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zoom RSS 復活の主に生きる 2010/4/4  イースター聖餐夕礼拝  ヨハネ6:53-59

<<   作成日時 : 2010/04/04 20:45   >>

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祈祷 聖書



説教




イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」 これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。(ヨハネによる福音書6章53〜59節)


今日、私たちは聖餐の食卓を共にする礼拝を与えられています。
今日の御言を聴くに当たって、真に喜ばしいことです。
私たちの目の前にあるのはパンとぶどう酒(実際にはアルコールは入っていないぶどう液)です。
私たちの目が見るのは物質としてのパンとぶどう酒です。
今朝早起きした家内が小麦粉をコネ、オーブンレンジで焼いたパン。
スーパーで買ってきてグラスに注いだぶどうジュース
礼拝の前に私がお祈りをささげましたが、それ以外の何ものでもありません。
おまじないをかけたわけでも

しかし、信仰を与えられ、その信仰を告白し、洗礼を授けられた私たちは信じます。
霊の導きの中で、このパンとぶどう酒を備えて下さった方が、今に生きるキリストであることを。
目に見える現実としては、牧師である、イエスの弟子として私が会衆にパンを渡し皆さんにパンを配るのです。
またぶどう酒も配る。
しかし、私たちはその情景の中に、ティベリアス湖の辺で五千人の人々にパンを分け与えられた主イエスの恵みの御業を見ることが出来るでしょう。
また主イエスと弟子たちとのエルサレムにおける最後の晩餐の情景を見ることが出来ます。
その時、私たちは草原に座る群衆であり、また部屋で食卓を囲む弟子たちです。

また私たちは配られるパンに十字架で裂かれた主イエス・キリストの姿を見ることが出来ます。
ぶどう酒に十字架で流された主イエスの血潮を見ることが出来ます。
神の命令に従って、私たちを愛し、極みまで愛しとおしてくださった主イエスの愛を見ることが出来るのです。

このパンをくるんでいるのは亜麻布です。
亜麻布は主イエスの遺体を包んだものです。
パンとぶどう酒はこの亜麻布に包まれているのです。

そうして、今私たちのところに届けられているといえるのです。

それは、主イエスの十字架の死の三日後の日曜日に、イエス様が復活した知らせを聞いても信じること出来なかった弟子たち、
失意と絶望の心をもってエマオという故郷に帰ってしまう弟子たちにも届けられるのです。
この弟子たちを主イエス様は追いかけ、聖書を説き明かした後に、彼らの目の前でパンを裂きました。
弟子たちが、これは主イエスだ!と分かった瞬間、姿が見えなくなった、あの食卓を思い出します。

そして、世の終わりの日に救いが完成した喜びと賛美に満ち溢れた祝宴の情景を望み見ることが出来るのではないでしょうか。

ではどうして、そういうことが出来るのでしょうか。
それは主イエスが「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はいつも、わたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」とおっしゃっているからです。

この「いる」という言葉は、先ほどの暗闇の中に「とどまる」と同じ言葉です。
聖餐の食卓に信仰をもって与るとは、私たちが主イエスの中に留まることであり、主イエスが私たちの中に留まってくださることなのです。
既に死を撃ち破って永遠の命を生きておられる主イエス・キリストが、私たちの内に留まり生きてくださる。
そこに既に永遠の命があるのです。
そして、その命を信仰によって生き始めた者に終わりの日の復活が約束されているのです。
そして、信仰において、その「終わりの日」は、今まさにこの礼拝において見ることが出来る現実でもあるのです。
それは罪人の罪が赦されて、人が主と共に生かされることだからです。

しかし、こうして誤解を避けたり、肉とか血といった生々しい表現を避けて、ヨハネ福音書を正しく理解することは難しいと思います。
ヨハネ福音書は冒頭から言葉が肉となるという出来事を告げています。
これは、預言が成就するといった程度の意味ではなく、神の言葉、神の智恵が生身の人間となったという意味です。
それまで抽象的で理念的であったものが、具体的な身体、つまりイエスとして現実化したという意味です。
信仰的に理解するという名目で出来事をあいまいにしてしまったり、具体的事実を抽象化したり、現実を単なるシンボルにしてしまったりすることはヨハネの意図にはそぐわないだろう。

我々は今日の福音書から、どうしてもイエスの血の現実、肉の現実を直視する必要があるのではないでしょうか。
つまり、イエスが実際に流した血のこと、切り裂かれた肉体のことです。
この現実と無関係に、誰も新しく生きることは出来ないし、甦りもないという。ではどのような関係を持てばいいのかというと「食べる」ということだという。

主は死に至る前の生身の身体で主イエスご自身の肉と血を弟子たちに与えたのです。
弟子たちはわけもわからずそれを口にした。

我々がイエスの肉を食べるということ、イエスの肉を食物として生きるということは、イエスによって養われることの究極的な表現であるといっていいでしょう。
イエスとの一致、イエスへの同化、一体感を求める最大限の表現だといえます。
我々が聖餐式で体験するのは、そうしたイエスとの一体感の前触れのようなものであって、我々がイエスとともに生きるのはこの礼拝の中だけでなく、自分の体が置かれているあらゆる現実世界においてであることを忘れてはなりません。
言葉が肉体となるという奇跡的な出来事が、信仰が行いとなる、思いが行為となる、理念が実践となるという我々の世界における奇跡を生み出す根拠となるのです。
そうした現実感と無縁なところで永遠の命などというものはないというのが今日のイエスの物語ではないでしょうか。

我々はそのことを十分承知した上で、聖餐式を奉げキリストとの一致を体験する恵みに与りたいと思います。

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