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zoom RSS ナルドの香油 2010/02/21 受難節第一主日 ヨハネ12:1-11

<<   作成日時 : 2010/02/21 14:38   >>

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ヨハネ福音書を貫いている主題の一つは、神が人となられた、ということです。
そしてもう一つは、主は共におられるということです。



ここは、主イエスと共に持たれた一つの食事の席について語ります。
そこに一人の人が共におりました。
死から呼び戻されたラザロです。
1〜2「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていたラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。」
ラザロはイエス様によって「命を得た、幸いを得た」といえます。
そしてイエス様がおっしゃったとおり「神の栄光のために生かされた」と言うことができるでしょう。
このことを、ヨハネの福音書は極めて具体的に捉え、示そうとしています。
「命、幸い、栄光」とは何か、
それは抽象的なこと、心の中のことではなく、「イエスのいるところに、共にいる、共におらせてもらっている」ことなのだと。
そして、この席の中から、自分から「主イエスと共にあろう」と進み出た人がおりました。
それが、今日の主人公マリヤです。
3「そのとき、マリヤが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。」
このように、お客さんの足を洗い、油を注ぎ、塗るという行為は、一般的には「奴隷のすること」として認識されていました。
しかし、それをしばしばその家の主人が客人に対してすることがありました。
そのことによって相手に対してへりくだり、自分も同じ立場に立ち、共同体の結束を深めたことを示そうとすることがあったそうです。

では、現在の我らにとってこのナルドの香油とは何を意味するのでしょうか。
@ 高価な香油
これは贖われたキリスト者の愛の捧げ物であるといえます。
マリヤが捧げた香油は、ナルドの木の根から採取した芳香性の高いものでした。
この香油は三百デナリ(5)、つまり成人の年給にも相当する高価なものでした。
マリヤは「石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた」(マルコ14:3)。
この行為は一見無謀な行為と思われますが、決してそうではありません。
マリヤの行動は衝動的なものではありませんでした。
「わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから」(7)
主イエスがこういわれたことがそのことを物語っています。
つまり、この行為は十字架の贖いの愛に対する信仰の応答であり、告白です。
ラザロの復活のあるなしに拘わらず、マリヤは早くからそのことを決意して、そのための備えをしていたのです。
いわば予想していたとも解釈できます。

A純粋な香油
これは献身的なキリスト者の信仰の捧げ物であるといえます。
純粋とは混じり気のないことを意味しています。
祭壇に備えるパンは種なしパン、つまり純粋で真実なパンが要求されました。
主イエスは私たちの罪の身代わりとなってその肉体を神に捧げてくださいました。
その肉体は「きずも、しみもない小羊のような」(Tペテロ1:19)、純粋なものでした。
主イエスはパリサイ人のパン種(偽善)、ヘロデのパン種(世俗主義)、サドカイ人のパン種(快楽主義)を警戒せよと言われた。(マタイ16:11、マルコ8:15、ルカ12:1参照)。
私たちもまた純粋な信仰を持って神に近づく者とならなくてはならない。

B香り高い香油
これはきよめられたキリスト者の希望の捧げ物であるといえます。
パウロはキリスト者とは「キリストのかおりである」(Uコリント2:15)と言っています。
この香りはきよめられた品性の香りであり、死後の世界まで届くところの希望の香りです。
現代は終末の時代であって、その暗黒度は増すばかりでした。
マリヤの行為が全世界に伝えられたように、我らの信仰もまた現代社会に希望と
慰めを与える香り高い香油の役割を果たすものでありたいと願います。
ナルドの香油は、神に対する我らの愛と信仰と希望の捧げ物であるといえます。
より高価で、純粋で、香り高い香油を捧げさせて頂きたい。


マリヤは、この一般的な行動に沿いながら、その枠を破りつつ、このような思いの極限まで行くという振舞いをしたのだと思います。
彼女は、実際には後に出て来るイエス様の死とか葬りとか、そんなことまでは思いもせず、頭も回らなかったろうと思います。
死んでしまう救い主をだれが想像できるでしょう。
しかし、彼女は、とにかく「イエス様と共にいたい、イエス様といるところ、いる立場をできるだけ近くし、共にいたい」と切に願い、ただその一心でこんなにも高価な油をイエス様に注ぎかけたのだと信じます。
「主イエスのいるところに共にいる」、この具体的・現実的なことがテーマとなること、それはある意味で大変厳しいことでもあります。
なぜなら、時に「イエス様のいるところに共にいない」ということがあるかもしれないからです。
すでにこのことの起こる前に、「イエス様と全くいる所を別にする者たち」が登場しております。
11章57節です。
「祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居所が分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。」
彼らは、「イエスと居場所を共にしたくない」と思ったどころか、「イエスがいることそのものが許せない」と思い、そのように行動してしまっているのです。
また、「主イエスと物理的には同じ場所にいながら、しかし、その心と生き方、道は離れ、すれ違い、全く別方向に向かっている」ということもあるのです。
その一人は、よく「マルタとマリヤ」という形で対照させて取り上げられる、イエス様に給仕をしているマルタです。
今日クローズアップされているのは、何と言っても、後にイエス様を裏切り、売り渡すことになるイスカリオテのユダです。
彼は、あのマリヤの行動がとにかく許せなかったのです。
それで、こう言いました。
5「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」三百デナリオンというのは、労働者のほぼ一年分の賃金に当たる、大変な高額です。
「それを、なぜ貧しい人たちを助けるために使わないで、こんな無駄遣いをしたのか」というわけです。
ここでユダが出しているこの「貧しい人々のために」、これはそれ自体としては正しい言葉です。
イエス様も、「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」とそれを肯定しておられます。
これは、注意していただきたいことです。
「貧しい人々はいつもいる。それは、世の常、時代の常なのだ。だから、それをなんとかしようとしても無駄なのだ。だから、教会やクリスチャンは、そんなことにかかずらうべきではない。もっとほかにやることがある。」というような考えを、このイエス様のお言葉から引き出してはいけないと思います。
なぜなら、旧約聖書にすでにこれと大変よく似た言葉があるからです。
申命記15章11節ですが、「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。」。
「だから、もうそのことは仕方がなく、どうでもいいのだ」というのではないのです。こう続くのです。
「それゆえ、わたし(神)はあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」
「神の真理の言葉」であられるイエス様は、まさにこの戒めの完成するところを目指しておられるに違いありません。
しかし、この「正しい言葉」、それを正に担うに足る「正しさ」、それがユダには欠けているのです。
6「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」
少しここで、福音書記者に批判的であるとすれば、彼はあまりにもユダ一人を責めているかもしません。
「正しい言葉」を担い、かつ「正しく」行っていくだけの「正しさ」を持たない、それはユダ一人の問題なのだろうか、おそらくそう思っているうちは、イエス様の福音は十分にはわからないでしょう。
「貧しい人たちはいつも私たちと共にいる」、この「正しい言葉」そのものからさえ目を背けることが少なくないのが、私たちではないでしょうか。
でもまた、この「正しい言葉」を受け取り、それに従って生きようとするときには、私たちの間違った振舞いと道が、「正しい言葉」を「見事に」裏切って行くのです。
そのようにして、私たちは、「主イエスのおられるところ」からひそかに、ついにはあからさまに、外れ、離れ、抜け出て行ってしまう。
しかし、主イエスは、そのユダと、この私たちと共にあろうとなさる、ここに「福音」があります。
イエス様はこうおっしゃいます。
「わたしは(あなたがたと)いつも一緒にいるわけではない。」「えー、それでは話が違う」と思うかもしれません。
このもって回った言い方は何なのでしょうか。
イエス様は「本心は、私たちと一緒にいたくない」のでしょうか。
そうではないでしょう。
それは、とても「特別な、ほとんどあり得ないようなことなのだ」と言いたいのではないでしょうか。
しかし、主イエスは、その「特別な、あり得ないこと」を、あえてしようとしていてくださる。
そのしるしは、このユダの特別な扱いです。
何とイエス様は、このユダに「金入れを預けて」おられたのだというのです。
ではイエス様は「愚か」なのでしょうか。
「この世」で生活する上では極めて重要な「金入れ」をこんな男に信頼して預ける。
「信頼し得ない者」をあえて信じる、「共にいようもない罪人」とあえて共にいようとする。
そのためには「あなたがたといつも一緒にいるわけではない」と言わなければならない。
はっきり言えばこれから十字架と惨たらしいみじめな死に向かって歩んで行かなければならない。
そして「葬りの用意」が必要にならざるを得ない。
でもそんなにまでして、主イエスは私たちと共にありたいと切に願い、共にあろうとなさる。
「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」
こんなにまでして、主イエスは、主イエスこそが私たちを、ご自身と同じ所に連れて行き、そこに共にいるようにしてくださる。
「あなたがたもここにいる。わたしのここにいる。」「ああ、ありがとうございます。ならば、あなたがおられるところに、わたしも共におらせていただきます。」
そう、ラザロのように、マリヤのようにただ受けて、いただいて、主イエスがおられるところに共にある、全身全霊で丸ごと共にあろうとする、これがヨハネが示す「信仰」です。「信仰」とは、「心の中」のことではありません。
この具体的な、「イエスと共におらせていただく」というこのことなのです。
それは、ラザロにとってそうであったように、主と共に命を狙われ、自分の「十字架」を負うというような「苦しみ」「迫害」をも意味するかもしれません。
また、マリヤのように、主イエスと「愚かさ」を共にする、「こんな罪人のために、自分の命、自分の全てを犠牲にして捧げてしまう」という「愚かさ」、またそのために人から批判され、ののしられるという「弱さ」を共にすることであるかもしれません。
しかし、そこには、ラザロの存在が如実に示すように、すでに「復活の光」が差し込んでいるのです。
「主イエスがいてくださるところに、わたしたちも共にいる」ということ、それは「正しさ、命、幸い、栄光」そのものなのです。
マリヤが油を注ぎかけたとき、その香ばしい香りがその場に満ちました。
それは、神の祝福のしるしです。
神が、この「イエスと共にあること」を喜び、祝福していてくださるのです。

信仰者の立つべきところは、まさに十字架の主イエスと同じところに立とうとするか否かであるといえます。
言葉を変えれば、受け取るところから、ささげることへと一歩を踏み出せるかということではないでしょうか。
信仰者はささげる信仰なしに健全な信仰を育むことはできません。
それは一体どれだけ主イエスの十字架を受け止めているかということにかかってくるのです。

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