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zoom RSS 人の意思と誘惑 ゼカリヤ14:3-9 2010/4/18

<<   作成日時 : 2010/04/18 21:05   >>

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本日はゼカリア書14:3-9の言葉が読みました。
この言葉の著者が活躍していた時代背景はペルシャ帝国が滅亡し、アレキサンダー大帝が登場した頃(333年)でした。
つまり、ヘレニズムの時代の始め頃であろうと思われます。
この時代は、弱くて小さな諸民族は強大な帝国によって支配され、軍事力によって抵抗し独立を実現するということは絶望的でした。
そのような状況の中で、イスラエルの預言者たちは「戦いの日が来て、戦わねばならぬとき、主は進み出て、これらの国と戦われる。その日、主は御足をもって、エルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる」(14:3、4)と語りました。
つまり、自力で立ち上がることはもはや不可能な状況だというのです。
神自身がエルサレムを包囲する強大な敵に立ち向かう、と言う。
神の直接的介入ということです。
神が戦うとき、天変地異が起こります。
大地震が起こり、太陽が昇らず、世界は冷え切り、氷河時代のようになり、夜と昼との差がなくなる。
それは人類が今まで経験したことのないような大災害を伴うと言う。
この大災害が起こったとき、神の民は災害に巻き込まれないように「逃げよ」というのが神の命令である。

2.「逃げよ」
神ご自身が激しく活動なさるとき、わたしたちは何かお手伝いしようと思ってはなりません。
あるいは何かできると思ってもなりません。
それは傲慢であり、冒涜であるともいえるかもしれません。
ただ、わたしたちにできることは、身を潜めて嵐の去るのを待つだけである。
「逃げる」とは自らの無力の告白である。
自力で問題を解決することができなくなったとき、絶望の淵に立って自滅するか、あるいは逃げるしかないからです。
その意味では、逃げるということは、自滅の道の否定であり、誰かが助けてくれることを待つ道であるとも言えます。
何も信じられなくなったとき、人間は逃げることもできません。
幼い子どもは逃げることを知っています。
しかし、大人になるといつしか逃げることを忘れてしまいます。
しかし、逃げるという方法がある、ということは恵みだとおもいます。
逃げることを敗北だと思っているのは傲慢である。
むしろ、逃げることこそ生命への道である。

3.「ただ一つの日」
その災いの日について、面白いことがいわれている。
「しかし、ただ一つの日が来る。その日は、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜もなく、夕べになっても光がある」(14:7)。
聖書における終末論の一つの特徴は、絶対的な終わりというものはない、ということです。
時間は神と共に永遠に続くということです。
一つの終わりは、新しい始まりであるということです。
終わりであると同時に始まりである、その時とは、キリストの時であり、キリストの時は過去にも属さないし、未来にも属さない。
それは「永遠の今」だということができます。
「そのときは昼もなければ、夜もなく、夕べになっても光がある」。
これほど美事に永遠の今ということを言い表した言葉はない。
永遠から永遠に輝く日である。

本日の朝礼拝の冒頭、本日が人生最後の日であればという話をしました。
仮定の話ですから、どんな答えが出てもいいわけですけれど、世が終わってしまうなら


主は最後の晩、聖晩餐をおこない、弟子たちの足を洗いました。
このことを弟子たちと過ごす最後の晩に行い、弟子たちの脳裏に焼き付けるために。

この日は世界歴史における最後の日ではなありません。
また、それは、同時に新しい世界歴史の始まりの日でもありません。
その意味では、過去の日々の最後の一日でもなければ、これから始まる新しい日々の第一日でもない。この日こそ、独自の一日、「ただ一つの日」である。

「その日、エルサレムから命の水が湧き出で、半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい、夏も冬も流れ続ける」(14:8)。
この水こそ、13章1節で語られている「罪と汚れを洗い清める一つの泉」から世界の隅々まで潤す生命の水です。
この言葉を読むとき、イエスがシカルというサマリアの村で見知らぬサマリアの女に語った言葉を思い出します。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:13-14)。
この日こそ、生命の日である。
大災害の日が同時に大いなる祝福の日となるのです。

神が人類の歴史の中に直接介入されたということです。
その意味では、わたしたちがキリストを迎えるためになすべき心の準備とは、わたしたちが徹底的にわたしたちの無力を自覚することだと思います。
何か、わたしたちにできることがあると思っているところには、神が介入する余地はありません。
神はわたしたちの弱さの中で働かれるのです。

問題は、そのことを信じられるのかどうかです。
おゆだね出来るかどうかだと思うのです。
委ねるとは100%あずけるということです。

この世の力と繁栄、それは私共の信仰の歩みにおいても、いつも誘惑となります。私共の信仰の歩みが道からはずれてしまいます。
それは、私共が苦しみに会った時、「どうして、神様は私に何もしてくれないのか。神様は本当に私を愛しているのか。」そういう疑いの心が湧いてきます。

自分ではこちらの方向に行きたいと思っているのに、どんどんそちらと違う方向に行ってしまうことがあります。

そういうことがあることは皆さんも良く知っているでしょう。
しかし、誘惑というのはそれだけではないのです。
その人が人生において、いわゆる成功を収めた時、これも又、私共にとっての誘惑の時となるのです。
忙しくなる。
礼拝を守ることもままならなくなる。
そして自然と教会から足が遠のいていく。
この場合は、苦しみの時よりも、本人の自覚は薄いものです。
何となく、祈る時が減り、礼拝に集う回数が減っていく。
ちゃんと理由もつくのです。
予定が入る。
時間の都合がつかない。仕方がない。
それが続いていく内に、礼拝に集わないことが当たり前になってしまう。
私共は、このようになる前に、悪魔の誘惑というものが、私共に対して、実に巧妙であることを、よく知っておかねばならないのだと思います。
そして、私たちは、この世の力と繁栄を手に入れる為に信仰しているのではないということです。
この世の力と繁栄が私共をまことの幸いに導くものではないということを明確にしておかなければならないということなのではないでしょうか。


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