日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 王に聞き従う 2009/3/15 ヨハネ2:13-25

<<   作成日時 : 2009/03/15 12:20   >>

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本日は久しぶりにヨハネの福音書から学んでまいります。
ヨハネがこの位置においたのはどうだ、などとの引き合いに出してまいりましたが、あえて飛ばしておりました宮清めの記事です。
なぜ飛ばしていおいたかと申しますと、この箇所は受難前に読まれるのが相応しいと思うからであります。
この出来事を逮捕と裁判の直前に置いた共観福音書の方が、歴史的事実としては正確だろうと言えます。
このような過激な行動をされてからも数年にわたって、しかもしばしば神殿の境内でイエスが宣教活動を続けられたとは考えにくいことです。

福音書記者ヨハネは過越祭のことを「ユダヤ人の過越祭」と呼んでいます。
これは異邦人の読者に向かって書いていることを示しています。
ユダヤ人は、年に三回の大祭にはエルサレムに上って、神殿で行われる祭りに参加しなければなりませんでした。
三大祭とは仮庵祭、七週祭と過越祭です。折に触れてそれぞれ学んでまいりましょう。
主イエスもユダヤ教社会に生きる一人でした。
ですからルカ福音書には子供のころにも過越祭に参加するためにガリラヤからエルサレムに上って行かれたことが記されています。
主イエスの公生涯は3年と言われていますので、過越祭も3回はあったと思われます。
以前にもお話ししましたが、他の福音書のように時系列的には多分この出来事は受難の直前であったろうと考えられます。
しかし、福音書記者ヨハネはあえて最初の頃に置いています。
それはヨハネが主イエスの宣教が、そもそもの始めから、「すでに復活している」主イエスの伝道として語られていることを示しています。


さて、ヨハネの福音書では主イエスが公に神様の働きに入って最初にされたのはカナの婚礼における奇跡であったことを既に学びました。
つまり主の伝道は先ず他者の喜びを共に喜ぶということから始められたということです。
しるしは他者の喜びのために、願いのためになされたということです。
そして、ヨハネの順番によれば、その次になされたのが本日の箇所、神殿における宮清めと言われている出来事です。

主イエスのエルサレム入城は神殿の浄化と直結して考えられています。
ヨハネと同じように、マタイもルカも、入城される主イエスを「王」として描いています。

では、いったい「王」と神殿とはどのような関わりがあるのでしょうか?
王は政治権力で、神殿は宗教的な権威だから、政治と宗教とは別だと考えるのは、近代以降の考え方です。
16世紀〜17世紀までヨーロッパの人はそうは考えませんでした。
宗教が異なれば、政治も経済も教育も文化も、国家の形態も根底から異なると考えたのです。
だから、当時のヨーロッパでは、同じキリスト教同士でありながら、カトリックとプロテスタントとの間で血みどろの争いが生じました。
いわゆる宗教戦争です。

ここでいう「宗教」には、信仰も民族も国家もすべてがその中に含まれています。17世紀でさえそうであるのなら、二千年前のパレスチナでは、宗教と政治はなおのこと一体でした。
神の言葉を預かる預言者が、王に進言する、という箇所がたくさん出てきます。
主イエスの時代のエルサレムの神殿は、このソロモンの神殿の復興を願って、ヘロデ大王が建てたものです。
日本でも、昔は天皇が「政」(まつりごと)を行ないました。
王の権力と宗教的な権威がひとつだったからです。
主イエスが、王としてエルサレムに入城した時に、真っ先に目指したのはエルサレムの神殿でした。

まずそこで、牛や羊や鳩を売っている者たちや両替をする者たちが座っているのをご覧になりました。
そしてイエスは驚くべき振る舞いをされています。
「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、」(15節)とあります。
「牛や羊や鳩」は、神殿での礼拝のさいに供える犠牲の動物です。
これらは神殿側が礼拝者のために用意されたものです。

また、神殿に献金する場合は神殿側が用意したコインと両替をしなければなりませんでした。
日常使用している通貨はローマ帝国の貨幣で、皇帝の像が刻まれていました。
その硬貨は神殿では用いることはできません。
ですから神殿境内には「両替をする者たち」が店を出していました。
先々週の教会学校で、「皇帝のものは皇帝に。」という学びをされた方もあったと思います。
ここにビジネスの需要がありました。
神殿の境内で犠牲の動物や献金用の特別のお金を手に入れることが出来るのは、とても便利なことでした。
遠くから巡礼して来る者は、犠牲の動物を連れてくることができません。
そのような遠くから来る人たちは現地で犠牲の動物を調達する必要がありました。
かりに巡礼者が自分の家から犠牲としてささげるための動物を持参して、苦労してエルサレムまでやって来たとしたらどうでしょうか。
長く、つらい旅路を共にしてきた動物は、きっと自分の家族のようなものです。旅の苦労を分かち合った動物を、自分の身代わりとして神殿で捧げるとしたら、巡礼者の心には間違いなく、深い痛みや悲しみが伴うはずです。
動物も傷つき、弱っているかもしれません。
神殿には傷のないものをささげなければなりません。
神殿にささげるに相応しい物を調達するための必要悪であるともいえるのです。
エルサレム神殿の境内で、お金を出して簡単に用立てた動物には、愛着もわきませんし、心の痛みもそれほど感じることなく、捧げることができたのではないでしょうか。

これらの制度は礼拝者のために便宜上設けられたものでしたが、いつの間にかそれが商売の対象となってしまったのです。
始めの動機は良かったのですが、それが金儲けのための商売の場となってしまったということです。
神を礼拝する場を商売の家にしている、と主が嘆かれたのはそのことです。

もしだれかが、今日私達の教会の中に入って来たらどうでしょう。
私たちは何も商売をしているわけではありませんが、私達の讃美歌を窓から投げ捨て、献金の籠を床に投げ散らかしたら、どう感じるでしょうか。
まず、驚くでしょう。ショックを受け腹が立てるでしょう。
「何の権利、誰の権限でこんな事をするのか」と聞くでしょう。
携帯電話で警察を呼ぶかもしれません。
テロリストかも知れないかと思うでしょう。
私たちは、私たちなりに正しいと思う形で礼拝をしています。
私達の賛美と献金と祈りが、伝統的な方法で神様にささげられています。
悪い事はしていないし、私たちの礼拝が間違っていないと私達は思います。
ですから、誰かがここに入って騒ぎましたら、「どうしたのか」と聞くでしょう。

聖書の物語においても、このとき、その場所にいた人たちは同じように思ったに違いありません。
私たちのささげている礼拝も、おかしなものだとは思いませんが、常に聖書に聞き、熱心に祈らないと、いつの間にか神様の喜びの外におかれているということがあるかもしれません。

実際問題として私たちの身の回りにもこのようなものが沢山あると思います。
最初は志高く始められた働きが、いつの間にか路線がおかしくなってくる。
営んでいる人たちは、自分たちは間違っていないと思いつつレールの上を走り続ける。
もしかしたら誰かが「過ちを犯している、」と警鐘を鳴らしても、暴走列車は止まらない、なんてことがよくあるのかもしれません。

初めは、遠くから神殿にいけにえをささげるユダヤの民のために始まったこのビジネスも、いつしかその内容が自分たちの利益へと向けられていきました。
この神聖な神殿を「商売の家」にしていたのは、実は犠牲の動物を売ったり両替をしたりしている人たちだけではありませんでした。
神殿祭儀制度の名の下に、彼らの背後にあって彼らに神殿で商売をさせ、彼らから利益を吸い上げている神殿貴族階級です。
当時、その頂点が大祭司でした。
本来民は自らの罪を贖うための犠牲をささげました。
しかしそれを、お金を払うことで流れ作業のように礼拝が行われる制度にし、富を吸い上げるためのシステムに変えていました。
つまり、生産性を上げより効率的にしてしまったのです。
犠牲の動物を簡単にお金で売買できる「物」として扱うようになると、命の尊さを見失い、犠牲に伴う痛みを感じなくなり、信仰がたんに形式的なものに堕落してしまうからです。

主イエスの激しい批判は、このような大祭司を頂点とするこのような神殿祭儀制に向けられているのです。
つまり、この激しい行動は、神殿祭儀を否定する預言者的な象徴行為であると見られます。
大祭司が、自分の富と権力の基盤を否定する者に対して厳しい弾圧を加えるのは当然です。
福音書記者ヨハネを始め弟子たちは、この行動がイエスの処刑にいたる直接の原因となったことを知っています。
ですから、全ての福音書がこの箇所を記しています。
それで、イエスを死にいたらしめたこの行動も聖書の成就であるとして、聖書を引用するのです。
弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。
これは、詩編69編九節からの引用です。
しかし、その時弟子たちはその本当の意味を理解できませんでした。
後になって「主イエスが死者の中から起こされたとき」、あの時の行動は聖書に書かれていることの成就であったことに気づきました。

19節イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
主イエスがどのような意味をこめて語られたのかの本意はわかりません。
しかし、神殿の破壊を口にすることは、最大の神聖冒涜として裁判と処刑の対象になりました。
この神殿崩壊を預言する象徴行為と発言が、イエスの処刑の直接の原因になったことを、弟子たちはよく知っています。
しかし、ヨハネ福音書はあえてそれを主イエスの宣教活動の初期に置きました。
そうすることで、この出来事を十字架の原因としてではなく、復活の預言として捉えているからです。
なぜ主イエスは宣教したのか。
主イエスご自身が宣教する意味を指し示す象徴的出来事としています。

このイエスの言葉に対してユダヤ人は言います、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」
この神殿は「ヘロデの神殿」と呼ばれていました。
ヘロデ大王が前19年に再建築の工事を開始し、前9年に一応落成して献堂式が行われたと記されています。
その後も工事は続き、64年にようやく竣工した神殿です。
この「ヘロデの神殿」の壮麗さは、「世界の七つの驚異」の一つに数えられるほどでした。
イエスの時代にはまだ工事が続いており、「46年かかった」と言われている年は27年から28年ということになります。
イエスがその象徴行為によって神殿の崩壊を預言されてから40年ほど後に、その預言通りに完成して数年した70年にローマ軍によって破壊されるのです。

ユダヤ人はこのヘロデ神殿に対して「建てる」という普通の動詞を使っています。
一方、主イエスは「起こす」という言葉を用いています。
この動詞の使用は、この物語は復活を象徴するために、わざわざ使い分けていると考えられています。
ユダヤ人は、主イエスの言葉を神殿の再建築のことを語っているものとして捕らえます。
46年かかってもまだ完成しないこの神殿を三日で建てるというのは、常識のある人間が言うことではない、という気持ちで反問します。
自分たちの存在すら否定されたような気になったかも知れません。
主イエスが霊の次元のことを語っておられるのに、人は理解できません。
主の言葉を地上の体験の範囲でしか理解できない周囲の人たちが、的はずれな質問をしてしまうのです。

このユダヤ人との対話の食い違いを、ヨハネ自身が解説します。
「しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。」
「体の」という二格は同格の二格と見られるので、「ご自分のからだという神殿」と訳しています。
あるいは、さらに意訳して、「イエスが言われる神殿とは、ご自分の体のことだったのである」とするのも分かりやすいと思います。

ここで著者ははっきりと、イエスはご自分の復活を預言されたと言っていることになります。
「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」というイエスの言葉は、復活者キリストを信じないユダヤ人には謎の言葉です。
すでにイエスを復活者キリストとして知っている著者とその共同体は、それを復活の預言と理解することができます。
「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」(二二節)。

主イエスが地上におられる間は、弟子たちも周囲の他の人たちと同じように、イエスの言葉を自分たちの地上の体験の範囲内でしか理解できませんでした。
神殿で語られたこの主イエスの言葉も、他のユダヤ人と一緒に驚きの思いで聞いたことでしょう。
しかし、「イエスが死者の中から起こされたとき」、そして、聖霊を受けて復活者イエス・キリストとの交わりに生きるようになったとき、神殿でのあの御言葉は、「別の神殿」としてのご自分の体のことを指し、復活を預言されたのだと理解することができるようになります。

私たちが罪を犯してしまうのは、このように神様の本当の思いを知ることができないからです。
主が語られている意味を、自分の体験の中でしか理解できないからです。
自分の都合で解釈してしまうのです。
旅人のため、と始まった神殿での商売も、利益が出ることを覚えると重きがそちらに向いていきます。
初めはきちんと神様の方を向いて歩いていたはずなのに、気が付くと別の方向を向いているそのようなことがあります。
人が犯してしまう罪とは、そのようなものです。
主イエスに「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
と言わせてしまうのです。

私たちが、十字架を思うとき、私たちは神を仰ぎ見ることができます。
24節以下には、信じた者の中にも真の信者は少ないとイエスは言われていま
す。
十字架と復活に立たない信仰は、一時的であり、真の信仰ではないと戒められます。

私たちは十字架を思い、受難節の日々を歩んでいます。
神の深い愛を思い、主の戒めの言葉に従い、神に立ち帰りましょう。

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