日本ナザレン教団 成田キリスト教会

アクセスカウンタ

zoom RSS 神に喜ばれる生涯 世界聖餐日 2011/10/2 ローマ16:1-18

<<   作成日時 : 2011/10/08 15:27   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0



世の中は、概ね二種類の人に分けられるとよく言われます。
線引きは多種多様になってしまいますが、
何々である人、何何でない人 というわけ方をすると、何でもあてはまってしまいます。
神様は最初に男と女とに分けて人を創造されました。
是か非かということに関しては言及いたしませんが、最近ではかならずしもそうではない、という人が出てきました。
生物学的には染色体を持っているかどうかの違いしかないようですので、根本的には「持っている」「持っていない」の差しかないのかもしれません。

1970年代のテレビコマーシャルで「君、作る人」「僕、食べる人」などというインスタントラーメンのコマーシャルがありました。
どちらかが上、どちらかが下、たち位置が右、あるいは左…。
二元論という考え方があります。
一方が善であり、そうするともう一方は悪であるかの考え方です。
そんなところから不用意な区別は、いつしか偏見になり、差別へと繫がっていってしまう場合があります。
これは、現在だけに限ったことではありません

この箇所でパウロはローマの教会に混在している二つのグループに向かって教えています。
そして、この二つのグループに対してパウロは「強い人」及び「弱い人」という区別をしました。
これはパウロの手紙によく出てくるユダヤ人と異邦人の問題と関わっていることでした。
この強い兄弟と弱い兄弟の意味についてまず考えたいと思います。
一般的には、この箇所でパウロが話しているのはユダヤ人と異邦人の信仰の違いではないかと思われています。

14章で特に食べ物のこと、日にちのこと、そしてぶどう酒のことにおいて「強い人」と「弱い人」の意見の違いがあると言っています。
事実新約聖書の中に出て来るいろいろな教会内の問題は基本的にユダヤ人と異邦人の問題になっているし、その多くは、古い契約から新しい契約へと移行する過程の中において出てきた問題でした。
旧約聖書を規範とするユダヤ教の中にはラビなどが、きちんと線引きをしてくれていました。
しかしユダヤの律法を知らずに生きてきた異邦人にとってその基準となるものがないために混乱しているのです。
なぜ当時のローマの教会に強い兄弟と弱い兄弟の問題が起こったかというと、ローマ帝国のクラウデオ皇帝が紀元40年代の後半にすべてのユダヤ人をローマから追い出したという事情が背景にありました。
言行録18章2節に、「クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令した」と書いてあります。
問題ばかり起こすユダヤ人をクラウデオ皇帝はローマから追い出してしまったのです。
先日の聖会でも石田先生がこのことに触れておられました。
しかし紀元54年にクラウデオ皇帝が死んで、ネロが皇帝になったときにユダヤ人たちは再びローマに戻ることを許されました。
パウロがこの書簡を書いたのは、ユダヤ人がローマに戻ってからだと考えられています。
ユダヤ人がローマから追い出された数年間に、ローマの教会は異邦人ばかりの教会となりました。
牧師もリーダーたちも異邦人で、人数においても圧倒的に異邦人が多かったのです。
この書簡を書いた時のローマ教会にはユダヤ人と異邦人が混在しており、ユダヤ人が教会に戻ってきたことで異邦人との考え方の違いによる摩擦が起こっていました。

肉の問題を少し噛み砕いて説明いたします。
当時のローマは、いろんな民族、さまざまな宗教が混在していました。
ローマ帝国が繁栄した理由の一つは制圧した民族、部族の宗教を取り上げなかったからだといわれています。
それぞれの民族がそれぞれの神々を礼拝していたわけです。
それはキリスト教の立場からすれば、それらは偶像であります。
その偶像にお供え物として肉を捧げたのです。
その肉の大部分は、供えられたあと、市場に出回り、それを肉屋が売るわけです。
ですからそこで売られている肉が偶像に供えられた肉のお下がりの肉かどうかはわからないというのです。
ですから、ユダヤ人は独自のルートを通じて肉を手に入れていました。
例えば、ユダヤ人がキリストを信じると言えばユダヤ人の交わりから追い出されてしまうことが使徒言行録やヘブライ書の中にも記されています。
ユダヤ人の交わりから追放されてしまえば、ユダヤ教の習慣に従って処理された食肉を買うことができなくなります。
異邦人の肉の処理方法からして汚れていると思っていたからです。
異邦人の肉の処理法ではきちんと血抜きされていなかったり、偶像にささげられたりしている可能性があったのです。
だから、ユダヤ人は異邦人が処理した食肉は絶対に口にしませんでした。
いまでもユダヤ教用に聖別された肉が売られていますが、自分を汚れから守るためであった。
しかし、キリスト者になると、ユダヤ人から肉を買うことができなくなってしまった。
異邦人が処理した肉を食べることがどうしてもできなかったので、ある人たちは肉を食べることを一切止めて、野菜だけを食べるようになったのです。
それは自分を聖く保つための防衛行為です。

かつて、狂牛病というのが日本でも流行りました。
鳥インフルエンザという病気もありました。
肉は加工してしまうと、どういう経路を経て店頭に並べられているのかがわからなくなってしまいます。
ある意味、それは現在の野菜や海産物にも言えることです。
最近では法律によって、どこで採れ、どこで加工したものであるのかを明記するよう定められています。
福島県の沿岸地域で獲れた魚を食べると影響があるのではないか?
そんな風評が広がります。
千葉県産の野菜にも高濃度の放射線物質が含まれていると報道されました。
先日も放射線量の示された地図が政府から発表されました。
気にし始めたら、なにも口にできなくなってしまいますし、口にしなくてもどれだけ被爆しているか私たちにはわかりません。
それで萎縮してしまうようであれば「弱い人」なのかもしれません。

話を聖書に戻します。
人によっては、偶像に供えられた肉は食べたくないというので、もういっさい肉を食べないで、野菜だけを食べるという人も出てきたわけです。
なぜ、偶像に供えられた肉を食べまいとするのか。
それはそれを食べると何か自分の魂が汚されると思ったからであります。

頭は、放射能の話題になりやすいのですが、あくまでも信仰の話として考えるならば、
仏壇にお供え物をしていいかどうか、そしてその仏壇供えたものを食べていいかどうかというような問題であります。

なぜ、自分が信じてもいない偶像に供えられた肉を食べると、自分の魂が汚されると思うのでしょうか。
このことは、コリント第一10;18以下のところをみるとよくわかります。
「供え物を食べる人は、それが供えであった祭壇とかかわる者になるのではないか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つのか。偶像そのものが何か意味を持つのか。偶像に捧げる供え物は、神ではなく悪霊に捧げている。わたしはあなたがたが悪霊の仲間になって欲しくないのだ。主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできない。それとも主に妬みを起こさせるつもりなのか」といっているのです。

ローマの教会には、本当に主イエスの恵みのみによって救われたことを信じているのに、豚肉を食べるとどうしても神の御前で汚れたような気持ちになってしまうユダヤ人たちがいました。
「弱い人」とは、そのような心理的な弱さを持つ人たちを指しています。
今まで厳しく律法を守ってきたユダヤ人が、キリストを信じて救われた後でも、律法に忠実でありたいと思う人も居ます。
彼らは精神的にユダヤ人の伝統と律法というくびきから逃れられなかったのです。
彼らは土曜日を休みの日にして神を礼拝しなければ、まるで神を捨ててしまったかのような気持ちになりました。
それで、どうしてもユダヤの祭りや安息日を守りたい。
ここでパウロが言っている「弱い人」としている人は基本的にそんなユダヤ人でした。
異邦人と一緒に食べたり飲んだりすると、今まで神に対して忠実に守ってきた原則を捨てるような気持ちになる人たちです。
彼らにとって異邦人と飲み食いすることや豚肉を食べることは、神に対して好き勝手にやっているように感じられたのでした。
それがキリスト者になったユダヤ人たちの良心の問題でした。
同時に、少し複雑になるけれども、もう一つの可能性があります。
つまり、救われたばかりの異邦人にとっても、聖書はユダヤ人の旧約聖書しかなかったし、友人たちもユダヤ人だし、教会の中心的なメンバーのほとんどはユダヤ人でした。
自分が本当に新しく創りかえられた証しのためにも、「ユダヤ人たちのようにしなければ自分たちの聖さを保つことはできない」と考えてしまうわけです。
「そうすれば救われる」「そうしなければ救われない」と思っているわけではないけれど、「その方が聖い」と思ってしまうのです。
そのような人もふくめて「弱い人」を指していると思います。
パウロが「弱い」と呼んでいる人々とは、古い契約の時代から新しい契約の時代への移行期に際して困難を覚えていた人々であった。
しかし、すべてのユダヤ人が「弱い人」とは限らないのです。
パウロ自身がユダヤ人ですが、そのパウロが、「弱い人の考え方は間違っている」と明言しています。
パウロは「強い人」でした。
ユダヤ人と一緒にいるときにはユダヤ人らしく振る舞い、異邦人と一緒にいるときには異邦人らしく振る舞ったと、パウロはコリント人への手紙に記しています。
では、風見鶏のように八方美人に振舞いなさいといっているわけでもありません。

また、この箇所での「つまずき」という言葉の意味も多くの人々によって誤解されているように思います。
「弱い兄弟がつまずく」というのは、誰か律法を犯しているのを見た弱い兄弟が「あの人は悪い、いけないことをしている」と思うことではありません。
それはつまずきではなく、さばくことです。
それに、パウロは弱い兄弟に対してはっきり「さばいてはいけません」と言っています。
私たちの常識から言えば、さばくのは 主に強い人であり、弱い人は裁かれ差別される存在です。
しかし、パウロはここで弱い兄弟に対しては「さばくな」と命じているのです。
ならば「弱い兄弟がつまずく」とはどういうことなのか。
それは、自分では「やってはいけない」と思い込んでいることをやってしまうことなのです。
それがこの「つまずき」の意味です。
自分の心の中では「豚肉を食べてはいけない」と思い込んでいる人が、いけないと思っているのに食べてしまうなら、それが「つまずき」だというのです。
「つまずき」とは、兄弟が豚肉を食べたのを見たユダヤ人が「これはひどいことだ。何という事をしているのか」と思ったりすることではありません。
自分ではいけないと思っているのに、皆が飲んだり食べたりしているのを見て、「自分もそれを飲んで食べなければおかしい」と思って、「いけない」と思いながらも食べてしまうなら、それが「つまずき」なのです。

信号無視をすることは道徳上も、交通法上もよくないことだとしりつつ、「赤信号、みんなでわたれば怖くない」と渡ってしまうことが躓きなのです。
それは信仰の妥協であり、これこそ罪でだからです。
弱い人が信仰の妥協をしてしまうような影響を与えるなら、それは「つまずきを与えること」になるのです。

皆さんは先週罪を犯したし、その前の週も罪を犯した。
今週もまた、罪を犯すでしょう。
しかし「それはしようがないことだ」という思いになるなら、それこそ救いがない、ということになるでしょう。
真の信仰者は、時に立ち止まりそこで悔い改めて神に立ち返り、神を求めるはずです。
そのために日々祈り、神を拝し、新しく作りかえられる必要があるのです。
明日こそは神が喜ぶことをしようと、祈るはずです。
罪を捨てて戦う心でなければ、どんどん底なしの淵に沈んでいくしかありません。

自分の弱い良心を他の人を裁く基準にするような傾向がある弱い兄弟に対して、パウロは「さばいてはいけない」と命じている。これが弱い兄弟に対する原則である。
パウロはここで、多くのルールを守る人が強い人で、そのルールをどうしても破ってしまう人は弱い人だというようなことではないのです。
しかし、この箇所から導かれることのほとんどがそのような解釈になっているのではないでしょうか。
弱い兄弟は、いつも原則とか諸々の定めについて心配しすぎたりして、「どこまでやってよいのか、どこまでやってはいけないのか」のレベルでしか生活できない。
「強い兄弟は弱い兄弟を見下してはならない」のです。
強い人の傾向は、弱い人を見下すところにある。
「あの愚か者が。土曜日はもう廃止されたのだ。神殿はもう二千年前に破壊されてしまったのだから、なぜ土曜日にこだわるのか」と思ってしまうわけである。

若い頃にキリスト教を信じたユダヤ人の話がある本に載っていました。
彼はどうしても豚肉を食べることができませんでした。
豚肉を口に入れると汚れた気持ちになってしまうのだというのです。
ユダヤ人にとって豚は気持ち悪いだけでなく、実に汚れている動物なのです。
その汚れの気持ちがあまりに強烈なために、どうしても豚肉を食べることができない。土曜日になると彼はイスラエルのいろいろな儀式を自分で守ったりする。更に、パリサイ人たちが作った律法をも守っていた。それは、神殿が破壊された後のイスラエルの二千年の歴史の中で新たに作られた数々の儀式であるが、それらを守らないと罪意識に責められると彼は言うのである。
あまりに度を超えていると思った私は、その人と激しく何時間も議論をした。
「別にあなたに守ってくれとは言わない。あなたは異邦人だから守らなくてもいいが、私は守らなければいけないのだ」とその人は言ったそうです。
そして、他のユダヤ人に対して彼は「あなたはユダヤ人だから、それを守らなくてはならない」と言うのである。
それは間違いだと思います。
彼は弱い兄弟であって、その事においては愚かで間違っているのは事実であるが、他の人にそれを教えたり強いたりしないかぎり、それはそれで構わないのです。

けれども、「その人たちを見下してはいけない」とパウロは命じています。
「見下す」とは、侮ること、軽蔑すること、軽んじること、さげすむことです。
「見下してはいけない」とは、その人たちを愛して、その人たちが信仰者として成長するように助けなくてはならないということです。
それにしても、「私はあの人よりもクリスチャンとして成長している」と思って、「自分は強い兄弟だ」という認識を持つとき、私たちは傲慢の罠に落ちてしまいます。
人を軽蔑して見下す心は傲慢な心はキリストの心ではありません。
私たちが弱いからといってキリストが私たちを見下すなら、一人残らず立つことはできないでしょう。
だからパウロは、「見下す心は、傲慢な汚れた心である」と、強い人たちに教えている。
弱い人に言っているのは「さばいてはならない」です。
強い人に言っているのは「見下してはならない」です。
では二つの勧めの中心にあるものは何なのか。
主イエス・キリストにあって互いを受け入れ、互いを励まし合い、愛し合い、互いの徳を高め合っているかどうか。
そこが問題なのです。
それをしていないかぎり、心においても、言葉においても、思いにおいても、行ないにおいても、どちらも罪を犯してしまうのです。
弱い兄弟の罪はさばく罪であり、強い兄弟の罪は軽蔑して見下す罪である。
パウロは、弱い兄弟と強い兄弟が互いにどのような心を持つべきかを教えているのです。

14章1節に、「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません」とパウロは命じています。
日本語の「さばいてはいけません」という訳は少し意訳的であるが、この言い方自体が難しい表現になっています。
他にいい訳がなかったので仕方ないかもしれませんが「彼の意見について争ったりするためではなく」或いは「彼の意見に反論するためではなく」というような意味です。
しかし、「さばいてはいけない」という日本語訳は意訳として一番はっきりしていて分かりやすいのですが、実際には「さばくな」というほどの強い言い方にはなっていません。
「その人の意見について喧嘩したり、論争したりしてはいけない」と言っているのです。
「弱い兄弟を受け入れなさい」というのは「軽蔑するな」ということです。
しかし、文字通りに「さばくな」という表現は弱い兄弟に対して繰り返されています。
「あなたは、神の御前で、自分の良心に従ってそうしなければならないと思うなら、是非そうしてください」ということでよいのである。
自分の良心に従って歩むように励ますのである。
それが強い兄弟の弱い兄弟に対する態度でなければなりません。

強い人に対しては、「キリストがそうであったように、弱い兄弟のことを思いやり、助けてあげなさい。主イエスはご自分の権利を全部捨てて私たちのために死んでくださった。そのキリストに倣って、あなたも弱い人を受け入れなさい。彼らを軽蔑してはいけません。彼らを助けなさい」とパウロは教えるのです。
弱い人に対しては、「キリストがその人の主人なのだから、あなたにはその人をさばく権利はありません」と。
パウロは、主イエス・キリストのような心を持ち兄弟と接しなさいと勧めるのです。

このことはどの時代であれ、またどの教会の問題であっても、弱い兄弟と強い兄弟の枠組みには入らないような問題であっても、変わりがありません。
しかし、たとい意見の違いがあるとしても、弱い兄弟も強い兄弟も、心からお互いを愛し合って神の栄光を求めることこそ大事なのです。
主イエス・キリストがどのような心を持って私たちを愛してくださったか、どれほど大きな犠牲を私たちのためにささげてくださったかを、私たちはすぐに忘れてしまいます。
聖餐式を受けるときに、「喜びと感謝をもって」受けるようにと勧めます。
それは、主イエス・キリストがどんなに私たちを愛してくださったかを覚えてそのキリストの心を求めることです。キリストに目を留めなさい。
私たちは、キリストに似たものとなるために救われたのです。
批判したり、差別したり、蔑んだりするために一つ所に集められたのではありません。
わけ隔てなく、神の恵みの座は用意されているのです。
「主イエス・キリストはこのように私に恵みを与えてくださった。主イエス・キリストはこのように私を愛してくださった。だから、私も兄弟を受け入れます。私も兄弟の罪を赦します。だから、私は主イエス・キリストを慕い求めます。その御国とその義を心から求めます」という思いを、私たちは聖餐式のときに、繰り返し繰り返し新たにして誓いたいと思います。
そのことを覚えて共に聖餐に与りましょう。

月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
神に喜ばれる生涯 世界聖餐日 2011/10/2 ローマ16:1-18 日本ナザレン教団 成田キリスト教会/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる