日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 世が救われるため  2009/1/25 ヨハネ3:16-21

<<   作成日時 : 2009/01/25 12:23   >>

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神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
実は、この3章16節はクリスマスの時期によく読まれる箇所です。
神はその独り子をお与えになった」の「お与えになった」という言葉が、何よりもまずクリスマスプレゼントのイメージに重なるからです。
神様は、この世を愛されました。
そしてその世に住む私たち人間一人一人を愛してくださいました。
神様に愛される一人ひとりが、自らの罪のために滅んでいくのをよしとされなかったのです。
そのために最愛の独り子をこの世界にお遣わしになったのだ、と言うことです。
それはその通りであります。
しかしこの「お与えになった」という言葉には、もう一つ「死に引き渡された」という意味があります。
神様が、独り子をお与えになるということは、ただ単にこの世界にお遣わしになるということだけではありません。
死に引き渡すために遣わされたということです。
その命と引き替えに、私たちは命を得ました。
ですからこの言葉は、クリスマスの福音を語ると同時に、十字架の福音をも語っているのと同時に、復活の福音が垣間見えているのです。
だからこそ、この言葉は福音書全体の要約だと言われるのです。
宗教改革者ルターはこれを「小福音書」と呼びました。
なるほどなぁ。と思います。
これだけで十分完成された御言葉であることは言うまでもありません。
それだけで独立したものとして読んでも意義深いものでありますが、この言葉にももちろん前後の文脈があります。
とてもわかりやすく神の愛の本質を表している本日の御言葉ですが、この前後の箇所は、必ずしもわかりやすいものではありません。
どちらかと言えば難解ですが、この前後の文脈の中で、今日は改めてこの3章16節を味わいたいと思います。

まず、その直前の14〜15節を読んでみましょう。
「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
この「人の子」というのは、主イエスのことです。
「上げられる」というのは、復活あるいは昇天を指す言葉のように思えます。
そういう意味も確かに含まれていますが、ヨハネ福音書では、むしろ十字架に「上げられる」という意味が中心であります。
この「モーセが荒れ野で蛇を上げた」というのは、本日の第二朗読の民数記21章4〜9節に記されている出来事です。

本来、自分の罪のために死ぬべき人間が、モーセの掲げる青銅の蛇によって、死ぬことを免れ、命を得たというのです。
民数記21章9節の最後には「命を得た」とあります。
しかし命を得たとは言っても、それは一時的なものであり、その効果には限界がありました。

しかしそのことを十分に引き合いに出しながら、ヨハネ福音書は、イエスの十字架を指し示し、復活を示したのです。
こちらの命は一時的ではありません。
信じる者が皆、『永遠の命を得る』」とあるとおり永遠の命です。

先週もすこしお話しましたが、主イエスの言葉と福音書記者ヨハネの言葉が区別できないところがあります。
主イエスの言葉だと思って読んでいると、いつのまにか福音書記者ヨハネの言葉になっております。
有名な3章16節も一体どちらの言葉なのか、はっきりしません。
この新共同訳聖書では、10節から主イエスの言葉を示すカギ括弧が始まって、それが21節まで続いています。
ということは、この言葉は主イエスの言葉だということになります。
しかし口語訳聖書では、この有名な言葉の直前、つまり15節の終わりで主の言葉は終えられていました。
ということは、口語訳聖書を訳した時この言葉は福音書記者ヨハネの言葉だと理解していたことになります。
原文ではカギ括弧はありませんので、どちらにも読むことができます。
と言うよりも、区別できないのです。つまり二重の意味にダブらせて語られているとも解釈できます。
11節はいかがでしょう。
「はっきり言っておく。わたしたち(複数形)は知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがた(複数形)はわたしたちの証を受け入れない」。
主イエスとニコデモという一対一の対話の言葉の中に、「わたしたち」「あなたがた」という言葉が入っております。
ですからこれは、主イエスの言葉として記されていますが、福音書記者ヨハネが生きていた時代の教会(紀元100年頃)と、その教会に敵対していた人たちとの対話が重ねられているのです。
これは、ヨハネ福音書の一つの特徴であります。
12節で、主語は再び「わたし」(単数形)に戻ります。
「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」(12節)。
この「わたし」は、主イエスご自身でありますが、やはりこれを書き記している福音書記者ヨハネ自身の「わたし」が見え隠れしています。
主イエスご自身が語られたのではない、と解釈できる箇所が13節です。
「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない」とあります。
ここでは、主イエスがすでに「天に上られた」ことが前提になっています。
4つの福音書の中では一番遅くヨハネ福音書は1世紀末に書かれたと考えられています。
主イエスの死と復活の後の、ヨハネ共同体の証しの言葉と理解する方がいいでしょう。
大切な主イエスの事を未来へと書き記すのです。
だれがこの言葉を発したかを正確に残そうとするはずです。
しかし、主の言葉を自らの言葉とし、自らの言葉を主の言葉とするような手法で、福音書記者ヨハネは私たちにこれらの言葉を語りかけてくれているのです。

この「人の子」が天から降ってきて、再び天へ上られたという箇所を味わっていて、「ヤコブの梯子」の記事(創世記28章10節以下)を思い出しました。
ヤコブとは、アブラハムの孫、イサクの息子です。
イサクにはエサウという双子の兄がおりました。
本来兄が受けるべき父の祝福を、母リベカと共謀してだまし取りました。
それで怒り狂った兄に殺されないように、故郷を逃げ出して母リベカの故郷へ向かう途中での出来事です。
ヤコブは逃げておりましたが、夕暮れになり野宿することになりました。
ヤコブはその野原で不思議な夢を見ました。
「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」(創28:12)。
私は、この階段が「天から地に」向かって伸びていていたということが大事であると思うのです。
その逆ではありません。
私たちは地べたに住んでいるので、地面からはしごを書けるイメージでいます。
天と地は全く別世界であり、地上から天にいたる道はありません。
バベルの人々は、天まで届く塔のある町を建設しようと計画いたしましたが、その計画は神様によって打ち砕かれました(創11:1〜9)。
天と地は、もしも道がつけられるとすれば、それはただ天から地に向かってつけられる時にのみ可能なのです。
そしてヤコブの見た夢では、そのところを、天使、つまり天に属する者が上り下りしていたのです。
ヤコブは夢から覚めて、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」(創28:16)、「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」(創28:17)と言いました。ヤコブは父の家から遠く離れたところ、まさに彼にとっては地の果てに思えるようなところで、神と出会い、そのような信仰告白をしたのであります。

私は、この夢は奇しくも主イエスにおいて起こった出来事を指し示していると思います。
天と地、それはかけ離れた世界でありますが、そこに天の方から道がつけられたのです。
天に属する者、すなわち神の独り子である主イエスが、天から降ってきて、そしてまた天に上って行かれました。
ただ単にこの世界を御覧になるためではありません。
神が愛であるということを、身をもってあらわし、死に引き渡されるために来られたのであります。
「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(17節)。
実はここで福音書記者ヨハネは重要な結論を出していえるといえます。
裁くために主は来られたのではなく、世を救うためだというのです。
これは無限の意味を含んでいるように思います。
神はすべての人を愛し、すべての人を救おうとしておられる。
16節にある、イエスを信じるものが永遠の命を得る、ということにとどまりません。
先ほど賛美しました「主よ、みもとに近づかん」があります。
お葬式に用いられる賛美でもあります、これは、先ほどの「ヤコブの梯子」の夢をもとに作られた讃美歌です。
天からつけられたその道を通って、私たちもまた天へと至ることができます。
それはキリストの十字架によって実現したのだと賛美するのです。

御子を信じる者は裁かれない。御子を信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じないからである」(18節)。
一方、18節にはまた裁きが書かれています。
「信じない者はすでに裁かれている」とは、一体どういう意味でしょうか。

「既に」とあります。既に裁かれているのです。
言ってみれば次のようにたとえられるでしょう。
‥‥海の中で、溺れかけている人がいたとします。
そこに船に乗った人が来て、溺れている人を船の上に引き上げようとして手を差し伸べます。
ところが、溺れている人は、船の上から差し伸べられた救いの手をつかみません。
つかまないどころか、手を振り払って、助けを拒んでいる。
船に乗って溺れている人は、わざわざ溺れている人を助けに来たのです。
溺れつつある人を海の中に沈めるためではなく、救いに来たのです。
つまり裁くために来たのではないのです。
そして、船の上から差し出された救いの手をつかまないのは、溺れている人が自分の意思でそうしているのです。
「溺れつつある人が、船の上から差し伸べられた手を掴まないなんて、そんな馬鹿なことがあるか」と思われることでしょう。
しかし実にそれと同じことだと聖書は言っているのです。
私たちは自らの罪のために、滅びに向かっているのです。
「既に」滅びに向かっている。自らの罪のゆえに裁かれているのです。
「既に」です。

また、その前の17節と矛盾するように思われるかも知れません。
しかしよく読んでみると、「御子を信じない」ということ自体が裁きだ、というように読むことができます。
ですから、裁きはまだ先、未来のことだというより、現在のことだといえます。

御子を信じることができるということの中にすでに救いがあり、信じることができないということが裁きの状態であるということだと思います。

福音書記者ヨハネは、現在すでに裁きが行われているというのです。
しかもその神の裁きをはるかに超えて、世を救おうとされているというのです。
福音書記者ヨハネはそのことを次のように言い換えております。
光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(19〜21節)。
主イエスを主と信じて生きることそのものの中に、裁きからの解放があり、喜びがあるのです。救いというのはそういう状態です。

この19節には「闇」という言葉が出てきます。
神の光とは反対の方です。地獄も闇です。
先ほど述べたように、今、海の中で溺れつつある。
夏の海は光にあふれていますが、おぼれる海は闇のイメージです。
そこに主イエスが船に乗ってきて、救いの手を差し伸べてくださるのです。
誰でもその救いの手を掴むだろうと思うのに、海の中で溺れそうな私は、その手を逆に振り払って、「このままで良い」と言っている。
「そんな馬鹿なことがあるか」と思う。
しかし実はそんな馬鹿なことが起こっているというのです。
それが19節の、「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」という言葉です。
「光よりも闇の方を好んだ」‥‥これが救いの手を振り払って、「このままで良い」と言ったというのです。
それで「光」であるイエスさまを拒んだ、と。
「光よりも闇の方を好んだ」と。
つまりそれは、闇の方が居心地が良いと思っているわけです。
自分が海の中で溺れている、このままでは死んでしまうと気がつかないのです。

救いは、神の側から、私たちの目の前に差し出されているのです。
私たちはただ、それをつかめばいい。
しかし、つかんだら、信仰生活はどうでもいい、というものではありません。
信仰は一人ひとりに問いかけられている厳粛なものであるということも忘れてはなりません。
少し先のヨハネ9:39には、裁くためであるとさえ書かれています。
そこでは主イエスによって目が開かれ、自らを罪赦された罪びとと知るに至った人のことが書かれています。
自分は目が見え、正しい人間であると自負しているユダヤ人が逆に心の目が閉ざされている、自分がわからない、とおっしゃっています。

救いと裁きというのは、そのような関係にあると思います。
主イエスのことを知り、主イエスと共にあること、そのもとに生きることの中にすでに救いがあります。
そこから閉ざされていること、その外に置かれていることが裁きなのです。
神は私たちに「この光のもとに来なさい。ここに救いがある」と呼びかけられているのです。
そしてまさにその中に招き入れるために、主イエスは天から地に降りてきて、道をつけてくださったのです。
「人間の自由・責任」と、「神の導き・選び」という二つの矛盾を人間の理性で解くことはできません。
私たちは、世を愛してくださった神のあわれみによって信じることができると心から告白するだけなのです。
今ここにおられる方々の中に、神の招きから漏れている人は一人もありません。私たちも今、その言葉を自分に与えられた言葉として受け入れ、「永遠の命」を共に生きる者となりましょう。

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