日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS いのちへの門 ヨハネ10:7-21 2009/11/15

<<   作成日時 : 2009/11/15 11:51   >>

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先週は教会にマイケル(という名前のヤギ)が来てくれました。
彼はクローバーやアレカ椰子が好きなようで、教会の周りの草花をおいしそうに食べていました。
私は比較的田舎で生まれ育ちましたが、観光牧場にでもいかなければヤギや羊などと触れ合うことはありませんでした。

日本人にとってヤギや羊という動物は、あまりなじみのない動物であると思います。
犬や猫ならペットとして飼われています。
また、近くに御料牧場がありましたので牛や馬はたまに見ることがありました。
ジンギスカンの羊の肉は前から好きでしたが、生きている羊はテレビでしか見たことがなく、初めて見たのは動物園でした。

しかし聖書には非常に良く、羊のいる風景が登場します。
アブラハムもモーセも、羊を飼って暮らしていました。
ダビデも少年時代はお父さんの羊の羊飼いをしていました。
また、幕屋や神殿で神さまを礼拝する時に献げる動物は、おもに羊でした。
新約聖書においては、イエスさまの誕生を天使たちが告げたのは、羊の群れの番をして野宿していた羊飼いでした。
そのように、イスラエル人にとって、羊というのは身近な動物であり、羊飼いという仕事もありふれた職業でした。

しかし、私たち日本人にとっては、聖書に書かれている羊や羊飼いのことを聞いても、ピンと来ないのではないでしょうか。
新約学者バークレーに詳しくそのことが出ていましたので、情景を思い浮かべてみましょう。
イスラエルでは、牧羊犬というものは、いなかったそうです。
羊の群れを誘導したり、また迷い出ようとする羊を引き戻したりする仕事も、すべて羊飼いがしたということです。
群れから出ようとする羊を群れに引き戻すためには、革ひもで作られた石投げ器で、迷い出た羊の鼻先に石を投げました。
すると羊は驚いて、群れに戻るのです。
羊飼いの石投げは、すばらしいコントロールだったようで、それこそ髪の毛一筋をねらっても外すことがないような人もいたようです(士師記20:16)。
ダビデがゴリアテを倒すときに用いたのがそれです。

この石投げ器は、羊を食べようとする野獣を追い払うための道具でもありました。
他に羊飼いは、こん棒や羊飼いの杖を持っていました。
こん棒は野獣や泥棒が襲ってきた時に、闘うために、羊を群れに戻すためには先の曲がった杖を用いたそうです。

日暮れには、羊が囲いの中に入る時、羊飼いはその杖を地面に低く十文字に立てて、羊が一匹ずつその下を通るようにしました。
そして羊が一匹ずつそこを通る時、羊飼いは、今日一日で羊が怪我をしていないかどうか、すばやく調べたそうです。
羊飼いは羊に名前をつけて呼んでいました。
また羊は実際に、羊飼いの声を知っていたそうです。
バークレー先生は、トムソンという人の話を紹介しています。
「羊飼いは折々自分の存在を知らせるために、鋭い叫び声を発する。羊はその声を知っていて、それに従う。ところが、違う誰かが呼ぶとちょっと立ち止まり、びくっと頭を上げるだけである。それを繰り返すと、羊はくびすを返して逃げてしまう。その人の声を知らないからである。私は試しに何回かそれをやってみた。」

羊は非常に弱い動物で、群れを作らなければ生きていけないし、牧草のあるところや水のあるところに導いてもらわないと生きていくことが難しいということは前にもお話したと思います。
そう考えると羊飼いという職業は、まことにたいへんな仕事であると思います。
羊の群れを常にコントロールし、迷子にならないように見ていなくてはなりません。
しかも、一気に何百等もささげ物にできるだけの需要への対応が要求されるのです。

狼や獅子などの野獣が来れば、それらと闘わなければならないし、盗賊や泥棒を警戒していなくてはなりません。
病気の羊がいないか、怪我をした羊はいないか‥‥といったことに常に気を配らなくてはなりません。
そして夜はぐっする眠ることができるわけではないのです。

イエスさまのお生まれになった夜、野宿をして羊の番をしていたように、やはり野獣や盗賊を警戒していなければならないのです。
それが羊飼いという人々です。

さて、七節以降に出てくる門は、やはり羊の囲いの門なのですけれど、こちらの方は草原の中にある囲いを前提としているようです。
その囲いの中にいる羊を盗む盗人とか強盗などという物騒なが、ここにも出てきます。
しかし、こちらは街中ではないので「狼」も出てきます。
そして、その門には「門番」はいません。
ある旅行記によると、二〇世紀になってもそういう囲いがあって、その囲いには出入口はあるけれど門はなかったそうです。
羊飼いに、「門がないけれど、これで平気なのか」訊いたら、羊飼いは「私が門だ」と答えたというのです。
夜、羊飼いは羊をその囲いの中に集めます。
すると羊飼い自身がその出入り口に寝そべるのだそうです。
狼が来るにしても、狼はその羊飼いを跨いで囲いに入らなければいけない。
そうなった時に、命をかけて羊を守る羊飼いと、さっさと逃げる羊飼いがいる。門と羊飼いは実は同じであって、羊の命を守るものなのです。
イエス様は、そういうことを背景にして、この言葉をおっしゃっているのかもしれません。

門は、永遠の命に至る門、あるいは天国に至る門です。
この門を通って囲いに入る時に、本当の平安、安らぎを得る。
そういう救いに至る門です。
そして、羊飼いは自分の命を捨てることで、羊に命を与える、それも豊かに与える羊飼いです。
単に羊たちの肉体の命を守るために命を捨てるのではなく、捨てることを通して再び受け、その永遠の命を羊たちに与えるのです。
この良い羊飼いの声を聴くことが出来る喜び、そして、この羊飼いに守られる平安、そして羊飼いに導かれ、時にその腕に抱かれたり、背負われたりしながら、神様との永遠の交わりの中に入れていただける望み、それは、「それさえあれば生きていける」というものだと思います。

イエス様は、一節に続いて「はっきり言っておく」と聴衆の注目を集めた上で、
「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を棄てる」と仰いました。

羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるために、羊飼いであるイエス様が命を棄てる。
命を失う。それは、どういうことなのでしょうか?続きを読みます。
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を棄てる。」

ここにも「知っている」という言葉が繰り返し出てきます。
でも、原文では四節の「羊はその声を知っている」の時に使われる言葉と違う言葉が使われています。
四節の方はギリシャ語ではオイダですが、こちらの方はギノースコウという言葉が使われているのです。

旧約の預言者たちは、彼らの預言が復活者イエスにおいて成就したという意味で、復活という終末的な出来事にあずかっているので、門を構成する一部とみなされ、「門を通らないで、ほかのところを乗りこえて来る者」には入りません。
しかし、ヨハネ共同体に対立するファリサイ派のひとたちは、復活者イエスを拒否することで、自分たちが門を通って入ってきた者ではなく、「門を通らないで、ほかのところを乗りこえて来る者」だといえるわけです。
「わたしが門である。わたしを通って入る者は救われ、入ったり出たりして、牧草を見つけるであろう」。(九節)
八節は、復活者イエスが門であることが、門を通らないで塀を乗り越えて入ってくる盗人との関係で見られていました。
九節ではその門を通って出入りする羊たちとの関係で見られています。
復活者イエスという門を通って「キリストにある」という場に入ってきますと、そこは御霊の命が豊かに溢れる恩恵の世界です。
その霊的現実が「牧草を見つける」という比喩で語られます。
その恩恵の世界に妨げられることなく自由に入っていけることが、「入ったり出たり」という句で表現されます。
「登ったり降りたり」という表現を思い出させる箇所でもあります。
「盗人が来るのは、盗み、屠り、滅ぼすためにほかならない。わたしが来たのは、彼らがいのちを得るためであり、豊かに得るためである」。(一〇節)
ここでたとえ本来の目的である羊飼いと盗人の対比が取り上げられます。
盗人が来るのは、羊を盗み、屠り、滅ぼすためですが、羊飼いが羊たちのところに来るのは、羊を牧草地や水辺に導いて、羊たちが豊かに養われるためであるという日常生活の事実を比喩として、イエスがその民のところに来られた目的が宣言されます。
すなわち、イエスが復活者イエスとして世に到来しておられるのは、彼に属する民が彼によって「いのち《ゾーエー》を得るため」です。

この「いのち《ゾーエー》」は「永遠の命」を指しています。
「永遠の命」は、この福音書ではしばしば《ゾーエー》という語だけで表現されます。
この福音書の中心使信は「永遠の命」を与えることですが(三・一六、二〇・三一)、ここではそれが羊飼いを比喩として宣言されています。

ここでの「わたし」は、門であるよりは羊飼いのイメージを強調しつつ、次の「良い羊飼い」の一段(一一〜一六節)を導入することになります。

「わたしが良い羊飼いである。良い羊飼いは羊たちのために自分のいのちを捨てる」。(一一節)
復活者イエスこそが羊飼いであることは、盗人と対照して一〜五節の比喩で十分示されていました。ヨハネ共同体はさらに、他の羊飼いたちと対照して、復活者イエスこそが「良い羊飼い」であることを宣言します。この「良い羊飼い」という表現は、英語で言えば定冠詞つき大文字の単数形で書かれる「羊飼い」で、「真の、唯一の羊飼い」という意味を含んでいます。復活者イエスこそ、その「真の、唯一の羊飼い」なのです。
復活者イエスがそのような「真の、唯一の羊飼い」であるのは、イエスが神の民のために御自身の命を捧げられたからです。イエスの十字架の死は、神の民が永遠の命を得るために御自身の命を捧げられた出来事です(三・一六)。その死によって、イエスは「真の羊飼い」、「良い羊飼い」であることを示されたのです。そのことが、やはり羊飼いの比喩を用いて、「良い羊飼いは羊たちのために自分のいのちを捨てる」と語られます。

「わたしが良い羊飼いである。わたしはわたしの羊たちを知っており、わたしの羊たちはわたしを知っている。父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは、羊たちのために自分の命を捨てる」。(一四〜一五節)
すでに一一節にあった「わたしが良い羊飼いである」という宣言が繰り返されて、改めて「良い羊飼い」とはどういう羊飼いであるかが、二つの点について述べられます。
一つは、良い羊飼いは自分の羊たちをよく知っていることです。
一匹一匹の名前とその性質をよく知っていることです。
もう一つは、羊たちのために自分の命を捨てるほど、羊たちを大事にしていることです。
まず、復活者イエスが「良い羊飼い」として、御自身に属する民を一人ひとり知っておられ、民もイエスを自分の救い主として知っていることが、父と子であるイエスの交わりと同質であるとされ、「父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」と述べられます。
この「知っている」は、相手について様々な情報を持っているという意味ではなく、人格間の交わりと結びつき、すなわち愛を内容としています。
この「知る」は、ヨハネ福音書の特色ある中心概念の一つです。
そして、わたしが自分の羊たちを、父が自分を知ってくださっているように知っている、すなわち愛しているのであるから、「だから」という気持ちで、「わたしは、羊たちのために自分の命を捨てる」と続きます。
ただ、この命を捨てることについては一七〜一八節で詳しく取り上げられますが、その前にこの「良い羊飼い」に属する羊たちの範囲について大切なことが語られます。
ところで、ここで「一つの群れ、一人の羊飼いとなるであろう」と言われていますが、「一つの囲いとなる」とは言われていないことが注目されます。
ここでの「囲い」はモーセ律法に基づくユダヤ教という宗教ですが、視野を広くして世界を見渡しますと、世界の諸民族は様々な宗教の囲いの中にいることが見えてきます。
その多くの囲いを一つにすることはできない相談です。
また、する必要もありません。
囲いはそのままでよいのです。
それぞれの囲いの中にいる民が、真の牧者である復活者イエスの声を聞き分けて、その方の羊として従えばよいのです。

先ほど日本語の「知っている」にもいくつもの層、あるいは次元があることを言いましたが、イエス様は、そのことをここで表現しているのではないかと思います。
「声を知っている」ことの中に、既に、ただ他の人との声の違いを認識しているだけでなく、互いに愛し合っているという面があることを言いました。
それは、愛されていることを互いに信じているということです。そういう次元が、ここにはある。
しかし、「良い羊飼いである」イエス様が「自分の羊を知っている」という場合、それはさらに深まった知識を表しているのです。

全身全霊を傾けて互いに愛し合う。
そういう関係性を「知る」と言う。
だからその言葉は、「発見する」とか、「理解する」という意味を持ちます。
見聞きして知るだけでなく、もっと体を含む形で、霊肉共に知る。
深く愛し合い、信頼し合う。そういう関係性を表す言葉なのです。

イエス様が、そういう形で自分を知っていてくれる。
愛してくれる。
信頼してくれている。
そのことを知ることが出来る。
それは当たり前のことではありません。
それを知りさえすれば、もう後は何も要らないと言ってもよいことではないでしょうか。
私たちも、そのような信頼の上に、信仰生活を歩んでまいりましょう。

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