日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS キリストを指し示す 2008/12/14 ヨハネ1:8-28

<<   作成日時 : 2008/12/14 12:39   >>

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待降節も第三週に入りました。
今日は喜びの主日と呼ばれ、世の救い主がまもなく、この地上に来て下さる、その喜びを表す日です。

先日、人が見た文字や図形を脳から読み取り、画像化する技術が開発されたというニュースを見ました。
現段階ではまだ簡単な丸とかバツとかアルファベット程度だそうです。
人間が見て頭の中でイメージしたものをコンピュータで解析して映し出すのだそうです。
今後精度を上げれば見ている夢や、記憶のそこに眠っている映像を映し出すことも可能かもしれないと言っていました。
これは、病気や障害で言葉を発音することのできない方には有効だと思いました。
しかし、逆に悪用されると大変なことになるなぁと思いました。
心の中に秘めていることがすべてあらわされてしまうと言うことは、ある意味大変なことです。
国家によって国民の意識を画一化されることに利用されることを考えたら、恐怖以外の何ものでもありません。
私の子供のころ、似たようなもので、うそ発見器というのがはやりました。
こちらは手からの汗の量による電流によって判断するものです。
個人の発汗量の差や、まだ正確性に欠けるところがあり、それを知った上で、半分は遊び、ゲームのような要素を含んでいました。

それほど心の中は、自分自身でもよくわからない未知の世界だとも言えます。
心に悪魔が入ってきたといって少女に暴行を加えたペルー人の裁判が地裁に差し戻されたニュースをしていました。
心の中というのは、本人だけのもので誰にもわかりません。
しかし、それはうそは突き通せる、ということではありませんし、だからと言って逆手に取ることもいけないことです。

信仰も心に秘められたものです。
黙っていれば、うわべだけでは、その頭の中身まではほかの人に知られることはありません。
自らがあらわそうとしなくても、顔に出てしまうと言うことはあるかもしれませんが、自らが口を開いて、あるいは行動で示さなければ他者に理解してもらうことができません。


さて、今週は洗礼者ヨハネの箇所から学んでまいります。
あらかじめお断りしておきます。
バプテスマのヨハネと福音書を書いたヨハネは同じヨハネですが、別の人物です。
まず、生きていた時代が違います。
ややこしい話になりますので、今日の説教ではバプテスマのヨハネをヨハネ、福音書を書いたヨハネを福音書記者ヨハネと呼びます。
聖書記者ヨハネは、ヨハネの弟子であったと考えられています。


ヨハネは救い主を待ち望んでいた旧約時代の人々の代表、あるいはその最後の人だと言えます。
福音書が書かれるころまで、ヨハネは主イエス以上に有名で大きな勢力でした。
だからこそ、福音書はこのヨハネと主イエスの関係を冒頭で語っているのです。
その関係を無視できなかったからです。
そのような中でヨハネ福音書は他の福音書と違ってこのヨハネ自身の生活や活動についてまったく伝えていません。
主イエスがこのヨハネから洗礼を受けたという出来事さえ記されていません。

ヨハネ福音書はこのヨハネを主イエスの洗礼者、バプテスマのヨハネではなく、神から遣わされた者、宣言者ヨハネとして扱っています。
自分の役割を謙遜しつつ生きるヨハネを十分理解していました。
だからこそ、このような描き方をしたのだと思います。
当時の有力者が強いた厳しい質問に対して、ヨハネは簡潔に答えます。
あくまで、自分は主の前ではなく、後ろに位置するのだと。
自分はメシアでもメシアの代わりでもないと。


まもなく救い主が訪れる。
このヨハネが、この喜びを表しました。
ということが、証しする、証明する、ということです。
ということで「証しする」という言葉について少し学びたいと思います。
この言葉は日本語では「証言する、証人となる」と訳したほうが具体的なイメージが湧くかもしれません。
マルテュクレオーというのが、この証しする、言い表す、という言葉です。
新約聖書では76回用いられていますが、その内の半分以上がヨハネ福音書とヨハネの手紙で用いられています。

このことばは、単に言葉で自分の意見を述べる、ということではありません。
たとえばある事件の証人とはその出来事を確かに見たり経験したりした人を意味します。

神学生として東京にいたころ、交通事故の現場を目撃したことがあります。
押しボタンの信号待ちをしていたところ、どかんという音がして目を上げたら、おじさんの体が跳んでいるのが見えました。
対向車線を走ってきた車が、自転車に乗っていたおじさんをはねたようです。
私は信号から2台目にいましたが、そのありようがしっかり見えました。
すぐに介抱しようと思いましたが、信号待ちしているので、その場に車を停めていくことができません。
すると運転者の女性がおじさんに駆け寄ったのが見えました。
私は信号を通り過ぎて、車を停めやすい場所に停まって110番通報をしました。
その後、世田谷警察署に出向き事情聴取を受けました。
さらに半年位してから、検察庁から信号の色がどうだったかということで簡易裁判で証言してほしいという要請がありました。
一方的にいついつどこの裁判所に来てほしい、というのです。
今後裁判員制度が始まるというのも話題ですが、ビジネスマン時代だったらこんなにめんどくさいなら関りたくない、と思ってしまったかもしれません。
そのときにはもう大阪に行っていましたので、今度はいつ東京に来るのか?と訊かれました。
実際には証言することはありませんでしたが、電話口でこう証言しました。
私は間違いなく信号待ちをしていました。
なぜなら、すぐに駆け寄りたいと思いながらもいけなかったのは、目の前の信号が赤だったからです。
接触直後からの一部始終が見え、運転者がおじさんに駆け寄るのが見えたので、
事故発生後1分もたたないうちに通報しました。
携帯電話の通話履歴からそれは、何月何日の何時何分です。
何度質問されても私はこの証言は一切変えません。
と答えました。

このように自分が「見たこと、経験したことを語る」のが「証言する」ということです。
ヨハネの第一の手紙の1章1-2を見てみますと、
1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――
1:2 このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――

はじめに、いったい何を証しするのかというと、主イエスにまつわる出来事を証しするのではありません。
主イエスの本質をも証しするのです。
ヨハネは天の神さまから「後から来られる方」を示されました。
だからこそ、その方について堂々と臆することなく証言したのです。

つぎに、どのように証言したのでしょうか。
私たちがそれを知るためには、まず主イエスが誰であるかをしっかり捉えなければなりません。
主は世を救うために神さまから遣わされた《メシア=救い主》です。
主イエスは神の独り子です。
神の子ですから、この世を救うことができます。
私たち人間がどんな能力に長けていても、また力を持っていても《救い主》になることはできません。
圧倒的な力を持っておられる主イエスを証しするのです。
そして、「証しする」のは単に言葉によってなされるだけではないはずです。
もちろん、「わたしはこのような体験の中でイエスを知った、イエスの愛を感じた」というような言葉には力があります。
しかし、もっとも力強いのは、イエスと出会って自分自身が変えられた(救われた)、ということが私の生き方の中に表れるときだと思います。

「証しをする」と言うことを調べておりましたら面白い発見をしました。
「殉教者」という言葉の原語は、もともと「証しする人」の意味でした。
聖書の中の殉教者としては、有名なステパノ同様に、この洗礼者ヨハネも壮絶な殉教の死を遂げたと描かれています。
殉教者とは、言葉よりもその生涯と死を通してキリストを証しした人だからです。

ヨハネや主イエスが伝道していた頃には、まもなく《救い主》が現れるという期待が非常に高まりました。
それも間近に迫っていると信じられていました。
そのようなときに光について証しするようにヨハネが神から遣わされたのです。
当時、荒れ野には世の終わりが近いことを信じながら隠遁生活をするグループが住んでいたのです。
ヨハネもその集団に属していました。
そしていつしか、グループの人だけでなく一般市民もヨハネの優れた指導性を知り、ヨハネこそ待ちに待った《救い主》だと大きな期待を寄せました。
しかし、ヨハネは《公言して隠さず、わたしはメシアではない》と断言しました。人々が更にヨハネに色々聞くので、彼は自分は《主の道をまっすぐにせよ》との預言を成就するために来た、ただの人だと弁明しました。
《主の道をまっすぐにせよ》とは、《救い主》が来るから道路を整備する、という意味ではありません。
人々が誤ったメシア観を持っているので、それを正しなさいという意味です。
洗礼者ヨハネを《救い主》だという人々がいるくらいですから、ヨハネの言葉には力があり、人々をひきつけました。

現在でも偽物を本物の《救い主》という人たちがいます。カルト集団です。
カルトの教祖は自分が主イエスの再臨であるかのように宣言します。
そしてこの世の終わりが近づいたことを声高らかに叫び、自分が救い主であるかのように吹聴します。
それだけではありません。
そういう人たちは世の終わりが近いのだから金銀を持っていても役に立たないからといって、集団のために捧げるように強要します。
彼らを信じることは間違った道であり、正しいまっすぐな道ではありません。

先ほどもすこし触れましたが、他の福音書における洗礼者ヨハネの役割は悔い改めのバプテスマを呼びかけ、来るべきキリストの準備をする人です。
ですからそこに使われている動詞は「準備をする」や「洗礼を施す」でした。
しかし、ヨハネ福音書は、イエスがキリストであるという証をした人として描かれています。
洗礼者ヨハネの運動は当時のユダヤ教の中でも、大きな勢力となっていました。
その救世主を知らせるために、その前ぶれとしてやってきたことを強調します。

ヨハネは「光について証しをするため」(1・7,8)に来ました。
そして「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」(1・9)と言われます。
「闇の中に光が輝く」ということは、待降節〜降誕節全体を貫くテーマです。
待降節と降誕節は「苦しみの季節」と「喜びの季節」と言った別々のテーマではありません。
この一つのテーマが別の面から取り上げられていると考えたらよいのではないでしょうか。
待降節は「わたしたちの救われていない部分、闇に覆われている部分、救いを必要としている部分」から救い主を見つめていきます。
これは誰の中にもある面でしょう。
そして、降誕節は「その闇の中にもうすでに輝いている、小さな、しかし確かな光」である幼子イエスを見つめるのです。
これもわたしたちがどこかで経験していることではないでしょうか。
そして、この経験が私達の喜びとつながっています。

キリスト教は、難しい神学によって受け継がれたのではありません。
言葉と生き方によるこの「証し」によって受け継がれてきた、と言っても過言ではありません。
では、わたしたちにとって主イエスを証しするとはどういうことでしょうか?
私たちは常に誰かから「あなたは誰か」と問われています。

そしてこの福音書では、ヨハネははっきりと「わたしはメシアではない」と公言しています。
「わたしは・・・声である」と宣言します。
他の福音書も「荒れ野に叫ぶ者の声」というイザヤ40・3を引用してヨハネの登場の意味を語ります。
しかしヨハネ自身が「その声」であると明言するのはヨハネ福音書だけです。
ヨハネ福音書にとって、洗礼者ヨハネはあくまでも「イエスを指し示す人」であるのです。
今週の箇所においても主イエスは「後から来られる方」として予告されているだけで、直接は登場していません。
しかし、当然のことながら本当のテーマは「主イエスご自身」です。
待降節の福音の箇所は、洗礼者ヨハネを見つめるためではなく、ヨハネが指し示した、来るべきイエスに心を向けるために備えられています。

私たちは主イエスの誕生からは2,000年近く後の時代にこの世に来ました。
しかし、私たちはこのヨハネのようにキリストイエスの備えのための先駆者なければなりません。
イエス・キリスト以外《救い主》はいません。
そして、その唯一の救い主を受け入れることによって、自分自身が変えられたということを身をもって表すためです。
本来はキリストにあって天に国籍を持つ者が、このことを証しするためにこの世に遣わされているという事を語るべきです。
証をするもの、キリストを指し示すものとして生きなければなりません。

主は、私たちに、全世界に福音をのべ伝えよ、とお命じになられました。
そして何よりも、主ご自身が「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と宣べ伝えられたことによります。
ヨハネ13:20には、
わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」とあります。

だからこそ、主ご自身が、自らの言葉と行いとで信仰を表し、福音を伝えるようにと教えてくださっています。
いよいよクリスマスを迎えます。
クリスマスこそ私たちが証をするいいチャンスです。
私たちもインマヌエルの主とともに、主イエスを指し示すものとして喜びのうちに世に遣わされていきましょう。

礼拝中体調を崩しまして、ご心配をおかけいたしました。

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