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zoom RSS へりくだられる神  2009/04/05 マルコ12:1-11

<<   作成日時 : 2009/04/05 16:37   >>

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教会暦では、今週は受難週、聖週間と呼ばれています。
主イエスキリストの生涯最後の1週間を表す言葉です。
ダビンチの絵で有名な「最後の晩餐」も、この受難週の中で行われた弟子たちとの夕食であります。
キリスト教会が今日も守っている聖餐式として受け継がれています。

受難週最初の出来事が、主イエスキリストのエルサレム入りです。
かつてこのエルサレムにダビデが城を築き、都として定められたことからエルサレム入城、あるいは入京などと呼ばれています。

主イエスのエルサレム入城は、勝利の入城でした。
人々は棕櫚の葉を打ち振って迎えたところから「棕櫚の聖日」と呼ばれています。
先週の週報には「枝の主日」と記しましたが、同じことです。

ユダヤ人にとって、棕櫚の葉は民族を抑圧しているものを打ち破った勝利の物語を思い起こすものでした(1マカベヤ13:51)。
主イエスは、最後の敵である死にさえも打ち勝ち、人生に勝利を与えてくださる方だからです。

イスラエルには「メシア」(救い主)がその門から入城するという言い伝えがあったのです。
やがてメシアがエルサレムに入城する。
それはユダヤの人々にとって、特別な出来事でした。
栄光に輝く勝利の王、メシアがエルサレムに入城する時が来る。
詩編24編は、栄光の王の入城を高らかに歌い上げています。
預言どおりダビデの子孫である主イエスが入城するのを人々が歓迎するのです。
主イエスは王であり、メシアであるという期待が人々にありました。

さて、先週も主イエスのおっしゃった言葉が、わかりにくいところがある、という話をしました。
主イエスは時に私たちの想像を超えたことをお語りになり、また行われる方でした。
実際には、私たちがその思いに及ばないことが多いのですが、突拍子もないことをされるのです。
そして、エルサレムを目指す主イエスは、また不思議なことを弟子に命じました。
  向こうの村に行きなさい。
  村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない
  子ロバのつないであるのが見つかる。
  それをほどいて、連れて来なさい。
その子ロバに乗って、エルサレムの町に入ろうというのです。
なぜわざわざ、子ロバを連れて来させるのか。
なぜ、敢えてその子ロバに乗ってエルサレムに入ろうとなさるのでしょうか。

主イエスはとても奇妙な選択をなさいました。
ことごとく、人々の期待を裏切る格好をなさいました。
預言者ゼカリヤの言葉を、救い主の姿として表したのです。

  見よ、あなたの王が来る。
  高ぶることなく、ロバに乗って来る。
  雌ロバの子であるロバに乗って。 (ゼカリヤ9:9)
ゼカリヤ書9章10節にはこうあります。
「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。」

主イエスは、この預言の言葉を、ご自身で実現なさいました。
ゼカリヤ書で「高ぶることなく、ロバに乗って」と訳されている言葉の「高ぶることなく」は、もともとは腰をかがめた姿勢を意味しています。
そこから派生して、押しつぶされ虐げられて苦しんでいる様子や経済的に圧迫されて貧しくなっている姿を意味して用いられるようになったと言います。

ゼカリヤ9・9-10が書かれた時代におけるユダヤ教共同体の状況に戻りたいと思います。
紀元前4世紀の終わりに、ユダヤ教共同体の唯一の力は神にあったのです。
政権上の権力を持っていませんでした。
けれども、預言者に助けられて、神の民であるという一体感が支えでした。
今から25世 紀前のことですが、似たような体験が他の国や民族の歴史の中にも見られます。
世界権力者によって自らの国の名前さえも地理書から消された時代にも、民族と してのアイデンティティを失うことなく、それを守るために特に精神的な力や文化的な力を尽くしました。
その中で神への信仰は祖国愛をも養ってきました。
祖国愛は自らの基本的な権利であり、またどんな場合にも他の国から侵害されるものではありません。
すべての人々は、祖国を持ち、愛する権利を持っています。
このような祖国愛は、他の人々が持っている同じ権利を認め、尊重するので、ナショナリズムとは全く関係がありません。
ナショナリズムは、他の国々の権利を認めることなく、結局自らの国の利益だけを追求するものです。
紀元前4世紀の終わり、ユダヤ教共同体は預言者の言葉に支えられて、神に信頼し、柔和なメシアの到来を待ち続けました。
預 言者ゼカリヤが告げた柔和なメシアは、イエス・キリストです。


主イエスが入城に用いたのは、まだ使われたことのない子ロバでした。
主がそれを必要とされていたのです。
この当時、王は飾られ、訓練された軍馬に乗って颯爽と入城するのが常でした。
エルサレムでイエス様を出迎えた弟子や群衆は、そんなメシアを待望していました。
万軍の主、戦いには常に勝利をもたらす軍神、世界に君臨する知恵ある王、栄光に輝く王、成功と繁栄をもたらす救い主を望んでいました。
権力と繁栄をもたらす神を求め、敵を滅ぼす力の主を待ち望んでいました。

服を脱ぎ、王の通り道にしく、それは、王や身分の高いものに対する敬意の表れです。
棕櫚の枝を掲げて迎えるのは、巻かばいとその仲間たちが神殿を奪取したときのエピソードと結び付けています。
そのことはマカバイ記の10章にかかれています。

そんな意味では、主イエスはエルサレムの人たちの期待を裏切ったのかもしれません。

しかし私たちの主は、エルサレムに入られる前、都を見て泣かれました(ルカ19:41-44)。
この都にいる者たちの心が、いかに神様から遠く離れていることを思って、深く悲しまれたのです。

ロバは柔和と平和のシンボルであり、主イエスが平和の主として世に来られた象徴がこのエルサレム入城です。
それは、子ロバに乗って入城することでした。
大の大人が力弱く、荷物すらうまく運べない子ロバの背に揺られてゆく姿は、滑稽ですらあったことでしょう。
なぜ、イエス様は敢えてそんな姿での入城をお選びになったのでしょうか。
そこには、イエス様の思いが込められています。
そして、わたしたちに問いかけるのです。
神の権威を振りかざして、王の力を見せびらかして煌びやかに世に来られたのではないことを。

そんな意味でも、主イエスはエルサレムの人たちの期待を裏切ったのかもしれません。

確かに、大勢の人たちが、歓呼の声を持って主イエスを迎えました。
しかしその数日後には、その声が「主イエスを十字架につけろ!」という声に変わるのです。
舌の根も乾かぬうちに、とはこのことです。
群集というからには、一人ではありません。
そこに居合わせた人の大多数が、その当時自分たちの思い描いていた王との違いに驚きました。
期待が大きかったからこそ、落胆も大きかったのかもしれません。
絶対的な力を持って、政治を建て直し、強国からの支配を跳ね除け、自分たちイスラエルの王国を築いてくれると信じていたのです。
しかし、子ロバに乗って現れた主イエスはその理想とかけ離れたものでした。

主イエスは平和の君と預言され、
主イエスは、この世の秩序を重んじました(マタイ22:21)。
とらわれる晩の最後晩餐で語られたのは、平安を与えるというメッセージでした。
主を守ろうとする弟子に武器を取ることを戒めました(マタイ26:52)。
これらはすべて復活の主の最初の弟子たちへの呼びかけた「平安があるように」という言葉につながっていくのです。

何週間か前の説教で、教会の十字架を見上げてくださいと申し上げました。
そしてさらに十字架の先にある天を見上げてくださいと。
私たちの国は天にあります。
しかし神様は私たちを天まで昇ってくるようにと求めません。
私たちの地上まで降りてきてくださりキリストをして愛を示してくださるのです。
キリストが罪人となられたことは、私たちのもっとも苦悩するところまでおいでになったということです。
私たちのもっとも低いところです。
神様はそんな私たちの生きるこの地上で働かれるのです。
そしてそこに平和を実現してくださるのです。


主イエスの元にいき、主イエスを平和の主としてお迎えすることが、私たちにとって平和への道となるのです。

平和への道を歩むこと、平和をつくりそれを守っていくことは、楽な道ではありません。
主イエスが受けられたように、それは苦難の道です。
しかし苦しみの中、絶望のふちから平和が生まれるのです。
私たちには、平和の主がおられます。
それゆえ、主にある兄弟姉妹とともに、平和への道を歩んでいくことができるのです。
天の御国を目指して平和の道を歩んでまいりましょう。




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著者:隅谷三喜男出版社:新教出版社サイズ:単行本ページ数:196p発行年月:1998年11月この著者

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