日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 喜びに満たされる 2010/7/18 ヨハネ16:16-24 

<<   作成日時 : 2010/07/18 20:48   >>

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この16章は、ぶどうの木の譬えが語られた15章と主イエスの祈りだけが記される17章に挟まれている章です。
そして、この16章を特徴づける一つの言葉は「悲しみとよろこび」であることを前回はテーマとしました。
出産の例の中で「苦しむ」と出てきますが、原文では「悲しむ」と同じ言葉が記されており、「悲しむ」という動詞もここ以外には一か所にしか出てきません。

この「悲しみ」という言葉が最初に出てくるのは六節です。
「わたしが、これらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。」

しかし、今日の個所の後半22節にはこうあります。

「しかし、わたしは再びあなたがたに会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」
そして24節では、「あなたがたは喜びで満たされる」と主イエスはおっしゃっています。
つまり、この「悲しみと喜び」が、あるいは「悲しみから喜びへ」が、16章の一つの主題であることは間違いありません。

そして、「悲しみから喜びへ」とは、やはり時間の経過の中で起こる変化ですから、前回も言った通り、この16章には「時」に関する言葉がたくさん出てきます。
16節以下に頻出するのは、一見してお分かりのように「しばらくすると」です。使われている言葉は、ミクロスと言います。
ミクロの世界のミクロです。
ほんの僅かな時、一瞬と言ってもよいかもしれません。
そのほんの僅かな時の差で、人間の全歴史がひっくり返るようなことが起こり、また一人の人間の人生がひっくり返るようなことが起こるのです。

しばらくすると見なくなる、そして見るようになる

今、主イエスは、ご自身がこの世に逮捕され、あっという間に十字架に磔にされて処刑されることをご存知でした。
その時が来ている、切迫していることをご存知なのです。
そして、弟子たちも、ことの詳細はさっぱり分からないとしても、何か重大なことが起こるであろうことは察知しています。
しかし、それが何なのかは分からない。そういう状況です。

そういう状況の中で、13章後半から、主イエスはユダを除く弟子たちに、これから自分は「父のもとへ行く」こと、そして弁護者、また真理の霊として帰ってくることを語ってきました。
しかし、そのことはまだ起こってはいない。
それでも、そのことが起こった時のために、予め語り続けておられるのです。
そこで言われることは、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」という謎めいた言葉です。
この「見る」という言葉は、今日の個所に四回も出てくる大事な言葉です。

でも、弟子たちは、さっぱり分かりません。
「見る」とは、どうしても肉眼で見るという意味で考えてしまうからです。
しかし、主イエスはそういう意味だけでおっしゃっているのではありません。
だから、彼らとしては「何のことだろう。何を話しておられるか分からない」とお互いに言うしかないのです。

そこで、イエス様はこう言われます。原語では「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う」です。
非常に大切なことを語る時の決まり文句です。

「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」

これが「しばらくすると」起こる一つの現実です。
ヨハネ福音書の文脈で言えば、主イエスは最後の晩餐の時に弟子たちに語っているのです。
その夜が明けぬ間に、主イエスは逮捕され、そしてあっと言う間に処刑されて、最早弟子たちの目には見えなくなるのです。
その時、弟子たちは「泣いて悲嘆にくれる」しかありません。
しかし、かねてからイエス様を亡き者にしようとしていた世の支配者たちは、イエス様が見えなくなったこと、つまり死んだことを喜ぶのです。
彼らがついに勝利をしたのですから。

しかし、それから「しばらくすると」、弟子たちの悲しみは誰も奪い去ることが出来ない「喜び」に変わる。
何故かと言うと、主イエスが復活し、彼らに聖霊を与えるからです。
その聖霊において、彼らは再び主イエスを見るからです。
これまでに何度も引用してきた20章に、その言葉の実現が記されています。
弟子たちが自分たちの罪に打ちひしがれて悲嘆の中に閉じ籠っていた部屋に復活の主イエスが現れました。
そして、「平和があるように」と語りかけて下さった。
その時、主イエスを見た弟子たちは「喜んだ」とあります。
この復活の主イエスと出会う喜び、それはもう誰も奪い去ることは出来ません。


そのことをお語りになった後、主イエスは突然具体的な例を持ち出されます。

女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。

当時の出産は、隔離された病院などでなされるわけもありません。
陣痛の苦しみによる女性の叫びは、誰もが家の中であるいは外で聞いておりよく知っていたのです。
そして、この陣痛の苦しみは、旧約聖書の中では、神の恐るべき裁きが到来した時の人間の苦しみに譬えられてもいます。

預言者イザヤは、こう言っています。イザヤ 13:6
「泣き叫べ、主の日が近づく。 全能者が破壊する者を送られる。
それゆえ、すべての手は弱くなり、人は皆、勇気を失い、恐れる。
彼らは痛みと苦しみに捕えられ、産婦のようにもだえ、
驚きのあまり、顔を見合わせ、その顔は炎のようになる。」

こういう神様の恐るべき裁きの到来が、この主イエスの例話の中に暗示されているのだろうと思います。
それはつまり、これから弟子たちが味わう悲嘆、悲しみについて語っているようでありながら、そして、事実そうでもあるのだけれど、その根底において、主イエスご自身が味わう苦しみ、悲しみについて、そしてその後に味わう喜びについて語っておられるのです。
そして、その主イエスの喜びが弟子たちにも与えられる。
そういう現実を語っているのだと、私は思います。
しかし、それは一体どういうことなのか。それが問題でしょう。

しばらくすると起こること。それは、弟子たちが主イエスを「見なくなる」ことです。
しかしそれは、主イエスが十字架に磔にされて殺されることなのです。また、弟子たちが主イエスを「見なくなる」とは、現実には、主イエスが捕まった時既に弟子たちは逃げてしまうのですから、肉体をもった主イエスの姿を肉眼で見なくなるという意味では、その時に既に見なくなっているのです。
主イエスはひとり捕まります。そして、ひとり十字架に磔にされる。激しい渇きを覚えつつ。

しかしそれは、何のためなのでしょうか。そこで起こっていることは何なのでしょうか。それは、罪に対する神の恐るべき裁きを、罪なき神の独り子が全身で身に受けるということなのではないでしょうか。罪を犯した者が裁きを受けるのは当然です。しかし、その当然のことが起こるときだって、私たちは泣き叫びます。子どもが悪いことをして親に叱られる、折檻される、そういう時、「自分は悪いことしたのだから、この裁きは当然だ」と平静にいられるでしょうか。悪事の結果怒られるとは分かっていたって、悲しくて、怖くて、苦しくて、泣き叫びます。しかし、自分が罪を犯してもいないのに、罪人の代わりに、怒られたり折檻されるどころか、処刑されるとしたら、一体、どれほどの苦痛がそこにはあるでしょうか。それはまさに死ぬほどの悲しみを味わうということでしょう。主イエスが今、目の前にしていること、しばらくすると起こること、それはそういう理不尽としか言いようがない苦しみ、悲しみの現実なのです。

そのことを、主イエスは出産に伴う苦しみに例えられました。
しかし、出産が無事に成功するならば、その苦しみは喜びに変わります。
その悲しみは、子どもを生み出すための悲しみなのであって、子が無事に生まれた時には喜びに変わるのです。
主イエスは、今、子を産み出すための苦しみを味わおうとしておられるのです。

私は男性ですから、


「産む」という言葉、それは受け身になれば「生まれる」となります。
その言葉が、この福音書においてどこで重要なところで使われています。

最初に出てくるのは、1章です。
言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」とは、「人はイエス・キリストによって創造されたが、人はイエス・キリストを認めなかった」ということです。
それは自分の命の源を認めない、知らない、拒絶することです。
赤ん坊が親の存在を拒絶するのと同じことで、それは自分の命を拒絶することと同じです。
信仰に入る前の私たちすべては、そういう人間でした。
そして、その人間のことを聖書は罪人と言うのです。
罪人とは、本当に惨めで悲しい存在です。
主観的には喜んでいたとしても、それは欲望が満たされている喜びに過ぎず、根源的には命の源から離れしまっているのですから悲しい存在です。
しかし、その罪人を神の子とするために、初めからあった言、つまり神の独り子イエス・キリストは世に来られたのです。
そしてそれは、端的に言って、十字架に磔にされるために世に来られたということなのです。

どのようにして、罪人は神の子として生まれることが出来るのか。
それは、イエス・キリストを受け入れること、その名を信じることによってです。イエス・キリストが自分の罪を取り除くために犠牲となって死んで下さった「神の小羊」であると信じることなのです。
それはつまり、自分は罪なき神の独り子が十字架の裁きによって死ななければならないほどの罪人であることを認めることでもあります。
その人は、自ら罪を償うことなく、また怒られたり、折檻されることなく、ただ主イエスの十字架の贖いを信じる信仰の故に赦され、新しい人、神の子として生まれるのです。
主イエスは、この神の子を生み出すためにこそ世に来られ、そして今まさに陣痛の苦しみ、悲しみに心が満たされている。
しかし、父なる神は、必ず信じる者を生み出して下さるという確信の故に、既に喜びにも満たされている。
その悲しみと喜びの中で、主イエスは、父のもとへ行こうとされているのです。
 主イエスは、わたしの名によって願うなら、何でも与えられ、あなたがたは喜びで満たされる、とおっしゃいます。それは、十字架に磔にされて死んだ主イエスが復活して生きておられることを知った時の弟子たちに対する言葉です。つまり、聖霊を注がれて、主イエスを信じることが出来るようになった者たち、つまりキリスト者に対する言葉なのです。

 「わたしの名によって願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
 
 今、「心が悲しみで満たされている」弟子たちが、主イエスに再び会った時は、主イエスの名によって願い、そして与えられ、「喜びで満たされる」ようになるのです。

 この「満たされる」とはまさに充満するということですけれど、ヨハネ福音書では、何度も何度も、聖書に書かれた言葉が「実現する」という意味で出てくる言葉です。完全に実現する。神の言葉が実現する。それが実は、主イエスの喜びであり、そして、主イエスの喜びが、私たちの喜びとぴったり重なってくることなのです。聖霊に導かれて、主イエスを信じ、そして主イエスを証しすることに伴う苦しみ、悲しみを味わいつつ歩む私たちは、次第に、主イエスが喜ぶように喜ぶことになる。主イエスに似てくるのです。

 思い出して下さい。15章11節には、こうあったでしょう。

 「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」

 主イエスの喜び、それは「滅びの子」以外は、誰も滅びない、神の子となるということです。この喜びに主イエスは溢れている。神様の言葉は必ず実現するのだという確信をもって、悲しみの中にありつつ既に喜んでいるのです。そして、その主イエスの喜びが、弟子たちの喜びになること、私たちの喜びになることを願っておられるのだし、その願いが実現することを確信して既に喜んでおられるのです。私たちが礼拝において、つまり、主イエスと共に過ごすことを通して、主イエスに似た者となるとは、実にこの主イエスの喜びに満ち溢れるということです。苦しみ、悲しみの中にありつつ、しかし、そのすべてを凌駕する喜びに生かされることなのです。

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