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zoom RSS 神に建ち上げられる 2011/9/25 ローマ12:1-8

<<   作成日時 : 2011/09/25 12:14   >>

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私は中学校の時に剣道部でした。
その前、小学校5年生の時に、街中にあった剣道の道場に通い始めました。
道場の名前は有隣館有り隣りと書きます。
これは孔子の言葉、「徳孤ならず、必ず隣あり」という言葉からきていると説明を受けました。
子供の頃はぼやんと思っていたこのことばも、中学生の時に論語を読み、なるほどなぁと思ったものです。
徳のある人、道徳性の高い人は、孤立することはなく、必ず隣人(同行者、理解者)がいるという意味です。
むずかしい言葉ですが、非常にいい言葉だなぁと思いました。
信仰を持つようになってから、孔子の言葉ではありますが、主イエスのことを言いえている言葉だなぁなどと思うようになりました。


この勧めの直接の支えになっているのは、「神の憐れみ」です。
「憐れみ」という漢字は「隣」という漢字の「こざと偏」を「りっしん偏」に換えたものです。
それは隣人の心になるということではないでしょうか。
苦しみ悩む者の隣り人となって、その苦しみを共に担う愛の心を表しているというのは、すこし飛躍しすぎかもしれませんが。
しかし、元の言葉の意味をよく表している漢字だと思います。
神ご自身が私たちの隣り人となって、私たちと共に歩んでくださる。
そのことこそ憐れみなのではないかと思います。


罪人の罪を赦す神の憐れみ深い愛は、キリストの十字架において、はっきりと形をとって表されました。
神の独り子であるキリストが、まず私たちのためにご自身を犠牲の供え物として献げてくださったのです。
この御子の献身に応えて、この憐れみに支えられて初めて、私たちの献身が生まれるのです。


信仰を持っていなくても、立派な行いをされる方は沢山いらっしゃいます。
だれかのために献身的に奉仕をする方もいらっしゃいます。
責任感に燃え、なにもそこまでしなくても、というところまで励まれる方も居ます。

愛する子どもが、正義を愛して正しいことをやっていたら、親としては嬉しいものです。
しかし、愛するこどもが、自分を良く見せるためだけに、人前でだけ頑張って正しいことをやっていたら、親は全然嬉しくありません。
ファリサイ派の人々は、そうやって神さまを悲しませていたのです。
神が、喜んでくださるのは、私たちが、まず喜んでいるということです。
喜んでいるからこそ、感謝・賛美することができます。
感謝をしているから、その証としての奉仕があるのです。
奉仕をする中で、さらに感謝の思いがこみ上げてくる。


さらに言えば、キリストがご自身の体を犠牲として献げていてくださるからこそ、洗礼を受けてキリストの体に結び合わされ、キリストの体の部分とされた私たちも、自分の体を献げることができるのです。
キリストを通して、その一部となって、私たちの汚れた体、罪の思いが清められ、神に受け入れられるものとなるのです。
私たちが、自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げることができるとしたら、それ自体が、救いの恵みの中で起こることです。
パウロは、ただ単に、自分の体を献げよ、と言っているのではありません。
この体を、「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」として献げよ、というのです。
私たちの具体的な体の生活を考えてみれば、どうしてそのすべてを、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げることなどできるでしょうか。
自分の生活を正直に振り返ってみれば、神に喜ばれるはずなどない、汚れに満ちて、疲れて死にかけたような姿であるかもしれません。
しかし、それを自分で聖め、整えて、自信をもって神の前に差し出すというのではないのです。
まさに、神の憐れみによって、キリストの十字架による救いにあずかって、キリストの体の部分として用いていただくのです。
自分を献げる、ということは、もはや自分のものではなくて、神のものになる、ということです。
私たちは、自分の名ではなく、私たちの主である方の名によって呼ばれるようになるのです。

3年前成田山新勝寺にアジアパシフィック部長のワード夫妻をお連れした時にこう尋ねられました。
あそこに貼ってあるものは何かと。
あの壁には何が書いてあるのかと。
千社札や寄付を捧げた人の名前でしょうか。
歩道から見えやすいところ、建物の裏側といたるところに大小名前が刻んでありました。
何とかして自分の名を残したい、そういう人間の名誉欲をくすぐるようにして、寄付を集めるのでしょう。
しかし、それでは本当に自分自身を献げたことにはならないのではないでしょうか。

私たちが、自分自身を献げる、というとき、私たちはもはや自分のものではなく、神のもの、キリストのものとされるのです。
ですから私たちの奉仕の業に、自分の名を刻もうとしてはなりません。
それは私たちにとって、大きな誘惑であり、また危険なことだと思います。

教会の営みは、実に多くの方たちの献身的な奉仕によって成り立っています。
礼拝のためにも週報には多くの方の当番のお名前を記しています。
「献身的な奉仕」というのは、単なるたとえではありません。
教会はいわば献身者の集まりです。
それがまことの献身であればこそ、献げられる業は神のものとされ、さまざまな数多くの奉仕がひとつに結び合わされて、神の栄光が現されることになるのです。
自分の名は、神のもとにある命の書に記されていれば十分です。
具体的な業において自分の名が覚えられることを求めるのではなく、神の名が覚えられ、神の名があがめられることを求めていく。
そのようにして、ただ神にのみ栄光を帰し、神を拝む。
献身者の生き方は、まさにまことの礼拝者としての生き方として整えられていくのです。だからパウロは、そのような生活のことを言い換えて、「これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と言うのです。
「これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。
献身者の生活は、礼拝の生活だ、と言い切っています。

主の日の礼拝を中心として、礼拝の中で神のものとして整えられて始まり、また来る礼拝に備えて整えられていく生活なのです。
主の日から主の日へ、礼拝から礼拝へと導かれる。
そこに一筋の道が見えてきます。
私たち一人ひとりが神をたたえ、栄光をあらわす器として建ちあげられていく、そのことを求めるのです。

終わりの日、復活の体、栄光の体を与えられて、神の御前で完全な礼拝を献げるときを目指しているのです。
終わりの日の礼拝、あるいは、天にある礼拝を目指して、地上においては、礼拝から礼拝へと、主とともに歩み続けていく。
それこそが、私たちの「なすべき礼拝」です。この言葉は、かつての口語訳聖書では
「あなたがたのなすべき霊的な礼拝です」
と訳されていました。
「なすべき」「霊的な」と二つの言葉で訳されていましたが「霊的」という言葉は本来の聖書にはありません。
聖書翻訳者は、聖書原点に忠実にという大前提を崩してまでも「霊的な」という言葉を付け加えました。
「なすべき」という語は直訳すると、「理にかなった」「筋の通った」という意味です。
「霊的な」霊に拠らない礼拝は「理にかなわないものであり」「筋の通らない」ものだということです。
信仰者の生活は、主の日の礼拝を中心として、毎日の生活が、神に献げられたものとして、筋の通った、神を拝む生活として整えられていくのです。
習慣に従って来る礼拝は、お正月になったら初詣に行かなくちゃ、というのとなんら変わりません。
お札やお守りを買ったからと言って自動車事故に遭わないというわけではありません

また、「霊的な」礼拝とは必ずしも主日礼拝においてのみをさしているのではありません。
主の名によって集められた者が、み言葉を分かち合い、心を合わせて祈るとき聖霊に導かれ
自分の筋を通すのではありません。神の御心の筋が貫かれていくのです。
自ら立つのではありません。主によって建ちあげさせられるのです。
そこにこそ、神によって召され、神に献げていく礼拝生活が作られて行くのです。

私たちは、この地上での歩みにおいて目指すべき方向、歩むべき道が神様によってはっきりと与えられている者であるといえるでしょう。
もし私たちが、見渡す限り砂しか見えない、砂漠のど真ん中に一人で居たらどう思うでしょうか。
「決められた道なんてない。どの方向へでも行ける。急ぐ必要なんてない。なんて自由なんだろう!」と思うでしょうか。
そこにたまたま人が通りがかり、方位磁石を渡して、「北にまっすぐ半日も歩けばオアシスのある町にたどり着く。」と言ってくれたらどんなに心強いことでしょう。
希望と確信に満ち、足どりで北へ北へと進んでいくに違いありません。
だれも、「ひたすら北へなんて、不自由だ」などと思わないはずです。
神様は私たちを救いっぱなし、生みっぱなしにはされませんでした。
歩むべき道、進むべき道をはっきりと指し示してくださっているのです。
「あなたのなすべきこと」があるという事は私たちにとってなんとすばらしいことではないでしょうか。
しかも驚くべき事にその道を神様ご自身が私たちと共に歩んでもくださるというのです。
憐れみを持って私たちの隣を一緒に歩いてくださるのです。

主は「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
とおっしゃってくださっています。

では、私たちの歩むべき道、目指すべき事柄とは何でしょうか?
それは聖書の中にはっきりと記されています。
私たちは聖書を通して私たちにとってふさわしい事柄、目指すべき事柄を知り、悟ることができます。
その聖書を教え学ぶ場が教会です。
私たちは神に召され、教会へと集うようになったものです。

神に召されている、ということが分からなくなると、熱心な奉仕の業もいつの間にか、自己実現、自己満足に陥りやすいものです。
自分の働きが、教会の中で正当に評価されることを求めたくなってきたら、気をつけなければなりません。
そこには、奉仕する喜びと感謝の心に代わって、つぶやきと妬みの心が忍び込んできます。
主が私たちのために、ご自身を献げてくださったことを思い起こし、主の献身の姿としての十字架のもとに立ち帰って、真実に献げる生き方の中に導かれたいと願います。

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