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zoom RSS わたしはある。  2009/06/21 ヨハネ6:15-21

<<   作成日時 : 2009/06/21 20:56   >>

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先週は5000人の給食の記事から学びました。
その記事に引き続いての本日の箇所ですが、ルカの福音書を除いて、この二つの奇跡をはっきりと結び付けて記しています。
この福音書が書かれたころからこの二つの物語が関連付けられていたということなのでしょう。
「私は命のパンです」というみ言葉の箇所を来週学ぶ予定ですが、これはお気づきのとおり先週学んだ5000人の給食の奇跡に関連しています。
わざわざその中に主はパンの話をされている最中に、今日の箇所が挟まれていることになります。
実際にはこのような箇所はほかにもあるのですが、私は、読むたびに、これにはどんな意味があるのだろうか、と思います。
ひとつは時系列的にこの流れであったということ。
もうひとつは何かの意図で、わざわざこの箇所に挟み込んだということ。
です。

本日の箇所はほかの福音書と比べて、福音書記者ヨハネは簡潔に描いています。
丁寧に情景描写ていることの多いヨハネ福音書が、本日の箇所に関しては語りたいことだけを語っているといえます。

夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。

まず、弟子達がイエス様の指示ではなく、独自で湖のそばへ下りて行き、船に乗り込んだような書き方です。
「夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。」とあります。
そして船に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムという町に行こうとしました。すでに暗くなっていましたが、イエス様は弟子達のところにはいませんでした。
今までいつも共に行動していた主イエスが不在なのです。
それが主の指示だったのか、弟子たちが勝手にとった行動なのかは記されていません。
あたかも夕暮れが迫っていたかのような表現が私たちの聖書ではなされていますが、ギリシア語の原典では、「既に暗黒であった」「真っ暗闇であった」という表現で書かれています。
暗闇の中で、弟子達は船に乗ったのです。
現在のように電気があるわけではありませんから、少しの松明があったとしてもほとんどが闇だったはずです。
月明かりがあったかもしれません。

弟子達が船に乗ると、強い風が吹いて、湖は荒れ始めます。
闇の中、湖が荒れる。
この表現も、「波が起き上がってきた」「波が起き上がらされた」という表現です。
強い風が吹いて、湖は荒れ始めます。
弟子達が船に乗ると、荒れ始めたというのです。
持っていたかもしれない松明は消えてしまったでしょう。
月明かりは雲ってしまったでしょう。
ガリラヤ湖は、海面から、地中海から200メートルほど低いところにあり、亜熱帯的な気候です。
その為、風が吹いてくると突然海が荒れるという大変不思議な独特の自然現象があります。
ですから、強い風が吹いて、湖が荒れ始めることもしばしば起こることです。
常にガリラヤ湖で船に乗っている人達、例えば、漁をしている人達や、そこで船を運航している人達は、知っていて当然の事柄で、別に不思議なことではないのです。
弟子たちにはペトロをはじめとして漁師をしていた人が多くいましたから、5ないし6キロ離れたところで湖が荒れてくるということ自体は、あまり問題にはしなかっただろうと思うのです。
乗っている船が自分の船でなかったとしても弟子達にとっては予想の範囲内のトラブルでした。
多少湖が荒れていても、きっと落ち着いて対応できたはずです。

二十五ないし三十スタディオン(これは大体5キロから6キロですが)ばかり漕ぎ出したころ、イエス様が湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。
イエスは言われた。


「わたしだ。恐れることはない。」
そこで、彼らはイエス様を舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた

「二十五ないし三十スタディオン」いうに距離も意味があるかもしれません。
ある本によると、ちょうどカファルナウムとの真ん中だということでした。
行くこともできない、帰ることもできない、そんな場所での出来事です。
止まなかった嵐はない、漁師の弟子たちは知っていたはずです。

ところが、イエス様が湖の上を歩いて船に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れたのでした。
弟子たちが、どんなに不安だったかとか、幽霊だと思ったとか、叫んだとか、ヨハネは一切記していません。


このように読んでいきますと、単にイエス様が湖の上を歩いたという奇跡物語が強調されているのではない事に気づかされます。
実は私達ひとりひとりは、船の中で突然嵐に遭うように、人生の中でいろいろな困難に遭遇することがあります。
予想の範囲内の痛みから、想像もしえないような苦しみまで、様々な形で起こります。
行くことも戻ることも困難な中に、波に舞う船のように、人間の力ではどうすることもできない。
この弟子たちと同じように、私たちも沢山の恐れをもっているのです。
「わたしだ。恐れることはない」そう主イエス様は語り、前も見えない暗闇の中、大きな嵐の中で叫んでいる一人一人のかたわらに主が立たれて助けを示されました。
するとまもなく「船は目指す地に着いた」のです。
船に乗っていた弟子達は、波が静まったので、喜び祝い、望みの港に導かれて行きました。
イエス様が、弟子達ひとりひとりの苦しみの中に共におられて、望みの場に導き出したのです。
真っ暗闇の中、船出した船が、嵐に遭った。
いわば、私たちの日々の生活の中でも同じようなことが何度も起こります。
嵐が予想できる船出も多々あるでしょう。
苦しい時、悲しい時、困難な場にある時、私たちの行く手を照らして下さるのは、夢であったり、希望であったりします。
また、その為に努力してきたという自信や、それまでの経験もあるでしょう。
そんな時にいつも共にいてくださり「恐れることはない。わたしだ」と語りかけてくださるのが主イエス様なのです。
それはイエス様が、いつも神様の前に立って、しかも人間的には悲劇としか言いようのない、十字架上の死をもって示された救いの世界です。

しかも、そこで「わたしだ」とおっしゃったことにも意味があります。
ヨハネ福音書には、「私は光である」、「私は道であり真理である」、「わたえしはよみがえりであり命である」、「わたしは羊飼いである」、そして来週学びます「私は命のパンである」
このように主ご自身がご自分をなぞらえられた表現が示されます。
それらに先立って、まず、「私だ」とおっしゃったのではないでしょうか。
原本の表現では“I am. ”ですが、英語の聖書では“It is I. ”になっています。

外出から帰って、自宅のインターフォンを押したとき、「はい、どなたですか?」という質問に皆さんはどう答えるでしょうか。
そんなとき「私だ」などと答えるかもしれません。
そんなとき「私って誰?」と聞き返されることはありません。
「わたしだ」という言葉は、そう言うことが出きる者と、その言葉を聴く者の間に深い関わり、信頼関係があるのが前提です。
さらに言えば、主のこのお言葉は、そのような信頼を呼び起こす声であったということもできます。

最近の「オレオレ詐欺」、「振り込め詐欺」はそのような信頼関係の隙間をついた詐欺だからこそだまされやすいともいえますから注意が必要なのです。

では私たちはどうしたらいいのでしょうか。
そこで、彼らはイエス様を舟に迎え入れようとした。
とあります。
この後、主が舟にお乗りになったのか、乗らなかったのかは書いてありません。
福音書記者ヨハネは書く必要がないと思ったのでしょう。
弟子たちは主イエスに対して、すでに心を開いたのです。
主よ、どうぞお乗りください。私たちと共に行ってください、という弟子たちの姿だけを描くのです。
この余韻を残した表現が私たちを招いてくださるのです。

どのような状況にあっても、共におられて、「恐れることはない。わたしだ」と言って慰めを与えられておられる方がおられます。
真の救い、真のしるしを見ながら、私たちは生かされているのです。

主の慈しみがありますように。

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