日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS ここから出かけよう 2010/6/6 ヨハネ14:25-31

<<   作成日時 : 2010/06/06 10:12   >>

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わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。
事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。
もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。
わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」

ヨハネ14:25-31





ヨハネ福音書14章は次の主の言葉で始まりました。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」
そして、愛することに関する言葉が続きました。
そして14章は、「心を騒がせるな。おびえるな」と主イエスはおっしゃり、「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく」という言葉で終わろうとしています。
4回に分けて学びました14章のテーマは、信じることであり、また愛することでした。
神と主イエスを信じ、愛することが出来るなら、弟子たちは心を騒がせる必要もなく、おびえる必要もないと聖書は語ります。
ここから立ち上がって、ここから出かけていくことが出来るのです。


こういう言葉を主イエスがおっしゃる状況は、かなり深刻でした。
主イエスに対するユダヤ人の敵意は殺意にまで達していました。
そのことを、弟子たちも既に11章の段階で感じていたのですし、13章の終わりでは、「一緒に死にます」とペテロにして言わしめています。
そして、イエス様は、弟子たちがついて来られない所に行くとおっしゃっている。それが死を指すことは、弟子たちもうすうす感じていたはずです。
十字架への緊張感を福音書記者ヨハネは描き出しています。

主イエスの言う「世」は、イエス様を犯罪者として十字架に磔にした世です。
誰も、イエス様が復活したことなど信じてはいません。
ですから、自分たちが殺したイエス様が復活して今も生きておられるとか、神様の命に従って世の罪を取り除く救い主であるだとか、
そんなことはお構いなしです。
宣べ伝えるキリスト者に対して激しい敵意を持っているのです。
そういう世にありつつ、イエス様は目に見える形としては自分たちと一緒にはいない。
ヨハネ福音書の背後にはある状況は、そういうものです。
だから、主の食卓を囲む礼拝が終わっても、立ち上がって、外に出て行く勇気がなかなか持てない。
だからこそ、弁護者としての聖霊、祈りに応えて助けに来て下さる聖霊の臨在がくるからと主イエスは強調されたのです。
つまり、肉眼では見えない形で共に生きてくださる主イエスを信じること、愛することが強調されるのです。
目に見えないということは、そばに居ないかもしれない、声が聞こえないかもしれないという不安です。
しかし、実際には「傍らに居るもの」の聖霊なる神が私たちと共に居てくださるのです。
そのことを受け入れ、信じる信仰と愛に生きる時にのみ勇気は与えられます。
主が共におられるのだから、心騒がせる必要も、おびえる必要もないことを知ることが出来るのです。
迫害や死の恐怖の中にあっても平和を得ることが出来るのです。


では主イエスの平和とはナンでしょうか

誰だって平和を求めています。
しかし、立場が違えば、平和の意味も違います。
上に立っている人、中心に立っている人の平和は、下や周辺に立っている人の苦しみであることは、よくあることです。
それが世の平和の現実でしょう。

主イエスは、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」とおっしゃいました。
世が与える平和、つまりそれは世の支配者が与えようとする平和であり、また私たちが通常考える平和でもあります。
それは繁栄であったり、健康であったり、力であったりします。
また、戦争がない状態を平和という場合もあります。
家族が皆健康で経済的にも安定している。
そういう状態を平和と言う場合もあるでしょう。
しかし、主イエスがここでおっしゃっている「平和」とは、そういう意味なのでしょうか。
そういう平和を与えると、主イエスはおっしゃっているのか?
それは全く違うとしか言い様がありません。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と主イエスはおっしゃっています。
ここで「あなたがた」とは、弟子たちのことであり、また私たちキリスト者のことです。
ここでは少なくとも世の支配者を含みませんし、その支配者によってパンと娯楽を与えられることで平和を享受している庶民のことも含みません。
「あなたがた」とは、「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」というイエス様の言葉を聞いて、信じている人々のことです。
そして、その主イエスを愛し、愛するが故に、主イエスが父の許へ行くことを喜んでいる人々のことです。

主イエスが父の許へ去り、戻って来るとは、十字架の死を通して罪人の罪を贖い、復活して天に上げられ、聖霊において帰ってくることであり、それは主イエスが永遠に私たちと共に生きてくださることです。
私たちを父の家に迎え入れ、父なる神と子なる神であるイエス様が、私たちをご自身の住いとして下さることなのです。
信仰と愛によって、私たちが神の内に生かされ、神が私たちの内に生きてくださる。
それこそが、主イエスが与えてくださる平和であり、その平和が与えられることで喜びに満たされる者たち、それが主イエスの弟子であり、私たちキリスト者なのです。


私が成田教会でご奉仕するようになり礼拝の最後に、派遣の言葉という項目を設けました。
私が毎週語る言葉、それは主イエスの代弁者として語る言葉ですけれど、こういうものです。

「平和のうちに、この世へと出て行きなさい。主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕えなさい。


これは願いであると同時に宣言であり、命令です。
「わたしは平和を与えた。さあ、立て。ここから出かけよう。わたしが共にいる。神を愛し人を愛して生きなさい。そのようにして、平和をこの世にもたらしなさい」という主イエスの宣言であり、命令なのです。

毎週礼拝の後、私は玄関で皆さんを見送ります。
その時、皆さんも色々な挨拶の言葉を言ってくださいます。
中には、「先生、お忙しいでしょうから御用をなさってください」という声をかけてくださる方もあります。
でも、あの場は、礼拝を通して平和を与えられた私たちが、戦いに出陣する場だと思っています。
この世からは決して与えられることのない平和を与えられた者たちが、平和の主を証しするために、信仰と希望と愛をもって生きるために出陣する。
そういう場です。
皆さん方は勝ってくるぞと勇ましく出て行くのです。
主が共にいてくださるのだから、何も心配しないでよい。
主イエスを信じ、愛して生きていけばよい。
主イエスを受け入れれば、主イエスが隣人を愛せるようにしてくださる。
仕えることを教えてくださる。
そのことを信じて、勇気をもって礼拝堂から出て行く。
それがあの時あの場で起こっている、起こっていなければならないことなのです。

主イエスとの食卓を囲む礼拝を終えて、立ち上がって、この部屋を出て行かねばならぬ弟子たちに向かって、15章18節以下で、主イエスはこうおっしゃっています。

「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」

そして、16:33では、こうおっしゃっています。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

「あなたがたがわたしによって平和を得る」という言葉は、復活の主イエスが、ユダヤ人、つまり世に対する恐れに捕らわれて部屋の鍵を締め切って佇んでいた弟子たちに現れた時に実現しました。


前回も言いましたように、14章では「世」と「あなたがた」が区別されています。
峻別されていると言って良い。
主イエスへの信仰と愛に生きる人々と、そうではない人々とは、主イエスにおいても明白な違いがあります。
しかし、その違いはどこにあるのかと言えば、それは主イエスの命令、掟を聞いて従うか否かにあるのです。
名前だけのキリスト者は、掟を聞いても従いません。
従わないのなら、この世と同じことです。
また逆に、世に生きる人々が、聞いて信じ、従うに至るならば、その時、その人は「あなたがた」と呼びかけられる人になるのです。そして、主イエスは14章の最後でこうおっしゃっています。

「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じなったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」

イエス様は「世は知るべきである」とおっしゃっています。
知って欲しいのです。主イエスが、何をなさっているかを。

父がお命じになっていること、それは父の掟です。
それは何かと言えば、10章にある言葉ですけれど、主イエスが、すべての羊のただ一人の羊飼いとなるために、羊のために命を捨てることなのです。
つまり、現在、教会という囲いの中に入っている羊だけでなく、今は入っていない羊のためにも命を捨てる。
それが主イエスに与えられた神の命令、神の掟なのです。
「だれもわたしから命を奪い取ることは出来ない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」と主イエスはおっしゃっています。
愛する者のために命を捨てること。
それが父の命令なのです。
そして、その愛する者とは、主イエスを愛している者だけではなく、世でもあるのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が、ひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とある通りです。

だから、主イエスがこれから世の支配者に捕らわれて殺されることは、神の命令に従うが故です。
主イエスが逃げそこなったとか、無念の最後を迎えたとかいうことでは全くありません。
世の支配者であれ、庶民であれ、皆、悪魔の支配に服している。
罪の支配に捕らわれている罪人です。
主イエスを、抹殺しようとする人間、無視し、拒絶する人間です。
しかし、その罪人を愛し、その者たちが悪魔の支配、罪の支配から解放されて、神の支配に移されるために、神と共に生きる平和を与えるために、主イエスは、弟子たちと食卓を囲んだ部屋から出て行こうとされるのです。
それは自分を殺す人々、また自分を裏切って逃げていく弟子たち、そのすべての人を愛し、命を捨てるためです。
そして、いつの日か、聖霊によってその事実を世が知り、救いに与るためなのです。世が知らねばならぬことは、このことです。

キリスト者が礼拝を通して与えられる平和、それは、私たちは主イエスからこのような愛で愛されていることを知らされる平和です。
主イエスを愛していたから愛されたのではありません。
命を捨ててまでして私たちを父の住いに迎え入れ、私たちを住いとして下さる主イエスに愛されたから主イエスを愛しているのです。
そして、主イエスが今も生きておられることを信じているのです。
そこに私たちに与えられた平和がある。
そこに喜びがあるのです。
そこに主の教えに従い、互いに愛し合う私たちが居るのです。

そういう愛の交わりの中で、「みなしご」ではない自分を発見することが出来るのです。
イエス様の名によって遣わされる使者と聖霊が、主イエスのすべての言葉を教え、思い起こさせるからです。
そこに平和がある。
そこに喜びがある。
世が与えるものとは全く違う、永遠の平和があるのです。
私たちは、その平和を知らされている。
その恵みに感謝しましょう。
その喜び、その平和をこの世にもたらすための戦いに出て行く。
それが私たちのこれから始まる一週間の歩みなのです。
そして、闇の力に押しつぶされそうになったとしても、心騒がせず、おびえず、勇気をもって、この世に平和をもたらすために心新たに歩み始めたいと願います。

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