日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS キリストの声を聞き分ける 2009/11/22  ヨハネ10:22-30

<<   作成日時 : 2009/11/22 13:50   >>

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イエス様と出会って、その話を聞いていくと必ず分裂と対立が起こります。
それはイエス様と話を聞いている人々との間にも起こりますし、またイエス様の話を聞いている人々の間にも起こるのです。
先日も公人が、大胆な、というかあまりにも無知な発言をして物議をかもしておりました。
たしかに、質問をする側にも問題があるとは思いますが、この聖書の場面も同じようだなぁと思いました。
本日の箇所でイエス様を取り囲んだユダヤ人たちは、最初から、イエス様の言葉尻を捕らえて、殺したいと願っていました。
だから24節の「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」
この言葉は、もしあなたがキリストなら従いますと解釈するのは、ユダヤ人谷の肩を持ちすぎです。
「あなたは神を冒涜していることは承知の上だ。はやくその証言をしてみろ」という感じです。
ほんの少し丁寧な口調で、やや中傷ぎみに、「さぁ、ボロを出せ」と言っているのです。


「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった」とあります。
これもまた実に不思議な言葉です。
「そのころ」とはいつのことなのかが判然としません。
9章の盲人の癒しは、仮庵の祭りの直後に起こった出来事として記されており、10章が9章の続きであるとすれば、「そのころ」というのは秋になります。
しかし、「神殿奉献祭」とは、そこにわざわざ「冬であった」と記されていることから分かりますように、現在の暦でいうならば12月、私たちにとってはクリスマスのシーズンに一週間に亘って祝われた祭りなのです。
しかし、ヨハネ福音書は敢えて矛盾は承知の上で、やや無理やり「そのころ」と書いて前の話に繋げています。

ヨハネ福音書は祭りの記事がたくさん出てきますが、今日の箇所には「神殿奉献祭」と「神殿」という言葉が出てきます。
神殿奉献祭は、新約聖書ではここにしか出てきません。
そして、「祭り」と「神殿」とは深い関係があります。
今日は、そういう「祭り」と「神殿」に関して御言に聞いていきたいと思います。

まず「神殿奉献祭とは何か」についてですけれど、口語訳聖書では「宮潔めの祭り」となっていました。
つまり、神殿を清めた上で神様に捧げたことを記念する祭りなのです。
その祭りの元々の起源は、紀元前六世紀にバビロン捕囚から帰ってきたユダヤ人が破壊されていた神殿を再建したことにあります。
しかし、主イエスが地上に生きた時代の神殿奉献祭(宮潔めの祭り)は、破壊された神殿の再建ではなく、汚された神殿の潔めを記念する色彩が強かったと思われます。
この辺のことは旧約聖書外典のマカバイ記に記されています。
宮清めというと、ここは祈りの家だと主イエスが激怒して、備えの鳥などをひっくり返した、という記事が思い出されます。


そして実際、25節以下のイエス様の『羊』に関する言葉は明らかに前の段落の続きです。

ある本に「ヨハネ福音書は時空を飛び越えて、いつも読み手の現在に向けて語りかけてくるイエス様を描いているのだ」とありました。
別の機会、別の場所で語ったことや、起こった出来事であるように書いているのですが、それは一つのことを書くための手段だというのです。
その「一つのこと」とは、「イエスとは誰であるか」です。
今日の箇所に出てくる言葉で言えば、「もし、メシアなら、はっきりそう言いなさい。」この言葉に、その一つのことが現れています。
このことを明らかにするために、反対勢力のユダヤ人たちとイエス様との間にある溝、その業を見る人々の間に分裂と、時には争いが生じています。

10章は「そこでは、多くの人がイエスを信じた」という言葉で終わります。
これは「あなたたちは信じない」と二度繰り返された言葉と鋭い対比を示しています。
いつの世にも信じる者と信じない者はいます。
つまり、昔の話ではない。今の話。
今生きておられるイエス様と今ここにいる私たちに関する話なのです。

彼らはユダヤの指導者で聖書の知識を持っていました。
本来ならば真っ先にイエスをキリストと信じ受け入れるはずの人たちでした。
イエスの語られた言葉は耳があれば聞こえ、イエスのなさったことは目があれば、だれにも見えるものでした。
しかし、イエスの言葉を聞いても悟らず、イエスのなさったことを見ても信じなかったのでしょうか。
イエスは26節で「それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。」と言っているように、彼らがイエスの羊ではなく、また、イエスの羊の群れに属そうとしなかったからです。
ユダヤの指導者たちは、イエスに目を開けてもらった人をののしって、こう言いました。
「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。」(ヨハネ9:28)彼らは、最初から自分たちの判断基準を持っており、聞いたことを曲げて解釈し、目でみた事実を否定したのです。
イエスの語ることに偏見のない心で耳を傾け、正しい心で見つめることをしないで、それらに耳をふさぎ、目を閉じて、自分のまわりに線を引き、壁をつくり、その中に閉じこもっていたのです。
私たちも、同じように、自分の罪や、プライド、あるいは、防衛本能のようなものの中に閉じこもっていないか、自分をかえりみる必要があります。
イエスのことばは私たちを生かすことばであり、イエスのなさったみわざは私たちを救うものです。
聞いて悟り、見て信じ、イエスからの幸いを受ける私たちでありたく思います。


さて、
ここから語られるイエス様の言葉に真の羊飼いが羊を守るために、狼に向かってしっかりと向かい合っているような気概を感じさせます。
今まで語られていた、羊と羊飼いの例えが、単なる教えの言葉と言うのではなくまさにキリストご自身がそのことばを生きている。
今、ここで、よき羊飼いとして、しっかりと立っている姿を表します。
羊と羊飼いとの信頼関係、もちろんこれは神と人との関係といっていいはずです。
しかしそうであれば「信頼関係」という言葉は少し誤解の余地があるかもしれない。
ヨハネ福音書の言葉を直接使えば「知る」という言葉になる。
わたしは羊を知っており、羊はわたしを知っているという言葉だ。
今日の福音書でも、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」といっている。
そして「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」と。
知るという言葉は単純なようでいてそうではない。
「殺してはいけない」ということを知らない人はいない。
それでも殺人は起こる。
この場合、「殺してはいけない」という知識は無意味だといわざるを得ないだろう。

ルカ福音書のエマオ途上の物語を思い出してください。
落胆した弟子たちが見ず知らずの旅人に語ったのは、復活の主イエスそのものであり、幾度も主イエスご自身が語られた約束でした。
つまり、彼らは知識としては主イエスが復活することを知っていながらイエスの復活を理解できませんでした。
だから、今日のテキストであるヨハネ福音書が「知っている」と語るのは、知識のことをいっているのではなく、知っているそのことによって自分の生き方が変わるようなレベルにおける「知る」ということに他ならない。
「身をもって知る」と言い換えてもいいでしょう。
だから「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」といわれているように、この関係は「従う」という実践を伴っています。

イエスと弟子たち、つまりイエスとわれわれとの関係がこのようなものとして描かれています。
われわれとしての問題はおそらく、実はイエスのことをよく知らないし、その声も聞き分けられないということではないでしょうか。
「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」
この言葉を聞いて、どうお感じになるでしょうか。
「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」といわれている「あなたたち」とはまさしく自分自身のことではないかとドキドキするのではないでしょうか。
すでに語られた神のみ言葉をわれわれは一度ならず聞きながら、信じられないでいる…。
もちろん信じてはいます、しかし、すかさず立ちあがってイエスに付き従って歩み出せるほどには信じられないでいるのではないでしょうか。
イエスが行う業がすでにその証となっている、しかし「あなたたちは信じない」といわれたとき、戸惑わざるをえない。

なぜ信じられないのでしょうか、なぜ聞き分けられないのでしょうか…、
「わたしの羊ではないからである」。
この絶望的な判決の前にわれわれは完全に打ち砕かれます
いったいどうすればいいのだろう。
「わたしはあなたこそ我が永遠の牧者だと信じ、自分自身をあなたの羊だと思ってきたのに、あなたはわたしを知らないとおっしゃるのか…」。
するとイエスはわれわれにこう語るのだろうか。
「あなたが本当にわたしの羊であるならば、羊飼いの声を聞き分けられるはずではないか。なのに、なぜあなたは滅びに至る門の前をさまよい、偽者たちの呼ぶ声に耳を傾け、私の呼びかけには耳をふさいできたのか。聞いても悟らず、見ても信じないあなたは、わたしの羊ではない」。


これだけでも、素晴らしいことですが、イエスは、もうひとつの大きな手が私たちを守り、支えていることをあきらかにしました。
それは、父なる神の手です。
「わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」(30節)
ユダヤ人は、神を唯一のお方、すべてのものの父なる神としてあがめていました。そして、神の御手がどんなにか力強いものであるかを良く知っていました。
聖書には「神の御手」という言葉がいたるところに出てきます。
ヤベツの祈りにも、「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」(歴代第一4:10)と、「御手」という言葉があります。
歴代誌第一29:11-13の祈りは「主の祈り」に取り入れられた祈りですが、それは神の御手についてこう言っています。
「主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがめるべき方です。富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。」
詩篇には、19:1に「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」とあるのをはじめとして、さまざまな形で「神の御手」が歌われています。詩篇95:7に「主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。」とあります。
「御手の羊」というのは、神の手に守られている羊という意味です。
イエスはご自分を「良い牧者」と呼び、その手で羊を守ると言いましたが、それは、この聖書のことばに基づいてのことだったと思われます。
イエスの御手が、父なる神の御手と二重に描かれています。

家族で歩いているときに、香穂は私と家内の間に入りたがります。
そして両方の手を握り、その手にぶら下がって遊んだことがあるでしょう。
これは片手だけでなく、両手だからできることです。
しかもしっかりと握ってもらっていますから、多少高く引っ張りあげられても、少しも恐くはありません。
私たちは、イエスの手と父なる神の手の両方にささえられ、守られ、導かれているのです。
ここに私たちの救いの確信、信仰の確信があるのです。

【わたしは彼らに永遠のいのちを与え】
ヨハネ福音書では、永遠のいのちを与えるのは復活者イエスだと考えられています。
パウロや共観福音書では、神がイエス・キリストを通して永遠のいのちを与えると理解されています。
また、復活についても、パウロや共観福音書ではあくまで(イエスと共に)復活させるのは神であるが、ヨハネ福音書では復活者イエスである(6・39、6・40)。
ヨハネ福音書では、復活者イエスと父が一つに重なっている(30節で明白に宣言される)

そして、イエスは最後に「わたしと父とは一つです。」(30節)と言われました。イエスの手に握られていることは、神の手に握られていることであり、イエスの羊であることは、神の羊であることなのです。
イエスが神の御子であり、父と子がひとつであること、これは、論理だけで理解したり、知識として頭で納得できたりすることではありません。
それはイエスを信じ、イエスに従うことを通してはじめて知ることができます。神の子とされ、父なる神のものとされているという確信をいただいてはじめて、「わたしと父とは一つです。」という言葉の意味がわかるようになるのです。
本当の声を聞き分けるとき、このことがはじめて理解できるのです。
だれか人から薦められたとか、
イエスの御手、父なる神の御手に導かれ、イエスとともに歩み、神とともに生きる時、つまり、神と一つになればなるほど、イエスが父なる神とひとつであることを知ることができます。

今は、すべてが不確かな時代ですが、私たちには、このような確かな、神からの人生の保証があるのです。
その保障を受け取れるかどうかは、キリストの声を聞き分けられるかどうか、そして従えるかどうかです。
さまざまな困難があるかもしれませんが、この保証に立ち、そこから来る希望をもって信仰の歩みを続けて行きたいと願います

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