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zoom RSS 死に至るまで ローマ6:15-23 2011/7/17

<<   作成日時 : 2011/07/17 09:15   >>

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ローマ6:15

今では誰でも携帯電話を持っています。
ちょうど、わたしが会社勤めをしている頃、携帯電話が会社から支給されました。
配られた社員は「これで会社に365日24時間電波の鎖につながれてしまった。会社の奴隷だ。」と嘆いたものです。
仕事なのですから、当然といえば当然なのですが、便利なのか、不便なのかという気がいたします。
クールビズとして暑い時期のノーネクタイが定着してきていますが、ネクタイも企業の首輪の象徴として語られることも多いと思います。


さて、16節に「奴隷」という言葉が出てきます。
私たちはだれもが奴隷にはなりたくない自由でいたい、と考えます。

かつて、奥村チヨという歌手の歌で恋の奴隷という歌がありました。
あなたに会ったその日から 恋の奴隷になりました、という恋愛の歌です。
歌詞を見ると現在ではDVだとか、女性蔑視だなどと言われてしまうような内容ですが、従順で主人に忠誠をつくす奴隷の姿を描いているようにも思えます。
この歌詞では、奴隷であることにさえ、喜びを感じているような自ら率先して奴隷でありたいと歌っています。

私たちは奴隷になりたいのでしょうか。
「自分は誰にもしばられたくない、自分で考え自分で決断し行動するんだ」と言っても、実際は何かの奴隷になっているものなのではないでしょうか。
携帯電話を例に挙げれば、寝ても覚めても繋がっている、さらにいうといつ呼び出されて命令されるかわからない、奴隷とはそういう状態です。


聖書が書かれた当時のローマにはたくさん奴隷がいました。
ローマ帝国は戦争に勝ち、周辺諸国を属国として従えつつ、戦利品として多くのもの持ち帰りました。
その中に奴隷はありましたが、なかでも奴隷は家畜より価値が低かったそうです。
価値がないから死んでも気にしない、減ったら補充すればいい、そんな感覚でした。
製粉所の奴隷についての記述にこういうものがありました。
頭の毛は半分がそり落とされ、額には主人の名が焼きゴテで刻まれている、背中にはむち打ちのあとが縞模様になっている。
宿舎は家畜小屋の隣、飲み物は海水で薄めた葡萄酒。

と書いてあります。
逃げたときに半分坊主刈りになって刻印があるからすぐに誰の奴隷だわかります。
海水で薄めた葡萄酒は塩分補給のためです。

町に出る時は最低二人はお付きの奴隷を連れていくのが中堅市民の条件だったといわれています。
特に大金持ちは奴隷をたくさん使っていました。
たとえば、ある人には同時に左右の靴を脱がすために2人の専属奴隷がいたそうです。
こういう奴隷はあまり能力いりませんし、言葉がわからなくても問題ありません。
一方、有能な奴隷は子供の家庭教師にしたり、仕事を手伝わせたりもしたそうです。
ある記録によるとローマ市人口のうち四分の三が奴隷もしくは解放奴隷だったそうです。

金持ちローマ市民も自分が死ぬときに遺言で、奴隷達を解放してやることが多かったとも言われています。
奴隷を使うことに対して多少は良心がとがめたのかもしれません。
このように解放された奴隷を解放奴隷といいます。
彼らは拘束されないという意味では自由ですがローマ市民権はありません。
それだけでは仕事もありません
ところが、例えば解放奴隷同士が結婚して子供が産まれたら、この子は生まれながらにしてローマ市民と認められたそうです。
もし、商売で成功でもしたらお金を積んで騎士身分という貴族になることだってできる。
奴隷を買って働かせることだってできるんです。
また、逆に地方の農民が不作で都市に流れ込んだ、今でいうホームレスのような人たちもいたようです。
彼らはローマの市民権は持っていても、仕事がありません。
奴隷と同じ仕事をするわけにはいかないので、金持ちにただ食べさせてもらう、
権力者に選挙の時の1票として囲われていたようです。

つまり当時のローマにはいろいろな人がいたのです。
そのような身分、財産、権利などが複雑に絡んでいる状況で奴隷と自由が語られているのです。
現代を生きる私たちの想像をはるかに超えた世界です。


普通に考えれば、奴隷はその身分から解放されれば、自由になったと言われるはずです。ところが、罪から解放されて全く自由になったのかと言えばそうではなく、義の奴隷になった。
奴隷であることに変わりはないのです。
これは案外、私たちが「自由」とは何かということを考える上で、大事なことを教えているのではないかと思います。
誰にも支配されないで、何でも自分の思い通りに好き勝手にするということは、実は、本当の自由ではないのです。
すべて自分のしたい放題をするということになれば、それは自由であるどころか、自分の欲望の虜になり、欲望の奴隷になって動かされているということになります。
そうでないと言うなら、やめようと思えばいつでもやめられるはずです。
しかし現実には、こんなことをしていてはいけないと思いながら、それを断ち切ることができないのです。
自由だと思っていたのに、いつの間にか、自分の欲望に支配されているということが起こるのです。


では、そもそも自由とはなんでしょうか。
この世においては、本当の自由はないのかもしれません。
さまざまな事柄によって規制され、制約されています。

金や名誉の奴隷になったり、権利欲の奴隷となったり、偉くなりたいという名誉欲の奴隷になったりしてしまうこともあるのです。
そして、何よりも大切な自分自身を見失ってしまうのです。

パウロはここで、人間を大きく二つに分けると、罪の奴隷となっているかあるいは従順の奴隷になっているかである、と言っています。
罪の奴隷となっている人の主人は神に敵対するサタンです。
本日の教会学校の箇所で、天地創造を学びましたが、最初の人アダムとエバは神によって造られました。
彼らは決して神の奴隷ではなく自分自身の人格を持ち自由であったのです。
ところが、彼らは「肉の弱さ」のために罪の奴隷となりサタンの言うことを聞いて罪を犯してしまいました。

彼らは、神様が「取ってはならない、死ぬから」と言われた木の実をとって食べ、霊的に死んだもの、汚れと不法に身をゆだねる罪の奴隷となってしまったのです。
それは、アダムエバだけでなく、私たちも「肉の弱さ」を持ち、不義を行う罪の奴隷であったのです。
それは決して、自由ではありません。
喜びも感謝もない人生の行き着く先は「死」であると聖書は言っています。

信仰者になった私たちは救われたことを喜びます。
でも、信仰生活に空しさを感じることがあるのです。
自分のやっていることが本当に正しいんだろうか、いや何か物足りない、義務的な律法的な生活をしているのではないかと悩むことがあります。
罪の奴隷から義の奴隷に代わったところで、奴隷の身分には代わりがないではないか、という意見もあると思います。
奴隷という身分であることにはなんら代わりがありません。

身分ということで考えるならば、先ほどの携帯電話の例で言うならば、新しい別の携帯電話を持たされた。ということです。
右足の靴を脱がせる仕事に就いていた主人から、別の主人の左足の靴担当に変わったのと同じです。
それだけではたいして変わりがない。

しかし、お仕えする主人が全く違う人だったらどうでしょうか。
奴隷のことを常に考え、奴隷のすべきことを主人が代わりにしてくれるような方だったら…。
常識では考えられないこと、ありえないことです。

しかし私たちは、だれもが心のどこかでその事を望んでいるのです。
実は 私たちの魂には、主人が必要だからです。

ところが、自分自身の自由を求めているとそうは考えられないのです。
自分自身の主人は私だ。自分自身は私のものだ。
私は誰の支配も受けないし、自分のことは自分で決める。
そういう自主独立の存在になることが自由に生きるということだ。
神や宗教に頼るのは自分が弱い人だ。
私には神など必要ない、そう考えている人が大勢いるのではないでしょうか。
けれども、そうやって何でも自分で決めることが自由だと考えていると、やがては、私たちは決して自由ではないという現実に直面させられることになります。
それは、死という現実です。
人間は、決して、死から自由になることはできないのです。
罪の奴隷であった時、私たちは永遠の滅びに向かっていました。
罪の奴隷となってその報いである、死を受けなければならないものとなっていたのです。

そして、死が迫ってきて、限りある命であることを思い知らされるとき、私たちは、あわてて、生きていることの意味を確かめようともがくのです。
しかし、私たちが生きていることの意味は、自分で作り出すことができません。
それは、本来的に、他者との関係の中で与えられるものです。
私たちが誰かの役に立っているとき、私たちの存在はそのだれかのために意味を持つものになるからです。
私たちは、私たちを必要としてくれる他者によって、生きていることの意味を与えてもらうのだと言ってもよいと思います。
そして、私たちにとっての究極的な他者とは、神です。
私たちが、神に用いられ、神に喜ばれるものとなるとき、私たちは、神にとって意味のある存在となります。
そこでこそ、私たちは、生きている意味があるのです。
私たちが自分は自分のものだと思い込んで、自分を喜ばせることだけに心を用いているなら、どこまで行っても本当の満足はありません。
一時的な喜びはすぐに過ぎ去ってしまいます。
しかし、私たちが、神のものとされて神に仕えて生きるとき、神が私たちに生きることの意味と喜びを与えてくださるのです。
私たちが喜んで、神に仕え、神の奴隷となるために、自分自身を神に献げて生きる道です。

死にいたるまで罪の奴隷として苦しんで生かされるのではなく、永遠の命を得て神の奴隷として神の平安と自由の中に喜びをもって生かされたいと思います。

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