日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 福音書が示すもの 2009/100/4 ヨハネ8:48-59

<<   作成日時 : 2009/10/04 12:11   >>

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プロ野球ではペナントレースも大詰め、いよいよクライマックスシリーズであります。
二枚看板でここまで勝ち進んできました楽天が球団創立初のクライマックスシリーズとなりそうです。

さて、この何週間か学んでまいりました主イエスとユダヤ人との対立もいよいよクライマックスであります。
59節で見るように、「ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。」とあります。
以前お話したとおり、石打ち刑は当時行われていた処刑方法でしたが、ユダヤ人にその死刑判決を出す権限はありませんでした。
勝手に処刑をしてしまえば、それは大変なことになります。
ステファノが処刑されたのも、単に処罰されたのではなく、石打つ側にも理屈がありました。
問題になることをある程度覚悟しつつ石を打ったのです。
しかし、この時はまだ主イエスの時ではありませんでしたので、彼らは石を投げられなかったと説明されています。

但し、イエスのときが来ていなかったとしても、これまで「イエスを信じた」と書かれていた人たちの心が離れてしまっているということは間違いありません。
主イエスはそのことをご存知で、まだあきらめてはおられませんでした。
ですから、後の11章で「もう一度ユダヤに行こう」とおっしゃるからです。
弟子たちは不思議がって「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」と質問しているのです。
この時、主は、ユダヤといってもベタニヤまでしか行っておられませんでした。
そして、こののちまた荒野に近いエフライムに退かれました。
最終的にユダヤに行き、エルサレムに上って十字架につかれたのです。

さて、今日のところの初め、48節で見るように、ユダヤ人は憎悪の情をこめて、主イエスを「サマリヤ人」、また「悪霊に憑かれている人」と決めつけています。
彼らは少し前には「キリストはまさかガリラヤからは出て来ないであろう」と言っていたのですから、主イエスがガリラヤのナザレの人であることは知っていたはずです。
つまり、サマリヤ人ではない、と知っていたはずです。
それが今、憎しみに駆られて、もうサマリヤ人と同じに扱ってやる、差別してやる、ユダヤ人として認めない、というのです。
異邦人同様にあしらうというのですから、ユダヤ人からすれば人間扱いしない、という意味です。
ナザレのイエスが「悪霊に憑かれた人」と罵しられたことは、他の福音書にも書かれています。

ヨハネは、これまで比較的好意的であった人たちが、「あなた方は何故私を殺そうとするのか」と言われたので、カッとなって、このように考える手合いは被害妄想に陥っている、のだと思われた、という立場でこのことを描いています。

当時の人は精神の病いは悪霊のせいだと考えられていました。
今回は主イエスの教えられた内容について、常軌を逸しただけでなく、悪魔的と言うほかないことを教えるというレッテルを貼り付けたのです。
すぐそれに対して、「私は悪霊に取り憑かれているのではない」と即答されました。
「サマリヤ人」と判定されたことについて、主イエスは反論も釈明もされませんでした。
それはまるでサマリヤ人と見られても一向に構わないと言っておられるかのようです。
ユダヤ人にとってサマリヤ人をイスラエルから除外するのは、いわば当然でした。
しかし主にとっては、神の救いの歴史の中ではユダヤ人もサマリヤ人も、そんなことはどうでもいいことでした。
いや、むしろ、「あなた方はサマリヤ人から聞かなければならない。ユダヤ教の正統主義の教えを守るのだ、という考えを推し進めて、不純と見えるものを排除して行った結果、独り善がりの、硬直し、冷え切った宗教になってしまったあなた方は、思いを翻してサマリヤ人から聞いた方が良いではないか」という含みをこめて沈黙されたのかもしれません。
ここでは、4章で見た主イエスのサマリヤ伝道や、善きサマリヤ人の譬えを思い起こせば、聖書全体としてそのような含みがあることが認められると思います。
彼らの罵りに対して「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない」と主は答えられました。
イエス・キリストを「悪霊に憑かれた人」と罵る者に対して、それは聖霊に対する冒涜になると警告しておられます。
「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」と。
この次第はマルコ伝3章22節以下に書かれています。
なるほど、精神が錯乱して自分が神であると思い込んで吹聴する人は珍しくありません。
だから、それを予防するためにユダヤ人が警戒していたことは確かです。
しかし、ユダヤ人たちは用心深くすることによって、キリストの来ておられることが見えなくなってしまいました。
彼らは神の言葉をシッカリ聞くべきでした。
父に栄光を帰するとは、自分の栄光を求めるのでなく、父の栄光を求めるということです。
父を重んじるには、父の遣わされた子を通して父を知るということです。
子は父を顕すからである。
これが主イエスの教えの最も重要な部分であって、何度も繰り返し教えられました。
最後の晩餐の場面で、「フィリポよ、こんなに長くあなた方と一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのである」と言われました。
御子なしでも神が十分分かっており、御子なしでも、アブラハムの子孫であるという理由で、生まれながらに自由であると思い込んでいるのがユダヤ人の陥った決定的な落としあなだからです。
「ところが、あなた方は子を尊重しない。だから、子を通して顕される真理が分からず、却って子を悪霊に憑かれた者と判断してしまうのである」と主は言われる。

主イエスは今回の所では、悪霊に憑かれた者という見方が、如何に禍いであるかには触れられませんでした
それよりもご自身の教えを曲解している点をたしなめられました。
ここで問題になっている教えの要点は二つです。
一つは、父なる神と神の子なるイエスとの関係、目に見えない父なる神と、肉体を採って目に見える様で現われたてくださった御子なる神との、本質における同一、別の面で言うなら、キリストの栄光です。
もう一つは、死に対する命の勝利、永遠の命、甦りです。
確かに、この二つは主イエスの教えの最も中心的な特色であり、ユダヤ人にとって乗り越えることの最も困難な躓きであった。

第一の点については、5章18節で「神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされた」と示されて以来、繰り返し躓きとして問題とされています。
神を父とするのは、この8章の41節でもユダヤ人たちも言っています。
それは、神に対する信頼、神の守りの確かさ、嗣業の確かさを表現するに適切なイスラエルの信仰に一般のものである。
しかし、主イエスが言っておられたのは、それとは別の意味で、ご自身についてのみ言える深遠な奥義である。
ヨハネ伝はこのことを冒頭の節から言い続けて来た。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」。
今日学ぶ要点も、結局ここに還って行くのです。
福音書記者ヨハネはさらに続けて、1章14節で「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」という言葉で証言しています。
神の独り子であることは、神の独り子としての栄光を持っているということでもある。
そこで、主イエスは8章50節で、ご自身の栄光について述べておられます。
「わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。」。
「私は、自分では自分の栄光を主張していない。私は主張しないけれども、別の方が私の栄光を主張しておられる。その方は裁く方であるから、私の栄光が示されているのになおそれを求めていない者があれば、その者は裁かれる」という意味です。
それは、54節で言われるのと同じ意味である。
ただし、私の栄光を受け入れない者が裁かれるということは、言われていない。
54節、「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。」とおっしゃいました。
たしかに、主イエスは自分の栄光を主張しておられません。
むしろ、栄光などとは縁遠い者のように、しもべとして生きられました。
そしてついには、十字架の死を遂げられるのです。
また、主は地上に生きておられる間、自分の栄光を求めず、父の栄光を求められました。

「わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる」と今訳されていますが、「私の栄光を求める」というのは原文そのままではありません。
直訳すれば、「私は私の栄光を求めない。求め、かつ裁く方がある」ということです。
御子は父から全権を委ねられて派遣されたのであるから、御子を軽んじることは、これを遣わされた父を軽んじることになるのである。
そのことは裁かれることなしには済まされない。
ぶどう園の主人から遣わされた息子が殺されてしまうたとえからも見ることができるでしょう。

次の節に進んで、今日学ぶべき第二点を見ましょう。
51節、「よくよく言って置くわたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」
これはいつまでもとは永遠にということである。
この教えは我々にとって、最早初めてのものでも、聞き慣れないものでもない。5章24節や6章でもこれと内容的に同じ言葉が繰り返されています。
永遠の命を受けるのは、5章24節の通り、そして今日8章51節でも学ぶように、キリストの言葉を聞いて、それを守り、キリストを遣わされた方を信じることによってです。
そのことはまた、6章では、私の与えるパンを食べることとも言われ、さらに、私の肉を食べ、私の血を飲む、とも言われました。
そのように既に聞き慣れている教えであるから、説明を繰り返す必要はないとおもいますが、
全く良く分かっているわけではないと主がおっしゃるのですから、繰り返し聞くことが大切なのだと思います。
主に倣い、観言葉に聞き、聖餐を受けることが大切なのだということです。
本日も恵みの聖餐に預かりましょう。

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