日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 神の徴U 2009/01/04  ヨハネ2:23-25 

<<   作成日時 : 2009/01/04 12:21   >>

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ヨハネの福音書には、神のしるしが記されています。
「徴」を辞書で引いてみますと、これから起ころうとする物事の前ぶれ。きざし。前兆。とありました。
もう去年のことになりますが、先週学びましたのが最初の徴でした。
今日の箇所、2つめの徴は「数々のしるし」であります。
実は先週学びました箇所と、今週の記事の間に「宮清め」の記事が挟まれています。
しかし、ここにこの「宮清め」の記事が書かれているのは時系列的には正しくないと考えられています。
なぜかと言えば、こんな大それたことをガリラヤ出身の田舎者が神殿でして、その後何年もお咎めなくいられるはずがないからです。
他の福音書に書かれている宮清めの記事は、受難の前最後の1週間の位置に置かれています。
マタイの福音書ではこの宮清めの後、祭司長や長老たちが主イエスの揚げ足を取ってなんとか懲らしめようとしていたことを学びました。
ですから宮清めの徴は受難の前兆ととらえるのが普通です。
ヨハネの福音書では、18節の「ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った
という箇所ゆえにこの箇所に書かれているのです。
もっとも、福音書に聖書に書かれていることはすべてその順番どおりとは限りません。
歴史に従って綴られているところや、使徒の働き、物語的な部分は順序だてて書かれています。
しかし、山上の説教の箇所や、たとえ話の箇所などは、そのころすでに存在していた資料集から福音書記者が書き写したと言うことがすでに理解されています。


ここで聖書記者ヨハネが言うように自分が記したしるし以外にも、世界の書物でも収めきれないほどのしるしを主イエスが行われたことを認めています。
しかし、主イエスが望まれたようなかたちでしるしを受け入れられなかったことが多かったとしています。
今日の箇所はその一例です。
主イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、主イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。
しかし、主イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。

ここを読むとエルサレムにいた人々は主イエスを信じましたが、それはしるしを見たから信じたことが強調されています。
テレビでもよく超マジックなど、通常の常識では理解できないようなマジックを放送することがあります。
私もどうやっているんだろう、と不思議だなぁとかと感心します。
きっと裏がつながっているんだとか、タネがあることをしって見ています。
練習によって自然にできることを知っています。
しかし、それがトランプやコインの不思議ではなく、直接私たちの生活や生涯にかかわることだったらどうでしょう。
今まで開かなかった目が開かれ見えるようになった、
死んでいたはずのラザロが生き返った。
目の前でそのことが起こったら、私たちは目も心も奪われてしまうでしょう。
それが自分自身の悩み、家族の苦しみであったなら、どんなことをしてでもその人に近づき、着物のすそを触るだけでもいいとさえ思うでしょう。

エルサレムでたくさんの徴を見せられた多くの人たちは、主イエスの名を信じました。
しかし主イエスは彼らを信用されませんでした。
この箇所は口語訳聖書で「お任せにならなかった」と訳されます。
また、韓国語の共同訳では「心を与えなかった」、英訳では「信頼しなかった」、「信じなかった」などと訳されています。
つまり、彼らは主イエスを信用したが、主イエスは彼らを信用されなかったということです。

この直後箇所3章で、ニコデモとイエスとの会話の中にそれがどういうことであるかが記されています。
ニコデモはイエスを信用して、「わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。
神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」と言いました。
しかし、主イエスは、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われました。
ニコデモは確かに主イエスを信じました。
後に、ユダヤ人議会で主イエスを弁護するような発言をしています。
主イエスが死なれた後、アリマタヤのヨセフといっしょに墓に主イエスを葬られたという記事もあります。
しかし、それは公にではなく、隠れて信じていたのでした。
ヨハネ12章42節には、こう書かれています。
「議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。」
反対や迫害が予想されると、後退りするような信仰だったのです。
遠巻きに批判しているのかもしれません。

ご自身をお任せにならなかった例として、3章のニコデモの記事。
この人のうちにあるものを知っておられることについては、4章に出てくるサマリアの女の記事があります。
サマリアの女は自分の今までの生活をイエスに指摘されて、ついにはこの方がキリストであることを知りました。
したがって、今朝の23節から 25節までの部分は、3章と4章につながっていきます。
3章と4章は、御名を信じてもご自分をお任せにならなかった一例と、人のうちにあるものをすべて知ったおられることの一例がそれぞれ記されているのです。

さて、もし私たちにいざというときに、退いてしまうような友人がいたらどうでしょうか。
その人にはいろいろなことを任せることはできないと思うでしょう。
同じように、主イエスは、彼らにご自身を任せることはおできにならなかったのです。
しかし、なぜ人は逆境になると後退りしてしまうのでしょうか。
それは主イエスご自身を神の子キリストとして信じるよりも、徴という現象に魅了されて信じてしまったからです。
私たちの信じ方にも、そのようなものがあります。
まず知的に信じようとする人がいます。
主イエスの言われたことを聞くと、まず疑いが自分の思いをよぎるのです。
もちろん、だからと言って、丸呑みして信じなければいけないということではありません。
むしろ聖書は、よく考えて頭を使って信じることを薦めています。
けれども、もしある人を信頼し、敬っているのであれば、たとえそのことばが多少理解できなくても、素直に信じるものです。
ですから、理屈というしるしを求めている人は、主イエスとの信頼関係が薄いのかもしれません。

また同じように、感情的に信じようとする人がいます。
とてもよい気分の時には、自分は主から祝福されていると思います。
しかし、調子が悪いと主が自分に何か悪いことをされていると思ってしまうのです。
多かれ少なかれ、私たちはそのような傾向があります。
状況が悪くなったから信頼できなくなってしまうような人に、主イエスはご自身をお任せになることはできなかったのです。


ですから、大事なのは、主イエスに対する全面的な信頼です。
信仰とは飛び込むことだと言われますと先日申し上げました。
弟子たちにそれができたのは、先ほどあったとおり、聖書と主イエスの言われたことばを信じたからでした。
そこに揺るがない信頼が寄せられているので、試練にあっても、迫害にあっても後退りすることがなかったのです。

だから、私たちは多くのしるしを生活の中で求めます。
主イエスが生きて働かれていることを状況の中で見たいのです。
けれども、そればかりを見ると、状況に振り回されてしまいます。


なぜなら、主イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。
主の奇跡を目撃したり、体験したりした人々の多くは主イエスを信じました。
しかし、しるしを見て信じた人々に、主イエスはご自分をお任せにはならなかったのです。
私たちなら、しるしを体験した人が、主イエスを信じるのを見たら、諸手をあげて喜ぶでしょう。
しかし、主イエスはそうではありませんでした。
しるしによる感動は一時的であり、瞬間的にわいた感情はいつか冷めてしまうのを、主イエスは充分知っておられたからです。
しるしだけを追い求める人は、艱難が立ちはだかると途端につまずき、信仰から離れていってしまう事を誰よりもご存知であった事でしょう。

主イエスがしるしを行われる時、ただ、黙ってなされたのではありません。
必ず御言葉をもってなされました。
聖書にその言葉が明確に記されている箇所と、そうでない箇所があるだけです。
その語られた御言葉を疑わずに信じた人々に、癒しの御わざが起った事を私たちは覚えなければなりません。
まさに、何よりも力強く、直接的に働かれる「しるし」は、主イエスの口から語られる、一つ一つの御言葉です。
「エッファタ(開け)」という言葉によって、もつれる舌が治りました。
主イエスの「ラザロよ、出て来なさい」という御言葉によって、ラザロは生き返らされたのです。
ところが、人々は発せられた主イエスのお言葉ではなく、生き返らされたラザロだけを見て驚きました。
「イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教えにひどく驚いた。それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。(マタイ7章28〜29節)」

力がある主イエスの御言葉に驚嘆しながらも、御言葉の世界を悟る事が出来ませんでした。
主イエスの御言葉こそが、しるしの中のしるし、最も大いなる奇跡です。
しかし世の多くの人々は、表れたしるしだけを見て容易に信じてしまいます。
しるしだけを見たのでは、神様から来たものか、闇の力によるものなのかを、どうやって見極める事が出来るでしょう。
実際、主イエスの行われたしるしを見て信じた人々は、すべて主イエスから離れて行ってしまいました。
一方、主イエスの復活後、聖霊による御言葉を受けたペテロや他の弟子たちは、死をも恐れない福音の証人となりました。
では、私たちはどうでしょうか。
イエス・キリストを信じなかった時には、御言葉は、聖書は紙に印字された文字でしかありませんでした。
しかし、聖書に記されている一つ一つの言葉を信じる時、私たちの心の扉が開かれるのです。
それは聖霊の御わざによって、御言葉が生きた神様の力であることを知ったからです。
神様は私たちが御言葉に満たされる事を願っておられます。
御言葉に満たされた私たちが遣わされる所々で神様の御わざが起ります。
その御わざによって茨やあざみが燃やされ、頑な心の畑が耕されて、良い地へと変えられます。
神様の御言葉に心を開く時、心に平安が与えられます。
また、すべての問題も御言葉によって解決されるのです(詩篇107篇20節)。

洗礼者ヨハネは、多くの弟子をもった当時の一大勢力でした。
しかし洗礼者ヨハネは特別な奇跡を行いませんでした。
主イエスを指し示し証する言葉こそが、真のしるしだからです。
今日、イエス・キリストを宣べ伝える教会も、御言葉を大胆に伝えるべきです。真理の御言葉、十字架の福音を伝える事こそ、教会の果たすべき使命です。
教会は生きた御言葉が働く所、奇跡の御わざが起る場所です。


信仰とは一方的なものではありません。
「主イエスと私の関係」でなければなりません。
たとえれば私たちと神様の関係とは、真の親子の関係です。
神様がこの世界を創られた時、御言葉をもってすべてをお創りになられました。御言葉が私たちを生んだ親であると聖書ははっきりと語っています。
子である私たちが信仰の実を豊かに結ぶ事によって、父なる神様が栄光を受ける事が出来るのです。

また、私と主イエスの関係は「信仰の関係」でもあります。
その関係は「献身」と「奉仕」とによって培われます。
「献身」は、なにも牧師になることだけが献身ではありません。
まず、主イエスを信じる事が「献身」です。
主イエスを信じるとは、主イエスが語られる御言葉を信じる事です。
語る言葉を聞かずに、一体どうしたら、 その人を信じる事が出来るでしょう。
すなわち、神様の御言葉が語られる時、慕う心を持って、御言葉に耳を傾ける事こそ、献身であり、奉仕なのです。
マルタは主イエスをもてなす事に心を注ぐあまり、主イエスの語られる御言葉に 耳を傾ける事が出来ませんでした。
しかし、何よりも御言葉を慕い求めたマリアを主イエスは認められたのではないでしょうか。

最後に、私と主イエスの関係は「友の関係」です。
主イエスは、「人がその友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と語られた通り、私たちの為に命を捨ててくださいました。
では、私たちは何をして、主イエスとの友の関係を持つ事が出来るでしょうか。
15章で主イエスはこのように言われました、「あなたがたにわたしが命じることを行うならば私の友である」と。
親子の関係も信仰の関係も友の関係も、神様の愛によって私たちにもたらされたものです。
神様の最大の愛は、十字架を通して私たちに示されました。
この十字架こそ、最も大いなる「しるし」です。
救いを受けた私たちにとって、十字架こそ、神様の力、救いの力です。
この十字架の御言葉を慕い求め、悟るなら、私たちと主イエスとの関係は、いつまでも「ぶどうの木と豊かに実を結ぶ枝」になることでしょう。
神につながっていることができるのです。

ヨハネ20章31節聖書記者ヨハネが「ヨハネによる福音」を記録した理由について、このように述べています。
「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」。
それは、私たちを初めに創られた神様のかたちへと回復させ、命を得、御国の民とならせるためです。
御言葉が私の信仰、御言葉が私の生活となるよう、日々、御言葉のしるしを体験しつつ、御国を目指して歩みましょう。
そして、主イエスが安心して「任せられる」とおっしゃってくださる私たちとなることができますように。

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