日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 恐れと疑いから信頼へ マタイ14:22-33 2008/8/31

  作成日時 : 2008/08/31 08:19   >>

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皆さんは、湖の上を歩いたことがありますでしょうか?
最近、このように質問から説教を始めているようであります。

私は、子供の頃、湖ではありませんでしたが、沼の上を歩いたことがあります。
あまり自分自身ことばかり話していると、
説教壇から、自分自身ことや自慢話を楽しそうに語るのはやめなさい。
と今日も妻に叱られてしまいまいそうですが、

正確に言えば、私は沼の上を滑ったことがあります。
そうです、スケートです。
今ではどうかわかりませんが日光の中禅寺湖の近くの沼が冬の間だけスケート場になりました。
北海道ではスケート靴で学校に通うところもあると聞いたことがあります。
萬兄弟はそのような経験がおありかもしれません。
今日もすこしは、涼しくなりましたでしょうか…。

昔は氷が張ってスケートができた湖や沼も温暖化の影響で最近は氷すら張らなくなったと聞いています。
この話を聞いた後の方が、背筋が寒くなる思いがしたかもしれません。
先週はお休みをいただきましたので、この部分はお盆明けに準備を始めました。
季節が変わって、もうすっかり涼しくなってしまいました。

さて、今日の聖書箇所の前には、5つのパンと2匹の魚の記事が記されています。
それらは主の手に渡され感謝され、祝福され、裂かれ、何千もの群衆を満たしました。という奇跡の物語です。
奇跡の物語、というと作り話のようなイメージを持ってしまいますが、これは実際に起こった出来事です。
今日の聖書の箇所はその続きの場面です。
嵐の湖の中で弟子達、特にペトロを救った話です。

22節に「それからすぐ、」と書かれています。
旧約聖書には信仰者が水の中から助けられるという話は少なくありません。
出エジプト記やヨナ書、マタイの8章にも同じような記事があります。

主イエスは群衆も解散させました。
されに弟子たちを「強いて舟に乗せ」と書かれています。
つまり無理やり舟に乗せました。
給食の前、弟子達は、「群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」とお願いしました。
それに対して、主イエスは「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」とお命じになりました。
しかし、食事をし、みなが満腹になったら、今度は家に帰らせるのです。
「もっと一緒にイエス様といたい」という人も沢山いたのではないかと思います。
奇跡を目の当たりにして、群衆は、弟子達は興奮していたことでしょう。
できれば、この場所に留まって、同じ奇跡をもう一度見たい、と思ったかもしれません。
しかし主イエスは、「私もお供します」と興奮する群衆に対しても、無理に家に帰らせたのです。
弟子達さえも、無理やりに舟に乗せて「先に行っていなさい」とお命じになるのです。
弟子たちにとって主イエスを抜きに舟で向こう岸へ行くということには、なにか拍子抜けがしたかもしれません。
常に先頭にいて群れを導く羊飼いが、先に行っていなさい、とおっしゃるのは矛盾しています。
結局人々はおなかが一杯になって満ち足りて、主の言葉に従い家に帰りました。
弟子たちもその主の言葉に従いました。

私が遣わされていた阿倍野教会では、毎週美味しい昼食をともにしていました。
何人もの姉妹が、早くから教会に来て食事準備のご奉仕をされます。
毎週ですからご苦労があったと思います。
中にはご主人の昼食の準備もして出て来られるかたも居られます。
日曜日の朝食、ご主人の昼食、そして教会の昼食。
日曜日の午前中は休まるどころかご飯の支度ばかりしておられると思います。
私も子供たちの夏休み期間中、ご飯の準備ばかりしていたような気がします。
今日で夏休みも終わります。
明日は始業式で早く帰ってきますが、給食があるのは恵みです。

冗談はさておき、御言葉を聞いて、食事をして満ち足りてかえっていく。
この事は、昔も今も同じであります。
違うのは語り手が違う…。
これは、しかたありません。
先日、加藤常明先生の講演で学んでまいりました。


今までにも何度か加藤先生の研修会には参加したことがあります。
例話の中には何度か聞いたことのあるものも含まれていました。
でもそれは、それだけ大切なメッセージ、語らなければならないことであったのだろうと思います。
説教者は、自らの説教を磨かなくてはいけない、それは説教者なら誰もが思うことです。
以前の講演の最後に、次の日曜日からみなさんの説教が変わっていなければなりません、とおっしゃいました。
うちの牧師の説教を聞きにいらっしゃい、と信徒に言わしめる説教をしなければならない、とおっしゃいました。
とても厳しい教えであります。
前回の礼拝から、録音用のマイクを購入し、説教を録音するようにしました。
千葉教会の森先生の車に乗ると、森先生の説教がBGMだと聞いたことがあります。
私の場合は電車に乗る時に、自分の説教を聞くようにしていました。

さて、ここで、群衆を解散させ、弟子たちを強いて舟に乗せてまで、イエスさまがしなければならなかったこととはいったい何でしょうか?
それが、「祈るためにひとり山にお登りになった」、ということです。
ひとりになって祈るためでした。
天の父なる神様に向かって、祈るためでした!
実際に弟子たちは、これまでも主イエスが祈っている姿を何度も見てきました。
朝起きて、主イエスは祈っておられたし、夜眠る時にも食事の前にも祈っていました。
人と会い弟子たちに話をする前にも、大切な神の業の前後にも、主イエスは祈っていたでしょう。
うれしそうにニコニコして祈っているときもあったでしょうし、苦しそうに顔をゆがめて祈っているときもあったと思います。
穏やかに、とても安らかに祈っているときもあり、必死に激しく、格闘するようにしがみつくように祈っているときもあった。
弟子たちは、その姿をいつも見ていたのであります。

主イエスがこの時、具体的にどのようなことを祈っておられたかを聖書は語りません。
しかし、主がここで一人になられて祈りの時を持たれたという事はとても重要です。
夕方まで一人でおられた。と書かれています。
神様と向き合うために主は、人里はなれたこの地に一人残り祈られたのです。

人生は、航海とたとえられることがあります。
始めは弟子達を乗せた船は順調に沖へと漕ぎ出されました。
弟子達の中には船で魚を採っているものもありましたから、いわばプロでした。
しかし、長年の経験にも関わらず、向かい風と大波でなかなか前に進むことができませんでした。
前に進めないだけでなく、元の場所に戻ることも困難な状況にあったのでしょう。
私たちもよくこのようなことがあります。
行くも地獄、引くも地獄、
舟をこぎ出すように命じたのは間違いなく主イエスでした。
しかしその舟にはイエスさまは乗っていません。
群集と同じように陸地を歩いていれば、このような目には遭わなかったはずです。
私たちの前に目に、見える形でイエスさまがいらっしゃるのではありません。
そして、この時弟子たちの乗った舟が逆風に悩まされたように、教会もまた、逆風に悩まされることがあります。
荒波にもまれることがあります。
逆風のゆえに、前に進めなくなってしまうことがあります。
そして私たちひとりひとりもまた、逆風に悩まされることがあるのです。
その時、このように思います。
「神の導きで主イエスを信じるようになったのではなかったか?‥‥しかしいま逆風に悩まされ、波が逆巻き、沈没してしまいそうになる。」
「本当にこのままでいいのか。」
人は「試練」と呼びます。
最初はまさに順風満帆、順調だったのに、あとになってどうにもこうにも二進も三進も行かなくなる。
行くこともできず、戻ることもできない。
そのような場面がたびたび訪れます。

弟子達も疲れてきた頃でしょうか、夜中というよりは翌日の夜明け前です。
主は湖の上を歩いて弟子達のところに行きました。
それを見て弟子達は、おびえて「幽霊だ」と叫び声を上げました。
皆が見ているのは、昨日の夕方、たった5つのパンで群集を満たす奇跡を行なった主イエスです。
弟子達は、そんな主イエスであっても湖の上を歩くことなどできない。と思ったのでしょうか。
しかも、救い主に向かって「幽霊」はないだろう、と思います。
私はこの箇所を読んで不思議に思いました。
なぜ弟子達は、主イエスが乗るための船を準備しなかったのでしょう。
主の言いつけを守って自分たちだけで先に向こう岸に渡り、主はどうやって弟子たちに追いつけるのでしょう。
誰か地元の漁師にでも乗せてきてもらうことになっていたのでしょうか。

主は大波、大風の中を、まるで陸地を歩いているかのように普通に湖の上を歩いてきたのだと思います。
自分たちの船は、自分たちでコントロールできない状態にありました。
そんな弟子たちに向かってまっすぐに向かってくる主に対して出た言葉が「あれは幽霊だ」でありました。

私たちは今まで、見たことも聞いたこともない物、現象を目の当たりにしたとき、自分の今までの経験のなかでしか、物事を見ることができません。
こんな波風の中を、まっすぐ歩いてこられるのは、「幽霊」にちがいない。
弟子達の常識の中ではそう考えるほかなかったのだろうと思います。

今では、通電すると硬くなる水や、水の上でもすいすい歩ける靴なども開発されているそうですから、
科学的に水の上を歩くことは、条件さえ整えば神にしかできないということではないのかもしれません。
映画ダヴィンチコードの最後、主イエスの子孫だという女性が、「水の上を歩けるかどうか試してみるわ。」というせりふが出てきます。

また、横道にそれてしまいましたが、大切なのは
誰も助けに来てくれないところにも主は来てくださるのです。
逆に言えば、嵐さえも、主イエスが近づくのを止めることはできないのです。
そして弟子たちに声をかけられました。
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」

この物語の中で大切にしたいのは「恐れと疑いから信頼へ」というイメージです。「信じる」はギリシア語で「ピステウオーpisteuo」、名詞の形は「ピスティスpistis」です。
「ピスティス」は普通「信仰」と訳されますが、「信頼」と訳すこともできます。私たちは「信仰」と言うと「神の存在を信じる」ことだと考えがちです。
しかし聖書の中では、「神が存在するか否か」ではありません。
問題は「神に信頼を置くかどうか」です。
「疑い」とは神に信頼しないこと。
神に信頼せず、自分の力だけで危険に立ち向おうとする時「恐れ」に陥るのです。
イエスは恐怖のどん底にいる弟子に向かって「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と呼びかけるのです。
「わたしだ」と訳されたことばは日本語訳だけ見ていると、「幽霊などではなく、わたしである」と言っているだけのように聞こえるかもしれません。
この「わたしだ」の原本は、ギリシア語では「エゴー・エイミego eimi」です。
長いこと教会生活をしていると何度か耳にしたことのある言葉だと思います。
我侭な人をエゴイスト、と呼び、「それはあなたのエゴだ。」などというエゴです。
英語で言えば「I am」という言い方です。
この「エゴー・エイミ」は「わたしがいる」とも訳すことができます。
つまり、「わたしはあなたとともにいる」という意味です。
「安心しなさい。わたしがいる。恐れることはない」主イエスは今もさまざまな恐れに囚われているわたしたち一人一人にそう呼びかけているのではないでしょうか。

「恐れる事はない」は、「私は幽霊ではないから恐れるな。」という意味ではありません。
「もう、何も恐れる事はない。」とおっしゃっておられるのです。
「わたしが来たからもう大丈夫だ」とおっしゃるのです。
荒波の海の上に立つ主イエスがそうおっしゃるのです。
この世の中の誰をしても、このような権威ある言葉を語ることはできません。

この言葉を聞いて、ペトロはその言葉に居ても立ってもいられなくなりました。
ペトロすぐにでも飛んで行きたいと思いましたが、彼にはそのような能力はありませんでした。
ペトロは漁師でしたから、泳ぎは堪能であったろうと思います。
ペトロは主イエスに「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」とお願いしました。
主はそれに答えて「来なさい」とおっしゃいました。
すると、ペトロはなぜか湖の上を歩くことができました。
ペトロ自身もそのようにできるとそのときは思ったのでしょう。
もちろんこの時ペトロが超能力でも持った、というのではありません。
ペトロが海の上を歩くことができたのは、主イエスが「来なさい」と言われたからです。
その主イエスの権威で、海の上を歩くことができたのです。
主が「来なさい」とお命じにならないのに行ったとしたら、おぼれるだけだったでしょう。

しかし所詮ペトロも私たちと全く同じ弱い人間でした。
強い風に気がついて恐ろしくなり、沈みかけたと聖書は記しています。

私は大学生のときにバイクの免許を取りました。
実は家内のほうが先に免許を取り、に乗っていました。
ある先輩が私に実体験を元にこう教えてくれました。
カーブでコケそうになったときに、倒れる方向を見てはダメだ。と言うのです。
不思議なもので、人間コケそうなときにはそちらを見てしまうのだそうです。
こけるかも知れない、と思う時こそカーブの出口を見ていないといけないと教えてくれました。
その先輩はそれまでに何度もバイクで転倒事故を起こしていました。
しかし、そのことに気付いてからはこけなくなったといっていました。
私はその教えを信じていましたから、カーブでこけたことはありません。
本当にこける方向を見るとカーブでこけるのかどうかはわかりませんが、きっとそうなのでしょう。

もしかしたらダメかもしれない。
倒れてしまうかもしれない。
できないかもしれない。
そう思うとき、私たちは視線とともに気持ちもそちらに向かってしまうものです。
ペトロが吹き荒れる風に目を向けるのではなく、最後まで主を見続けて歩いていくことができたなら、沈んでおぼれかけることはなかったでしょう。

ペトロは「主よ・助けてください」と叫びました。
気付くと主はすぐ近くに居られ、すぐに手を伸ばして、捕まえてくださいました。
そしていわれました。「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか』」。
主イエスは、「信仰の薄い者よ。そんな疑り深いおまえなんか海の中に沈んでしまえ」、とはおっしゃいませんでした。
「信仰の薄い者よ。だからあなたには私が必要なのだ」とおっしゃったように聞こえます。

どんなに危機的な状況においても主がすぐ側にいて、助けてくださる。ということにペトロは気が付きました。
二人が船に乗り込むと嵐は収まりました。
弟子達は主を拝んで「確かにあなたは神の子です。」と宣言します。

主イエスを信じる者は神の力と命にあずかることができます。
すべての災いを越えて絶望しないで生きることができるのです。

主はわざわざ弟子たちを湖の中に連れ出し、この業を示されました。
私たちも残念ながら、信仰の薄い者ではないでしょうか。私もそうです。
主が「語れ」と示されたから説教者になりました。
しかし、下ばかり、足元ばかり見てしまう、こんな私でいいのか、
信じようと思っているんです。しかし100%の信頼を寄せられない。
結局のところこの世の荒波におびえ、沈んでしまうのではないか、と恐れてしまうのです。
こんな自信のない者の説教で、羊を養うことができるのか。
しかしそんな私たちを主イエスは、必ず手を伸ばして捕まえてくださいます。
ですから、私たちも主イエスに向かって、「本当にあなたは神の子です」と言わざるを得ません。
湖の中、荒れ狂う風と波の中で誰も助けてもらえないような状況の中においても。
どこにたどり着くのかわからない、あるいは沈むことなく無事でいることなどありえない状況の中においても。
主をまっすぐに見て、疑わず主により頼むのなら、主は必ずすぐ側にいて助けてくださるのです。
あなたの側で「信仰の薄いものよ」と手を差し伸べてくださるのです。
今週も主をしっかり見つめ、主に信頼してまいりたいと思います。


恵み深き神よ
私たちは、主が「しっかしりなさい。わたしはここにいる。」とおっしゃいながら、私たちのすぐそばにいてくださいます。ありがとうございます。しかし私たちは自分に向かってくる風や波にも、心を乱されてしまう小さく信仰の薄いものです。主よ、困難に目を向けるのではなく、常に神を見上げてまっすぐに歩んでいくことができますように。私の心が砕かれ、あなたに信頼し「主よ助けてください。」と全てをゆだねることができますように。
あなたにあって平安の生涯を歩んでいくことができますように。

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恐れと疑いから信頼へ マタイ14:22-33 2008/8/31 日本ナザレン教団 成田キリスト教会/BIGLOBEウェブリブログ
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