで、使徒パウロは、キリストの十字架に敵対する人々について、「彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」(フィリピ3:19)と言って嘆いています。

では、信仰者が「世のもの」でないなら、いったい、何のものなのでしょうか。
主は、「彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。」(6節)と祈っています。
信仰者とは、神のものであり、キリストのものとなったものです。
主は、「彼らは、御言葉を守りました。(6節)と言いました。「世」は神を知らず、神のことばを聞こうとはしません。
しかし、キリストの弟子たちは、みことばに聞き、キリストを信じ従ったのです。
8節に「彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」とあるとおりです。
ここで主は、弟子たちが、神のものであったから、神のことばに聞き、神の遣わされたキリストを信じたのだと言っています。
しかし、人間の側では、神のことばを聞き、それを信じたので、神のものとされたという体験をします。
私たちが信じたから神のものとされたといういのと、神のものだったから信じるようになったというのと、どちらが正しいのでしょうか。
どちらも正しいのです。
信仰者の多くは、信仰を持つようになった背後に、不思議な神の導きがあったことを感じ、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)とのことばに、心から同意することができます。
また、神がご自分のものとしてお選びになった人は、どんなに神から離れ、迷っていても、かならず神のもとに立ち返り、イエスを主、キリストと告白するようになることを信じることができるのです。

神の選びは、私たちの理解をこえたもので、理性でとらえきれるものではありませんが、神の選びを信じる人には大きな励ましを与えてくれます。
もし、救いが私たちの信仰だけにかかっているとしたら、それは、私たちが神の手にすがりついているだけのことです。
私たちの信仰が弱くなって、その手を離したら、私たちはたちまち救いから落ちてしまうことでしょう。
しかし、神が、キリストを信じるものを選んでくださっているというのは、私たちが差し出した信仰の手を、神のほうで握りしめていてくださるようなものです。

四女はエスカレーターに乗るのが怖いようです。
それまでは、手をつないでいると拘束されていると思うのか、むしろわたしが手をつなごうとしても離して走り回ります。
しかしエスカレーターに乗るときには必ず私の手を握ってきます。

親がこどもの手を握っていれば、こどもが親の手を離して、ころびそうになっても支えることができます。
「わたしがキリストを信じた。」というだけでなく、「神がわたしを選んでくださった。」という確信を持つことはなんと幸いなことでしょう。
主は、ヨハネ10:28-29で「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。」と言われました。
キリストを信じる者は、主イエス・キリストの手と、父なる神の手の、ふたつの大きな手でしっかりと握りしめられているのです。

「クリスチャン」と言う呼び名は、実は、人々からつけられたあだ名でした。
「キリストこそ私たちの救いである、希望である」と言っていた弟子たちを、人々は「彼らはキリストにつく人々、キリストのものだ」という意味で、「クリスチャン」と呼んだのでした。
人々は、軽蔑の意味でこう呼んだのですが、弟子たちは、この名を誇りにして使うようになりました。
「クリスチャン」という名には、クリスチャンの本質が言い表わされています。クリスチャンであることの本質は、「キリストのもの」とされたことにあるのです。自分がキリストのものであることが分かる時、クリスチャンは、この世にあって、目的と、意義と、そして確信をもって生きることができるのです。

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