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zoom RSS 唯一信じうるもの ヨハネ3:16 2009/01/18(夕礼拝)

<<   作成日時 : 2009/01/18 21:08   >>

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夕礼拝でもヨハネ3:16からお話をいたします。
石島三郎という昭和日本の有名な牧師がいらっしゃいます。
もう天に還られました日本基督教団の先生です。


この先生が『キリスト教入門』という本を書かれています。
この本に「わたしはキリスト教を信じない。しかしキリストの福音を信じる」とありました。
その意味は宗教としてのキリスト教であれば、文化としての精神現象に過ぎないので、理解するだけでいい。
知識としてのキリスト教を知るには、ミッションスクールで学ぶキリスト教概論で充分だということでしょう。

しかし、聖書が語るのは、神が地べたに生きる私たちに「救いの出来事」を伝えてくれるということであります。
これは、知識として理解するにはあり得ない出来事、よい知らせです。


おめでとうございます。100万円の懸賞に当たりました。
10年位前、私のところにこんなダイレクトメールが届いたことがありました。
この特典を得るためには、会員になるために入会金を払ってください。
最近ではこんな封筒が届けば、すぐに詐欺だとばれてしまいますが、一昔前はこんな手法の詐欺が流行っていたものだと思います。
もしかしたら、本当だったらいいなぁ、
でも普通に考えたのでは、そんなことは絶対にあり得ない。
そんな考え方をするのではないでしょうか。
うまい話には気をつけろ、
よくそう言って注意をされたものです。

一般の人にとって、キリスト教の救いはその程度に思えるのかもしれません。
誰が考えても、奇跡はなんてことは起こらない。
どれほど熱烈な祈りがささげられても。
たとえ極めて稀には起こることがあるにしても、目を見張るような劇的変化は、ほとんど私たちの現実では起こることはありません。
悪いことが重なって第三次になることはあっても、奇跡が重なることなどあり得ない。
神が愛であるならなぜこんな悲劇が、との思うことはあっても、神様に助けられた、と思うことはあまりない。
たまたま、偶然、とそんなことばでくくっておしまいにしてしまうのです。
それほどこの世界にはあまりにもひどいことが起こりすぎるのです。

神さまが偉大で全能ならば、その力が私たちの目に分るように発揮されないのだろう。
誰にでもわかる奇跡という形で起こらないのだろう。
そう思います。

主イエスは奇跡へと誘う悪魔を拒けて言われました。
「あなたは神である主を試してはならない。」
時には、私たちの願いを聞き入れてくれることが有りますが、神はなんでも人間の願望どおりにはならないのです。
願いがかなえられる魔法のランプでも、打ち出の小槌でもないのです。

思えば人間同士でさえ、それぞれが主体をもっている限り、相手が自分の思いどおりになることはないのです。
まして「神のなさる業わざを始めから終わりまで、ひとは見極めることは許されていない。」 (コヘレトの言葉三章11)のですから、私たちの思い通りに奇跡など起こりようがないのです。

人間の力ではどうにもならないとき、人はそれを「運命」と呼びます。
信仰は奇跡の起こらない事態を運命と受けとるのではなく、その背後に人間を超えた大きく深い思いを知らなければなりません。
神の深いみ心を探るということです。


主イエスは徴を求めたファリサイ派に向かって「預言者ヨナのしるしの他には、 しるしは与えられない」とつっぱねられました。
旧約聖書のヨナのしるしとは「十字架と復活」を暗示したものと考えられていました。
奇跡を求めるとすれば、 それは主イエスご自身の中に探るほかありません。
この悲惨と不条理に満ちた運命や現実世界をひっくり返す奇跡を求め手ばかりいてはなりません。
その苛酷な現実こそこの自分に神から与えられた現実であるからです。
そこに秘められた深い意味へと導かれることが「十字架と復活」の救い主イエス・キリストによって私たちにもたらされた唯一の福音なのです。
何ら変わることないかに映る私たちの現実こそ、死をくぐりぬけていのちの世界を信じる人間にとっては全く別の光に照らされるところとなる。
その時、私たちはこの自分に確かに奇跡が起こっていることを知るのではないでしょうか。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、
御子によって、この世が救われるためである」

この箇所は、ニコデモに対して主イエスが語ったという状況をヨハネ福音書は取っています。
しかし、実際にはこのことは主イエスご自身がこの言葉を一字一句述べられたかどうかはわかりません。
というのは、主イエスは、ご自身で神様のことを語られるときには、「父」と呼ぶからです。
だとすると、聖書記者ヨハネが、わざわざ頭でっかちのニコデモにこの御言葉をぶつけたということかもしれません。
ということは、これは私たちにも直接投げられている御言葉であるとして受け取らなければなりません。

「この世」という所に、「あなた」を入れかえて読んでみて下さい。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、あなたを愛して下さった。
それは御子を信じるあなたが滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子をあなたにつかわされたのは、あなたをさばくためではなく、御子によって、あなたが救われるためである」

こうして読みかえてみると、神様の愛が個人的な、あなたに対する愛だということがわかるでしょう。
人類への愛とか、大衆への愛とか、そういったロマンチックな、抽象的な、観念的な、夢のような愛ではなくてごく身近なものだということがわかるでしょう。宇宙よりも偉大な創造主、あなたの生みの親であるお方がわたしたちに自分の愛を知らせようと思って、天国から御子をこの世に遣わされたのです。

フランスの有名な「レ・ミゼラブル」という小説を書いた文豪ヴィクトル・ユゴーはこう言っています。
「人生の最上の幸福は、自分自身のいかんにかかわらず、愛されているという 確信である」

愛されている確信は人を力づけます。
だれかに愛されているというだけで幸せであり、生きる喜びと勇気が湧いて来ますね。
しかし、わたしたちは自分自身を見つめすぎると、しばしば自信がなくなって来ることがあります。
人の愛を何度も確かめたくなります。
愛のしるしを見たくなります。
人の愛は失われやすく、移ろいやすく、人は死ぬことによって愛が失われることを知っているからです。

だから、わたしたちは永遠不滅の神様の愛につつまれていることを知る必要があるのだと思います。
神様の愛の中で永遠に生きる希望と確信が生まれるからです。
イエス様がわたしたちの罪と悪とみじめさと汚れとを全部背負って十字架の上ですべてをゆるし、きよめて下さったことを信じて受け取る人は幸せです。
それは真実な良いニュースです。
これこそ唯一信じうることであることを覚えるべきです。
この確信を持って、天のみ国を目指して生きたいと思います。



愛である神様
「神はそのひとり子を賜わったほどに、私を愛して下さった。
それは御子を信じる私が滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を私につかわされたのは、私をさばくためではなく、御子によって、私が救われるためである」
主はこのように語ってくださいました。ありがとう感謝いたします。好み言葉を胸に刻み、愛されているという喜びを持って歩んでいくことができますように。

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