日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 救いはキリストにある マタイ21:33−44 2008/10/19

<<   作成日時 : 2008/10/19 10:01   >>

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今朝の礼拝は、召天者記念礼拝です。
先にこの地上での生涯を終え、天の父なる神様の御許に召された方々を覚えまして、礼拝をささげております。
この教会の信仰の先輩の名簿をおつくりすべきとも思いましたが、この教会でと四女が大阪で行っていた幼稚園の教会は、毎月第一日曜日が召天者記念礼拝だそうです。
1年に一度にしてしまうと集まりきらなくなってしまうのだそうです。
すでに天に召された方々の写真を飾ることになっておりました。
毎月消化していかないと、毎週礼拝に来られている人達の人数より多くなってしまいました。
写真の数は増える一方で、減ることはありません。
そこで当たり前のことに気が付きました。
教会という所は、目に見える人達の交わりよりも、すでに天に召された方々の方が多いということです。
考えてみれば、この成田の地にこうして教会が立っているのは、私たちが生まれと時にはすでに天に帰られていた、まだお会いしたことにない多くの信仰の先輩たちの祈りと願いによるものでありました。

全国のナザレンの群れ、全世界のナザレンの群れ、信仰の継承によってつながれる多くの信仰者の祈りです。
また、教派を超えて宣教師、その地における信仰の先輩、また、宣教師を送り出した教会の方々の多くの願いと祈りによるものだからです。
この成田教会では、召天者の数は、まだまだ教会員より少ないですけれど、やがては、この召天者の名簿に載っている人達の方が何倍も多いということになるのだろうと思います。
そんなことを考えながら、天の故郷、つまり天の父なる神様の御許を思いますと、そこはなかなかにぎやかなのではないかと思いました。
「氷山の一角」という言葉があります。これは氷山というのは水の上に出ているのはほんの一部で、大部分は水の下に隠れている、見えないことの方が大きいのだということを示している言葉です。
教会という所は、逆氷山と申しますか、一部分はこの地上の教会として姿を現しているけれども、その大部分は、天にあって私共の目には隠れている。
それが教会というものなのではないかと思うのです。
私共の目に見える教会というものは、まさに氷山の一角ということなのでしょう。
すでに天に召された方々を思いつつ、天を仰ぎ見たいと思います。

さて本日の聖書箇所は葡萄園を人に預けて旅に出た主人の話です。
日本でも、農家の人が旅をするということは近年までありませんでした。
そういえば、農業の近代化が進み、いつしか農閑期に農協ツアーがもてはやされた時期がありました。

今日のたとえ話は、主イエスが会堂でなさったのではありません。
前の21章に“神殿から商人を追い出す”とあります。
主がいわゆる「宮清め」をなさった後の場面です。

「この神殿は全ての人の祈りの家なのだ。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまっている」と糾弾されました。
神殿を取り仕切っていた祭司長とか律法学者や長老たちが、そういう乱暴狼藉は許せないと、主イエスを捕らえようとしてやって来たのです。

そのような中、イエス様はこのたとえをされたのです。
神殿は、或いは教会はと言い換えるならば、それはすべての人の祈りの家として、人々を神の国の祝福に導くべき責務があるといいます。
さらに、神に喜ばれる実を生み出していかなければならないのです。
ところが、その託された務めを果たしていないと主イエスの目に映ったのです。
それゆえの宮清めであり、また今日のたとえであります。
従って宮清めと、今日のたとえとはセットだと考えられます。
片や行動であり片やたとえ話ですが、それは同じことを問題にしていると読まなければならないと思います。

ですから直接的には当時の祭司長たち、イスラエルの指導者たちに向けられています。
しかも、社会的・宗教的に地位と権力を持っていた彼らに対して面と向かって、かなり攻撃的にです。
それはまた同時に聖書が書かれた当時の教会の事情とか、教会の自己反省でもあると思います。

45節を見ますと、祭司長たちやファリサイ派の人々、律法学者や長老たちも一緒にいました。
この人々はこのたとえを聞いて、イエス様が自分たちのことを言っていると気づいたとあります。
自分たちがもっとも大切にしていた神殿で、「共存共栄」の名の下に見逃されてきた社会悪を指摘されました。
何人かはそのときすでに指摘に気づいた人たちがいたかもしれません。
しかし、彼らの多くは主イエスの行動に怒りと憎しみを覚えてここに詰め寄ってきていました。


このたとえではイスラエルの民の指導者たちがこのぶどう園の農夫にたとえられています。
ぶどう園の主人は収穫期が来たので僕たちを遣わします。
この遣わされた僕たちというのは世々の預言者たちを指しています。
ところが農夫たちは送られた僕たちを袋叩きにし、殺して、納めるべきものを納めなかったというのです。
そして更に多くの使者を遣わしたけれど同じような目に遭わせたと。
そこでぶどう園の主人は自分の息子を送りますが、「これは跡取りだ。これさえいなければ、このぶどう園は自分たちのものになる」として、その息子も捕まえて殺したというのです。
この息子は、もちろんイエス・キリストを指しています。
私たちはこのたとえが、この後起こる十字架となぞらえることを知っています。

この譬えでは農夫たちが悪者ですが、その当時もいつの時代でもどこの国にも、悪質な雇い主とか主人が多いわけであります。
非常に厳しい取立てをする。
労働者に僅かな賃金しか払わないでこき使う。
時には働かすだけで給料を与えないという悪質な雇い主もいるのであります。
仕事がほしいですから雇ってくれるなら喜んでいくのですが、たこ部屋のような所に入れられて、給料は後払いです。
そして結局働かせられて、仕事が終った時には殆ど持って帰るお金はない。
そのために代って給料を取りに行ってくれる人も西成には実際いるのです。
勿論、取り立て料は引かれます。
そういう悪質な雇い人、資本家はいつの時代にもいます。
それにたまりかねて反逆する農夫や労働者たちがいてもいいわけですね。
それが国レベルで起これば、革命ということにもなるのですが、反逆する方に理がある、義があるということもやはりあるのであります。

このイスラエルの指導者たちは、この世で見られる悪質な管理者ではありませんでしたが、自分たちのしていることに微塵の疑問も悔い改めもありませんでした。
つまり、彼らはあくまでも神様から人々を養う務めを託されているのですが、本来神様に帰するものを帰さないで、略奪していたのです。

全ての信仰生活や教会や社会のあり方の基本がこの点にあります。
この前提にたって物を考えると、普通に人間が考えている当たり前の事が神様に
取っては犯罪的で冒涜的な物であることが理解できると思います。
もし、あなた自身とあなたの全ての時間と才能も持ち物が実はあなたの所有物ではなく神様の所有物であるとい事を認めるとどうなるでしょうか。

来週は音楽礼拝、チャペルコンサートを持ちます。
ユーオーディアから工藤姉妹をお招きします。
多くのクリスチャンミュージシャンは、自分の才能をその本来の持ち主である神様のために用いたいと考えます。
これは、音楽の歴史ともいえます。
クラシック音楽は教会音楽として発展し今日に至っています。
宗教美術もそうですが、賛美することの喜び、奉仕することが祝福であると考えるのです。

一流の音楽家はそうでしょう。
自らの賜物を神の奉仕のために用いてほしいと願うのです。

しかし、私たちはどうでしょうか。
類まれなる、特筆すべき才能は何一つ持ち合わせていない。
だから返すべきもの、ささげうるものは何もないという考え方は間違いです。

先週の説教でマタイ20章の「『ぶどう園の労働者』のたとえ」を取り上げました。
ぶどうの収穫期が来て、常時雇っている人だけでは足りないので、季節労働者を雇います。
この主人は夜明けに、9時に、正午に、3時に、夕暮れの5時に広場に行き、人々を雇ったという話です。
このたとえと今日のたとえと併せて読みますと、この主人の心が見えてきます。一人一人に職を与え、段取りをし、働いてもらいたい。
これほどの配慮と忍耐をもって、人々の実りある働きと暮らしを望んでおられるのが偲ばれるたとえであります。
取るに足りない私をも神は用いようとしておられるのです。

しかし、現実には彼らは悪しき指導者に成り下がっていたのであります。
私たちは、他の人のことはよく見えるし、的確に判断し、批判はできるものです。
しかし、自己批判とか自己変革ということになると人間というのはからきし駄目なのだということを今日の箇所を読んでも思わせられるのです。
40節を見ますと、「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」と、イエス様は祭司長や律法学者や長老たちに問われます。
すると彼らは言った。
「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」とこのように的確に答えています。
この時はもう自分のことは忘れています。
彼らはキリストを捕まえて殺してしまおうと迫って来ていたはずです。
このたとえを聞き、そして質問されたら、もうわが事も、キリストのことも忘れて、「そんな悪質な奴らは殺されても仕方がない」とキリストのたとえに引き込まれてしまいました。
きっと彼らは質問を受けることに慣れていたのかもしれません。
どんなときも律法に則して物事を捉える癖があったのかもしれません。
質問に「そんな悪質な奴らは殺されても仕方がない」と答えつつも、自分たちが誤った行動をとり、神の本意とは違う答えを出してしまったことに気づくのです。


聖書には「感謝しなさい」と言う命令や教えがあり、それはことごとく神様に対するものとして命じられています。
人間はその通りに神様にふさわしく感謝してきただろうか。
むしろ反対に人間が神様に「感謝されたい」とか「認められたい」とかと思って
いるのではないでしょうか。
確かに「感謝されたい」等と言う思いがそれだけで罪であるとか、それが悪だといことではありません。
しかし神様の立場にたつとそのこと自体が神様にお返しするべき報酬を横取りしている事になるのではないでしょうか。
実はその思いが今日の聖書の箇所が主張している「悪い農夫の思い」と同じことになるのです。
本来であれば神様にのみ帰されるべき感謝や栄光を人間が欲しがること。
さらに、それを得るために人に善行や期待に答える行動をしていることがここで問題にされているのです。
その思いがここで言われている「神様の物を盗む行為」となるのです。

私たちはここで「悔い改め」が求められているのです。
しかし、いったん進んでしまったら引き返すことは困難であり、悔い改めることはさらに困難であることに気づきます。
悔い改めるというのは、実に自分自身を殺すことだからです。
そして神の前ではそういう悔い改めが私たちに求められているのです。
彼らは、これは自分たちに向けて言われているとは気づいたのですが、その中身のメッセージは聞いていないわけです。
自分たちの話だと気づいていたにもかかわらず、自分のこととして悔い改めるに至らなかったのです。
それ故に、神の国、神の祝福から遠いものになっているというのが、私たちの現実だと思います。
ここの42節は詩篇118篇の22節〜23節の引用ですが、この詩篇はパウロが正に自分の悔い改めのために引用している詩篇です。

今日は時間がありませんので見ませんが、彼はローマの信徒への手紙8章に引用しています。
どうぞお読みください。

その詩篇118篇は、「死んだ者を甦らせる神の恵みと慈しみ」を語っているのです。
人間は自分の罪の故に、自業自得で窮地に陥るのです。
死なざるを得ない。
けれども神の恵みと慈しみは死人を甦らせるところの恵みであり、慈しみだと語るのが詩篇118篇です。

イエス様は神に従って生き、殺されました。
神様を知らない人にではなく、神様をよく知っているはずの、律法に詳しい人たちの手によって殺されたのです。
けれども、死んでよみがえらされた。
罪の前には自分の命がなくなる。
けれどもそれで終らない。
正に死んでよみがえる。
これまでの自分が崩され、滅ぼされ、そこを経て、再生する。
聖書が言う「悔い改め」は、そういうレベルのことなのです。
ちょっと何か手直しをするという程度のことではないのです。
そしてその悔い改めを迫られているのは他の誰かではなくて、私だと知らなければなりません。
ところがこの祭司長や律法学者たちは群衆を恐れて、イエス様に手を出しませんでした。
攻撃することも、引くこともできず、ただそこにいただけでした。

イエス様の言動に聞き、神のみを畏れ、神のみに信頼するならば、自分の立場も命も一度はなくなってしまう。
しかしそれを我が事として認めて、受け入れて自分に死ぬ時に、朽ちない命と祝福の未来が開かれる。
逆氷山のように、天の国は広がっています。
喜びと期待を持って、天の国を目指したいと思います。



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