日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 神との繋がりを知る 2010/6/13 ヨハネ15:1-10

<<   作成日時 : 2010/06/13 09:22   >>

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本日の箇所で 主イエスはその植物に例えられて「わたしはぶどうの木です。」と言っておられます。
私は「植物は難しいなー、意思が伝わらない、何を考えているか解らない、どうしたらいいか解らない、どうして欲しいのか全然解らない。」と感じます。
主イエスは、「私は丸々です」という言い回しをよくなさいました。
10章では「わたしはよい羊飼いです」とおっしゃいました。
そもそも、羊とぶどうというのは旧約聖書においても、よく用いられ親しまれているたとえです。
それらは、このイスラエルにとってもっとも大切なものと考えられていたからです。
現代に生きる日本人にとっては想像できないほど生活に密着したものでした。
旧約聖書の登場人物の多くが羊飼いであり、詩篇23編においては、神ご自身が
羊飼いであり、イスラエルの民は羊にたとえられています。
ルカ福音書によれば、主がお生まれになったクリスマスに最初にお祝いに訪れたのは羊飼いでした。

イザヤ書には、神様が一生懸命育てたぶどう園が不毛な実りのないぶどう園だったので、神様がそれを見て悲しまれたと記されています。


此処で「わたしはぶどうの木です。」こうおっしゃって植物の例えで「エゴウエイミ(わたしはそれだ)」という大事な締めくくりをしておられます。
ですから、この植物の例えを以って主イエスはどんな大切な事を私たちに教えようとしておられるのかを考えてみたいと思います。
先ず目を留めたいのは1節です。
そこにこうあります。
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」こう主イエスはおっしゃっています。
「ぶどうの木、しかもまことのぶどうの木」だと主イエスはご自身について言っておられます。
そしてその後に、今日先ず目が留まるのはそこなのですが「わたしの父は農夫です。」と言っています。

皆さん、主イエスにとって父とは、言うまでもなく、それは神様であるわけです。
主イエスは此処で神様を農夫と敢えて言っておられます。
そこにとても目が留まったわけです。
神様であるならば、聖書の中に「わたしはあなた方をぶどうとして植えた。」とイスラエルの民のことをいっています。

それは暗に、この農夫を意図しているようにも思えます。
神様は全能なお方ですから、全知なお方ですから、どんなことでも出来るということからするならば、敢えて神様がそうしたといって差し支えないところですが、でも主イエスは、そう言わないで「農夫です。」と言っている。
そこに大事な意味があるように思います。
農夫であるということを通して、主イエスはきっと主イエスにとってのお父様が農夫である、それは言うならば絶対に失敗の無い、あるいは本当に命がけで守り育て、どんなことでもしてあげるという事を言わんとしている、そんなことを感じるのです。

皆さんの中にも植物大好きという方が多いのではないかと思います。
「植物に水を遣る時もただジャッとかけるだけでなくして、『きれいだね。』『美しいよ。』『今日も一日よろしくね。』と声をかけてあげることが大切だ。」とよく言います。
さらには「音楽、BGMを聞かせるといい。」などとも聞きます。
「なるほど、その心が伝わるのかな。」という風に思います。

成田教会の礼拝に来てくださる青葉台教会の阿部兄は、農業の勉強をされています。
昨年分けていただいたおコメはとても美味しいものでした。
農業従事者の高齢化を考えると生産コストと作業効率向上を図った生産を全否定することは出来ませんが、
それらと愛情を込めて作るものとには明らかに違いがあるのだろうと思います。

さて、主イエスは此処で「わたしはぶどうの木、そしてわたしの父は農夫です。」とおっしゃいました。
それは、プロとして、人間を取り扱うペシャリストとしての神様の存在があるのだと思います。
主イエスが敢えて神様を農夫と言って紹介している処には神様の私たちに対する約束、素晴らしい大事な物が含められて言われているのかなと思いました。
人間であるならば、どんなに名医であろうと、どんな農家であろうと、どんなスペシャリストであったとしてもでもやはり失敗があります。
限界があるということです。
ましてや厳しい天候のパレスチナ地域においてです。
天候であったり、あるいは人的な失敗であったり 様々な条件で、人間にはどうしようもないアクシデントが自然界にはあるのです。

しかし主イエスが「わたしの父は農夫です。」と言う時には最早それは失敗の無い、どんな事でも出来るという事です。
全てを知り尽くし、全てを支配されるお方として、主イエスは私たちに神様を紹介して下さっているのだと思うのです。

その主イエスが今度は5節に目を移して見ますとこうおっしゃっています。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」とあります。
ぶどうの木と父との関係を話した後で、今度はぶどうの木と私たちとの関係を主イエスは此処では話しておられるのです。
私たち、これは信仰者ととっていいわけですが、信仰者と主イエスとの関係は幹であるぶどうの木に繋がる枝だと言っておられます。
枝と幹、そこには完全な繋がりがあって、そのつながりを通して、幹の樹液が流れて枝は葉が繁り実を結ぶということであります。

そのことをとても大事なこととして主イエスはこのところで話しておられるのが判ります。
4節だけもう一度読んでみます。
「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」こう言っています。
ここに「とどまりなさい。」「とどまりなさい。」と3度も繰り返されています。これは口語訳では「繋がっていなさい。」と訳されています。
これは枝と幹との繋がりということです。
5節にもそう、6節以下にも繰り返されています。
10節までに何と10回繰り返して主イエスは「とどまりなさい。わたしに繋がりなさい、繋がって初めて実を結ぶのですよ。」という風に、とても大事なこととして、教えておられるわけであります。

主イエスがここで「とどまりなさい。繋がりなさい。」ということは、私たちにとってどういうことなのでしょうか。
枝が幹に繋がるということと信仰者が主イエスに繋がるという事が判り易い明瞭な例えですが、その例えはどういうことを意味しているのでしょうか。
何をしなさいと言っているのか、どうしたらそうなるのかということでしょうか。
私は此処を黙想する中で3つの事を教えられました。それを参考におわかちして、そこから更に深めていきたいと思います。

私は先ず、この枝と幹の繋がり、そこには樹液が流れているということですが、それは聖霊の流れです。
先ず第1のこと、聖霊による交わりの喜びがある。
主イエスと私たちとの間には聖霊という素晴らしい物が流されて、その聖霊によって私たちは心が清められ、心が整えられ、心が引き上げられていくのです。
聖霊の交わりを通して、私たちは本当に整えられていきます。
聖霊の交わりの喜びの大切さ、素晴らしさを感じます。
そして2番目のこと、それは御言葉による養いということです。
主イエスの中に留まるということは、聖書として与えられた神の御言葉を私たちは頂くことで、私たちがどうしたら良いかを1つ1つ御言葉から教えられていきます。
皆さん、御言葉を読むことの大切さであります。
毎朝御言葉を頂く恵み、皆さんどうでしょうか。喜びでしょうか。

本当に御言葉は素晴らしいですね。
御言葉に琴線する、御言葉に聞く、御言葉に開かれる敬虔、なにか世界が神様に近いな、と感じます。
御言葉による養い、1つ1つその中から本当に私たちは整えられていきます。
これが2つ目、そして3つ目それは、祈りによる敬虔です。
祈り。皆さん、祈りは大切ですよね。
「あなた方の願いは何ですか。さー、どんな願いでもわたしに言いなさい。」。
主イエスに祈りを告白します。
困った時に祈りますね。病気になれば祈りますね。
時には図々しくなって、「100万円どうしても欲しいのです。何としてもあれが買いたいのです。」そんな祈りもしてしまうわけです。ポンと100万円来たら、ワーと思いますが、なかなかそうはいかない。
そんな簡単に応えられることはない。それはどうしてか。動機が悪いということです。
でも、兎に角こういう風に、何でもご利益的な祈りから始まって、「何でもいいから祈りなさい。」と主イエスはおっしゃっています。
応えられない事を通して、応えられない応えを通し、私たちは主イエスの御心を少しずつ判っていきます。
右と祈ったのに応えが左であったり、白と祈ったのに黄色い応えが帰ってきたりすることで、神様の導きを実感するのです。
それが枝と幹の関係だと思います。
このようにして、私たちは主イエスにより近く歩むことの中で整えられていくのです。
でも、皆さん、今日主イエスがここにお話くださった中により大切なことがあります。
それは2節のことばです。ここに目を移したいと思います。
「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」とあります。
皆さん、刈り込みの話です。
これが主イエスの今日のポイントなのです。

5節を見ると「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」と、どんな枝でも繋がってさえいれば実を結ぶという書き方、そういう言い方であります。
ところが2節では、いや、そうではない。「実を結ばないものは父がそれを取り除く。」とあります。
そして、「刈り込みをする。」ともあります。
一寸矛盾したような言い方です。
でも、そこに大切な意味がある、メッセージがあると思います。

家内の実家にはキウイ棚があります。
最初は立派な車庫ですね などといわれたそうですが、天井は突き抜け、キウイの花の季節には花粉で車が真っ白になるのでとても車庫ではありません。
このキウイは年によっては何百個となります。
キウイはすごく勢いが良くて、4月、5月、芽が出たら、どんどんどんどんその芽が大きくなって、何処まででも伸びていくといった感じで生い茂っていきました。
もう何年も経ちますが、みかんばこにぎっしり送ってくる年もあれば、20-30個を他の物とあわせて送って来る年もあります。
手入れの中には、受粉だとかさまざまな作業があるのだと思いますが、重要なのは刈り込みなんだろうと思います。
まっすぐ伸びた枝から芽が出て、翌年その芽から実がなるのだそうです。

私は主イエスがここにおっしゃった刈り込みということについて、改めて考えさせられたことでありました。
主イエスが此処に言われる「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」ということを改めて心に留めさせられたことであります。


主イエスは私たちを本当に受け容れて下さいます。
そしてお互いに受け容れあう中で、評価もされ、褒められもし、称賛もあるでしょう。
良いことを良いこととしてお互いに認め合うことはとっても大切なことです。
でも私たちは評価され、称賛されるということはイコール良い実ではないのです。良い実というのは私たちが黙っていて称賛されることの中にあるのでは決してないのです。
エレミヤ書の2章21節には「わたしは、あなたをことごとく純良種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。」とイスラエルの民に対して主が嘆いておられるのです。
イザヤ書の5章2節にもそのことについて「甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。」とあります。
イスラエルの民がそうである、そのように、私たち信仰者も実を結ぶという事において、私たちは刈り込みをしない中で結ぶ実というのは、実は本当の良い実ではない、甘い実ではないんだということであります。

それが良い実を結ぶために主はあなたの隣に、あなたの友として、でも、あなたにとって実は少し辛くて、いやで、顔を見るのもいやだなと思うようなそんな人が実は隣に置かれるのだと言うのです。
その中で私たちはいやな思い、辛い思い、痛い思いをする。
しかしその事が実は大切なのだということです。
私も、それなりに信徒の時代に通りました。でも牧師になってなお通ります。なお通りつつもあります。
私はある時、「信徒は楽だ。」と思いました。
何故なら、信徒はいやだと思えば教会に行かなければすむのです。
事は簡単です。
牧師は「いやだ。今日は説教なんかしない。」そうはいかないのです。
信徒はここの教会ではなく他の教会へ行けば良いのです。
でも牧師はそう簡単に今度は此処の教会に来さしていただきますとはいかないのです。
そのように思ってしまって私自身の中に、「あー、信徒は楽だなー。」とか「あの人は問題だなー。」とか「ここの教会はズーと悪いことばかり引きずっているなー。」とか色んな事を考えてしまう。
でも、その一つ一つが実は、主イエスが「あなたの心だよ。」「あなたの内側だよ。」「あなた自身だよ。」と刈り込みをするためにきちんとそこに立たせておられる、それを深く考えさせられたのです。

“箴言” 27:17鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。
隣に本当に色んな方が居られる事を通して、いやな辛いところを通して、実は砕かれていく、扱われていく。
河口に近いところの石はみな滑々しています。
山から取り出された岩はごつごつしています。
ズーッと下っていく中であっちにぶっつかリ、こっちにぶっつかりしながら、やがて丸い石が出来ていくのです。
私たちは刈り込みをされていくのです。
刈り込みが大切なんです。
刈り込みによって滑らかに、柔らかに砕かれて練られていくのです。
主イエスはそれをきちんと私たちを見て下さっているのです。
ですから、時にふさわしい人をそこに置き、時にふさわしい試練を通らせ、時にふさわしいトンネルの闇の中で光の見えない辛い経験をします。
でも、それが大切、振り返ってみる時に「恵みはその中にあるなー。」という事を思い出します。


そしてその最後に「実を結ぶ」のです。
この言葉が最初に出てくるのは一二章です。
そこでの主語は、主イエスご自身です。
過ぎ越しの祭りの時にギリシア人が主イエスに会いに来た。
その時、主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とおっしゃいました。
そして、弟子たちに、「自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」とおっしゃったのです。ここでの「栄光」とは、主イエスが十字架にかかって世の罪を取り除くことです。そこで結ばれる「実」とは、その十字架の贖いを信じて新たな命を与えられた者たちのことです。
その者は、主イエスに仕えて生きる「弟子となる」のであり、その弟子のことを、「父は大切にして下さる」と主イエスは約束してくださっています。

私たち自身が、主イエスがその十字架の死を通して結んで下さった実なのです。私たちが主イエスを「わが師」と選んで弟子になったのではなく、主イエスが私たちを選んで弟子として下さったのです。
主イエスに仕える者として下さった。「仕える」とは、英語ではサービスですけれど、それは元来「礼拝する」ということです。
礼拝するとは神を崇めること、栄光を称えることです。
主イエスの十字架において現れた神の栄光、人間を滅びへと追いやる罪の力に勝利し、罪を赦し、新しい命を創造して下さった神の栄光に与り、その栄光を讃美する、世に告げ知らせる。
それが主イエスによって結ばれた実である弟子たちの姿であり、最大の喜びです。そして、その感謝と賛美にあふれた礼拝そのものが、私たちが豊かに結ぶ実でもある。
主イエスの内に留まり、主イエスをその内に受け入れることによって、私たちは実を結ぶ人間になります。
それは永遠の命という実であると同時に、神の栄光を讃美するという実です。

しっかりとぶどうの木につながっている、それだけで、私たちは神を賛美し 永遠の命を得られるのです。
繫がっているという自覚と喜びのうちに、神の栄光をあらわしましょう。

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