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zoom RSS 暗闇の中の光 2010/3/21 イザヤ60:1-6

<<   作成日時 : 2010/03/21 18:39   >>

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起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。 見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。 目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから/娘たちは抱かれて、進んで来る。 そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ/国々の富はあなたのもとに集まる。 らくだの大群/ミディアンとエファの若いらくだが/あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。   イザヤ60:1-6




今日の日課は、イザヤ書の『起きよ、光を放て』という預言者の言葉です。
これは、長年捕らわれの身となっていた人々に解放の宣言です。
クリスマスに好んで読まれる箇所ですが、本日の福音書と呼応する箇所に相応しいと思いましたので、レントの時期ではありますが本日は用いたいと思います。

そして解放と共に、神さまの恵みと祝福を告げる御言葉でもあります。
異教の地バビロンでは、苦役に耐え切れず信仰を無くす者や主なる神さまから離れてしまった者たちも少なくありませんでした。
しかし、今日の日課の直前にある『お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けるのを妨げているのだ』(イザヤ59:2)という、懺悔と悔改めを迫る言葉などによって、今与えられている試練についての意味を真剣に問い続ける人、神さまに立ち帰る者たちも確かにいました。
そして、今ある苦難は神さまに背き、自らの欲のために生きた自分たちに対する懲らしめ、試練なのだと真摯に受け止めるようになります。
長い苦しみの中で、神さまとの対話、神さまへの信頼にかじりつくようにして耐え抜いてきた人々は、出エジプトの民が荒野を放浪することによって御心に聞き従う者へと変えられていったのと同じように、この試練によって悔改めへと導かれ、信仰を次世代へと伝えていったのです。

このように考ながら『あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く』という言葉を読んでみると、喜びがよりいっそう深く感じられます。
拠り所とすべき所、立つべき場所を見失っていた者たちが、頼りとする存在を得る。
それは、降り注ぐ光のようにやわらかく私たちを包み込む神さまの愛。
世を照らす主の栄光は、深い神さまの憐れみを感じさせてくれるからです。
なぜならそれまでは、人間はその罪のゆえに神さまの栄光の前にはうなだれるしかない存在と考えられていました。

けれども、それにもかかわらず『起きよ、光を放て。あなたを照らす光はのぼり、主の栄光はあなたの上に輝く』と言われるということは、神さまの栄光の前に人は滅ぼされるのではなく、神さまの哀れみによって人は、その栄光を浴びてなお生かされる、という赦しの宣言とも受け取れるからです。
そして「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」と宣言されるのです。

いったいこのような光はどのようなものでしょうか。
それは59章で約束されていました。
59章20節に「主は贖う者として、シオンに来られる」という約束です。
神さまがこのような闇のなかにまことの光としての救い主を送ってくださり、わたしたちのために執り成し、わたしたち一人ひとりを認め、受け入れ、尊んでくださるというのです。

契約の民に約束されていたメシア=救い主は、その選ばれた民だけのためでなく、すべての人の救いのために現われてくださいました。
そう、その救いの範囲は私たちにまで及びます。

たとえどのような状況にあっても、自分を傷つける必要はない。
たとえどのようであっても、あなたは尊いと言ってくださるかたがおられる。
「よろしい、清くなれ」と言ってくださり、「わたしもあなたを罪に定めない」と言ってくださり、「あなたの罪は赦された」と言ってくださるかたがおられる。
イザヤ書53章の言葉を用いれば、「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」という、救いの主がわたしたちに与えられているのです。

闇の世を照らす真の光として。
日々私たちが見聞きするニュースの中には、相変わらず心を凍らすようなもの、不安や恐怖を感じるものが絶えません。
また、私たち自身にも人には言えない、見せることも出来ない重荷や暗闇があるでしょう。

「起きよ、光を放て」という宣言で始められた60章は、「あなたの上には主が輝き出で」と、救いの光が照り輝いたことを高らかに伝えます。
そのときどうなったでしょうか。
4節、「目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから、娘たちは抱かれて、進んで来る。」
この4節で言われていることは、バビロン捕囚によって分かたれていた民が今やひとつとなるという幻です。
国が敗れたことによって人々は、家財産を失っただけではありません。
家族は分裂し、一族は散らされました。
人と人との交わり、共同体が破壊され、ばらばらにされていたのでした。
それがひとつとなると4節で言われています。
そして続けて、諸外国から贈り物を携えて人々がやってくるという幻が5ー6節で語られているのです。
6節に「シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えてくる」と述べられていることに注目してください。
シェバは、ソロモン王を訪ねてきたシェバの女王で有名な名前でありますが、それよりも、ここに黄金と乳香が出てきます。
つまり、ここには没薬こそ出てきませんけれど、イザヤ60章の言葉が、マタイによる福音書2章の主イエス誕生の物語ときわめて類似点のあることに気付かされました。
そのような意味でも、今日の箇所はクリスマスに読まれることが多いのかもしれません。


アンジェラス・シレシウスという人が書いた詩があります。
キリスト ベツレヘムに生れたもうこと 千たびにおよぶとも、キリスト汝が心のうちに生れたまわずば、たましいは なおうちすてられてあり。十字架のみ 汝をすこやかにせんに、ゴルゴタの丘が十字架 汝が心のうちに立てられずば、汝がたましいは とこしえにうしなわれてあり

「キリストが何千回、ベツレヘムに生まれたとしても キリストがあなたの心の内に生まれなければ 魂はなお、打ち捨てられたままです。ゴルゴダの丘の十字架があなたの心の内に立てられなければ、あなたの魂は、永遠に失われたままです。」(イエス伝詩集・信仰詩集:新教出版社)

この詩は、読者である私たちに、それぞれの心の中に、主イエス・キリストを迎えることを促します。
そして、神の栄光を持ちながらも、人間に拒絶されながらお生まれになった方が、十字架に向けて、ただ十字架に向かって生きるために来られたことを覚えるように促します。
そして、その十字架は、他でもない、私たちの持つ暗闇、私たち自身のもの。
だからこそ、自らの心に真実にキリストの誕生を迎え入れ、それと同時に主イエス・キリストの十字架を迎え入れるように促しています。
私たちは、この主の十字架を心に刻むことによって、はじめて自分の弱さを認め、罪を自覚し、このような私たちの弱さや罪の贖いのために主イエスがお生まれになったことを知ることになります。
そして、父なる神の栄光をもって、私たちを照らし続けてくだっていることを知るのです。

キリストの光を携えて歩むなら、心を揺るがすこと、自らの内にうごめく闇、私たちをキリストから引き離そうとするさまざまな誘惑と躓きはなくなることはないでしょう。
しかし、『起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く』とあるように、私たちは今、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みを注がれ、その中に生かされています。
その光に照らされることによって、私たちは自らの心の闇とも対峙することになるでしょう。
そのとき、私たちを支え、導くのは、聖霊の導き、祈り、御言葉の力です。
御子を通して示された神さまの愛に信頼して、光と共に歩んでまいりましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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