日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS イエスとは誰か2 ヨハネ9:18-34 2009/10/25

<<   作成日時 : 2009/11/15 17:25   >>

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ユダヤ人の殺意の中に神殿を後にしたイエス様は、道端で物乞いをしていた生まれながらに目が見えない盲人を癒されました。
それは、表面的な出来事だけを見れば、見えない目を開くという奇跡物語です。聖書的に見ればそれは全く新しい人間を造り出すという神の御業なのです。
しかし、そのことによってこの盲人は、イエス様同様に罪人としてユダヤ人社会から追放されてしまいます。
これまで生きていた世界では生きることが出来なくなるのです。
しかし、その時に、イエス様が彼に再び出会い、彼は様々な意味で見えるようになった目でイエス様を見て、「主よ、信じます」という信仰告白をしつつイエス様を礼拝する人間になったということです。
その時、彼は罪の闇の中から命の光の世界へと救い出されました。
しかし、その信仰に至るまでには非常に厳しい試練がありました。

当時のユダヤ人たち、特に宗教的権威者であったファリサイ派の人々は、イエス様を神から遣わされたメシア、救い主として認めることが出来ません。
認めることは、彼らの存在価値を否定することだからです。
そこで、彼らは盲人に起こったことをなかったことにしようとします。
彼らは、盲人の両親を呼び出します。
これは裁判の席に召喚するということですから、そのこと自体で、無言の圧力をかけていることになります。
「我々の意図は分かっているだろうな!ちゃんとその意図に沿った答えをしろよ。そうすれば、悪いようにはしない・・・。」そういう無言の圧力をかけているのが汲み取れます。

その圧力を身に受けつつ、両親は、非常に慎重な答え方をします。
「たしかにこの子は自分たちの子であり、また生まれながらの盲人であった。これは知っている。しかし、誰がどのようにしてこの子の目を見えるようにしたかは知らない。」そう答えた。
つまり、このことに関しては、自分たちは関りを持たないと言っているのです。
その理由は、「ユダヤ人たちを恐れていた」というのです。
「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた」からです。
つまり、イエス様を神から遣わされて神の救いの業をするメシア(救い主)方であると告白する者を、ユダヤ人社会から追放する。
あらゆる保護をしない。
つまり、実質的には社会的生命を断つぞ、という圧力です。
だから、両親は恐れたのでした。
少しでも疑われそうな言葉尻をとられまいとして、非常に慎重に答えたのです。
そして、それはまた同時に、彼らは息子を捨てた、息子との関りを断ったということのようにも見えます。
彼らの目的は、この世における安寧です。
この世における平和なのです。
しかし、残念ながら、主イエスはそういう安寧と平和をもたらすためにこの世に来られたのではありません。
それとは別の平和、永遠の平和をもたらすために来られたのです。

イエス様は、ある所でこうおっしゃっています。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:34-39)

皆さんの中にも、キリスト教信仰を告白して洗礼を受けることを親や兄弟に激しく反対された方もいるでしょう。
そのことの故に、家族関係がぎくしゃくしている、あるいはそれ以前とは全く違ったものになってしまった方もおられると思います。
信仰に入るとは、そういう面を含みます。
家族であれ、社会であれ、この世のものからは断絶されます。
地上のもの、この世の中に、その存在の根拠を置くことをしない。
それが信仰なのですから、その信仰の道に入る時には、またその信仰の道を生きる時には、この世における命をある意味で失うのは当然なのです。
しかし、実は古き命を失うことを通して、新たな命を与えられるのです。

話をヨハネに戻します。
今日の箇所で目を引くことの一つは、両親が言ったことをヨハネ福音書が繰り返し書いていることです。
「もう大人ですから、本人にお聞きください。」
実に面白い言葉です。では「大人」とは何でしょうか?
日本で「成人」と言うと、選挙権が与えられ、社会の成員として認められることを意味します。
最近では18歳を成人としようという議論もあるようです。
早く社会人として権利を与えると同時に、義務も与えようというのでしょうか。
広島光市の事件など、子供なのか大人なのか、世の中には白黒をつけられないことも少なくありません。
また成人には、大人としての識見の高さとか広さも求められるようにもなります。しかし、聖書の中で「大人」というのは、今言った意味と重なりますが、それとは別の意味があることも確かなことです。

今日の箇所で両親が、「もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」と言う場合、その表面的な意味は、先ほど言ったように、法的責任は本人にあると突き放すことだと思います。
その裏には、ひょっとしたら、突き放しつつ「馬鹿な主張をすることは止めろ、ファリサイ派のユダヤ人の意図を汲んで、保身のために嘘をつけ」と言っているのかもしれません。
しかし、ヨハネが、この両親の言葉を二度も書くことの意図は別のところにあると思うのです。
この「もう大人ですから」という言葉は、まさに成人を意味します。
その成人とは人となった人間という意味ですが、それは「成熟した人間」という意味だと思います。
実際、聖書の中では、そういう意味で使われているのです。
その内の一つはエフェソの信徒への手紙に出てくる言葉ですけれど、そこにはこうあります。一〇節からお読みします。
この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。・・・あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。

「降りてこられた方」とは、神から遣わされたキリスト(メシア)としてのイエス様です。
このイエス様が、私たちを様々な奉仕につかせてキリストの体を造り上げ、教会を造り上げていってくださる。
そして、その教会に組み込まれた私たちはキリストに対する知識において一つのものとなり「成熟した人間」になっていく。
そのように成長させられていく。
パウロは、そう言っています。
この「成熟した人間」と訳された言葉が「大人」なのです。

何を知っているのか
エフェソの信徒への手紙における問題はキリストに対する知識です。
そして、今日の箇所でも「知っている」かどうかが問われています。
両親は、子供が生まれつき目が見えなかったことは「知っている」。
しかし、誰がどうして目を開けてくれたかは「知らない」。
もちろん、イエスという方がやったことは表面的な意味では知っているのですが、それを知らないと言っているのです。
またファリサイ派のユダヤ人たちは、盲人を呼び出してこう言っています。

「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」
それに対して、目を開かれた人はこう答えます。
「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

「分かりません」も原文では「知りません」です。
以後も「ご存じない」「承知している」と様々な翻訳がなされていますが、すべて「知っている」という言葉です。
問題となっているのは「あの者が誰か」を知っているか否か、イエス様が誰であるかに関する知識です。
そして、その知識は学校の教室で教わり、テストで筆記して書ければよいという類のものではありません。
あるいは親から教わって、そのまま真に受けて親と同じ言葉で語るようなものでもない。
自分自身において起こった事実を、自分の言葉で語ることが出来る知識です。
この知識を与えられれば、それだけで生きていける。
そして、安心して死ぬことが出来る。人として生まれてきたとは、この知識を得るためなのだとさえ言えるような知識、それが今日の箇所の問題なのです。

ユダヤ人は、イエス様が「罪人だと知っている」と言い、「神がモーセに語られたことを知っている」と言います。
でも、彼らは自分が罪人であることを知らないし、自分に神様が語っておられることは知らない。
神の声を聞いていないのです。
彼らの知識は全て言い伝えに聞いていることの暗記に過ぎないので、すべてに覆いがかかっている。
神のことを語っても、それは神について語っているのだし、聖書のことを語ってもそれは聖書についての表面的、部分的な知識を語っているに過ぎない。
神から語りかけられているわけでもないのです。
だから、彼らの知識は喜びを持った信仰告白にはならず、そこから賛美は生まれてきません。
しかし、喜びの賛美がない信仰とは、一体どういうものなのでしょうか?

イエス様に見つめられ、語りかけられ、直接手で触れられ、そしてイエス様の命令に従うことによって癒された盲人は、次第に見えてきました。
自分の罪が、イエスという方によって赦されているのだということが。そして、その自分に起こった事実に固着します。

「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
この言葉は、ユダヤ人たちに「神の前で正直に答えなさい」と言われて答えた言葉です。
でも、この「神の前で正直に答えなさい」とは原文では「神に栄光を帰しなさい」と書かれているのです。「神を賛美せよ」と訳せる言葉です。
皮肉なものです。
盲人の目が開かれるという神の業、旧約聖書の預言に従えば、神が到来して人間を罪の支配から救ってくださるという御業が目の前で起こっているのに、少しも賛美の声を上げない人間たちが、神を賛美せよ、と言っているのです。
彼らは、自分の罪を知らないし、その罪を赦してくださる方が来ているのに、その事実を見ようとしないからです。
しかし、その彼らに「お前はまったく罪の中に生まれた」と言われたこの人が、声高らかに賛美しています。「わたしは、今、見えます」と。

アウグスティヌスという人は、人は主なる神に造られたが故に、神の内に自分を見出すまでは平安を得ないと言い、今は見出すことが出来るから、賛美せざるを得ないと言って、『告白』という膨大な書物を書き残しました。

私たち人間は、主を賛美するために造られたのです。
だから、主を賛美する時に、自分の口で心から賛美できるときに、私たちは本当の意味で人と成るのです。詩編一〇二編にはこうあります。

「後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。
『主を賛美するために民は造られた。』」

その神のことを人々に伝えるべき宗教家が、ここでは神を賛美せよと言いつつ、逆に神を信じない。
一八節にありますように、「盲人であったのに目が見えるようになったということを信じない」のです。
そして、目が見えるようになった事実、罪が赦された事実に固着し、イエス様こそ「神のもとから来られた」メシア(キリスト)であることを信じる人を、「罪の中に生まれた」罪人として排斥する。
彼はもう、ユダヤ人の社会の中では生きていけないのです。
両親の家に帰ることも出来ない。
でも、その彼を迎え入れるお方がいる。
それが、彼のために十字架の上で命を捨てて下さるイエス様です。
彼は、その見えるようになった目で主を見、「主よ、信じます」と言って、主イエスの前に跪いた。
キリスト礼拝をしたのです。
そこに神の救いの業があります。
この人が自分の目を開いたその人が誰なのかを理解したからです。
主を信じ、その信仰を告白することにおいて主を賛美するに至ったのです。
この時、彼は大人になった。
人と成ったのです。人間が知るべき唯一の知識を得たからです。

キリストは、「神の知恵として世に来られた」と、コリントの信徒への手紙では言われています。
そして、この主イエスを知ることは、この世の知恵では不可能なのだとある。
しかし、私たちは恵みによって聖霊を与えられ、主イエスが私たちのために神の許から来られたキリストであること、私たちの罪の赦しのために十字架に磔にされて死んだこと、私たちに永遠の命を与えるために死から甦られたこと、そして私たちを信仰において成熟させるために、成長させるために、今日も私たちをこの礼拝に招き、御言葉と聖霊と、そして聖餐を与えて下さるということを、知っています。
だから、私たちは今日も心の底から主に感謝し、主を賛美できるのです。

この盲人は、「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」と言いました。
そして、その後では、「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています」と言っている。
「わたし」がいきなり「わたしたち」になっています。
それは、ここに教会の告白、キリスト者たちの共同の告白があります
私たちは、一人一人、主に見つめられ、語りかけられ、手で触れられ、そして水で洗いなさいと命令された者たちです。
皆、それぞれの出来事を通して洗礼を受けることを命ぜられ、その命令に応えることによって、キリスト者になったのです。
しかし、その一人一人が、キリストに対する知識の故に一つとされて、今、この礼拝堂に臨在してくださっているイエス様に感謝と讃美を捧げることが出来るのです。
そして、大人である私たちは、それぞれに自分のことを語ることが出来る。
「私はかつて罪の闇の中に生きていた者ですが、今はこうして命の光の中に生かされています。」
なんと幸いなことでしょうか。
私たちも唯一目を開くことのできるお方によって、目を開かれ、救いを見つつ歩んでまいりましょう。

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