日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 知恵と”霊”とよって 2011/5/15 使徒6:1-8

<<   作成日時 : 2011/05/15 09:19   >>

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仙台富沢教会の阿部先生は、東北ヘルプというキリスト教の支援団体で中心的に活躍されています。
若い ということもありますが、多岐に渡り用いられています。
仙台の山手にある斎場と仙台中心部にある東北ヘルプ、そして、教会から数キロの所にある仮設住宅郡を精力的に回っておられます。
その活動の中で、気づいたことをこのように報告してくれました。

震災直後はみなが一つになってお互いの為に祈りあった。
しかし、2週間もすると、祈りに集まってくる教会の人と、外に出て行く教会の人とはっきりと別れてきたというのです。
社会派といわれる教派の方々は、ショベルを持ち長靴を履いて出て行く。
また、ある教派の人たちは熱心に祈りつづける。
もちろん、様々な事情で身体を使った奉仕ができないので、熱心に祈る ということも大切だと思います。
そういう全国の祈りに支えられて、奉仕の力がわいてくるということもあると思います。

祈ること、しかも熱心に神に祈ることはとても大切です。
神はそのような祈りを聞いてくださるからです。
泥かきは他の人にもできるけれど、祈ることは信仰者に与えられた特権でもあります。
しかし、祈るだけではいけません。
また、祈りと感謝の伴わない奉仕は証にはつながりません。
先日の祈り会のときにもそのような話題になりました。
どちらが優先されるべきか ということは時と状況にもよるとは思います。
喜びをもって主に仕える奉仕とは、常に祈りつつ、み言葉に照らされてなければいけないと思います。


初代教会は聖霊降臨の出来事の後、使徒たちの宣教の業によって主を信じる人々が日々起こされていきます。
人が多くなるとイロイロなトラブルが生じてきます。
ギリシア語を使うユダヤ人達は、ヘブル語を使うユダヤ人達に対して苦情を申し立てました。
使徒達がすべてのことに仕えることに限界がきたのです。
集まりの中に不平不満が生じるとサタンはそれを通して働き教会の中に分裂を起こします。
それは「日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていた」という問題です。
つまり全員が全財産を出し合い共有したのですから、全員が平等であるはずなのに、やもめたちの分配が少ないという苦情でした。
ギリシア語を話すユダヤ人とは、ユダヤ以外の地域に住むユダヤ人ということです。
つまり寄留者ということになります。

そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言いました。
「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
使徒達は信仰によって問題を解決するようにと聖霊に求め、こう示されたのです。

ここには単に差別的な問題だけではなく、言葉の問題もありました。
選出された7人はギリシア語を話すことができ、国際的感覚を身につけていました。
7人はカトリックでいう助祭職や執事職に当たり、食事の世話から説教まで行ったと思われます。
そして、この7人を選ぶ基準ですが、「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」と記されています。
「“霊”に満ちた人」とは神の御心に従って歩む人のことだと思います。
「知恵に満ちた人」とは神の価値基準により物事の良し悪しを判断する人のことだと思います。
「評判の良い人」とはただ単に世間の評判がいい人ではなく、信仰と行いが一致している人のことでしょう。
企業などの選考基準に「技術ではなく、人柄重視」というのがあります。
技術はある程度、教えれば後から身につけられます。
しかし人格的な素養はなかなか難しいので、人格的な面の成熟度をチェックしてその人を選ぶという考え方が打ち出されつつあります。
私が採用を担当していた頃は「ヒューマンスキル」と言われていました。
それと、もう一つは「やる気」です。
いくら技術が高くても本人にやる気がなければどうしようもありません。
技術は技術で大事なものです。
外国語が喋れる、旧約聖書に精通しているということは当時の社会においても評価されることでした。

先日の牧師会の帰り道、三軒茶屋教会に赴任された石川先生とご一緒しました。
石川先生は、ご自身の牧師生活を振り返り、草取り人生だった とおっしゃいました。
それは成田教会の花壇を森さんや原兄弟にお願いしっぱなしの私としてはいささか耳の痛いお話でした。
石川先生は、最近の若者には、草むしりを全くしたことのない人がいることも驚きだけれど、神学生に草むしりをさせると、その人がどういう人かすぐわかる とおっしゃっていました。
その基準に照らせば、私は落第だなぁ と思いました。
ご自分で、弟子屈、諫早とずーっと草取りをされてこられたが、現在の三軒茶屋では、敷地は広くても草の生えるところがない。
草取りからやっと解放されたという安堵感よりも、寂しさもある とおっしゃっていました。
人を評価する価値判断の目はそれぞれだと思います。

ここで示された価値判断は、「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」でした。
そういう人が、初代教会の信仰者の群れから選び出され、その務めに就き、奉仕をし、問題解決に当たったのです。

その中でステファノは群を抜いていて、優れた知性とともに「恵みと力」に満ちた人で、イエスの福音の意義を深く理解していて、伝道活動を熱心に行います。
強固な信念も持った人物だったのでしょう、議論しても一歩も引かなかった為に、 ディアスポラ(離散した)系ユダヤ教徒と衝突していきます。

使徒達は「このいのちのことばを、ことごとく語りなさい。」と言った聖霊の指示に従って御言葉を宣べ伝え続けました。
また、みわざが大きくなって内部から問題が生じた時も祈りとみことばの奉仕に励むことにしました。
彼らは外部や内部からの様々な困難の中でも御言葉に従い、御言葉を宣べ伝え続けました。
その時その時に応じて、困難を乗り越えて、神様のことばは、ますます広まって行ったのです。

キリスト教会の歴史を見ますと、大きな迫害が起こると、そこから散って行ったキリスト者がさらに福音を広めたという事実を目の当たりにします。
困難を受けて飛躍的にキリスト教がひろまったという事実があります。
直接的な被害を受けていない私たちが語るべきではないかもしれませんが、
実際に極限状態であった、被災地でみ言葉が語られ、バプテスマが施されているということも神様の不思議な業であるといえるでしょう。

神様のみことばはいのちのことばです。
今日の私達は情報の洪水の中で暮らしています。
情報の中にいるからこそ、本当に大切なことを選んで取り入れることが難しい時代だと言えます。
情報だけでなく、幸せの基準さえ、多岐に渡っている。
永遠なんて信じることができず、今さえよければいい という安易な考えに流されてしまうことすらあります。
選択肢、道が多いから 人は迷ってしまうのです。

そのような中で、私達にいのちを与える情報は少ないのです。
この世の知識はむしろ私達を悩ませ、高慢にならせます。
またある知識は人々の魂を滅びに導きます。
しかし、神様の御言葉は私達に真のいのちを与えてくださいます。
神様の御言葉は私達のしおれた魂を生かし、真の喜びと平安を与えてくださいます。
神様の御言葉は私達に鷲のように登る力を与え、どんな状況の中でも勝利の人生を送るようにしまてくださいます。
神様の御言葉は私達が罪人であることを悟らせ、救いに至らせる知恵を与えてくださいます。
神様の御言葉を通して人生の意味と目的と使命を見つけることができます。
ですから御言葉を宣べ伝えることが大切なことなのです。
私達が御言葉を宣べ伝えなければ人々は霊的な無知の中でそのまま死んで行くのです。神様は切なる心で私達に言われます。
「人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい。」
命に通じる道はキリストの他にはないのです。

久米先生は、連休中に実際に現地に入られて、東松島市で泥かきなどのボランティアをされました。
現地であったクリスチャンの青年に「久米先生は第一線で活躍されているんですね」と言われたそうです。
その言葉を聞いて、久米先生はすこし違和感を覚えられたそうです。
キリスト者として、牧師にとっての第一線とは何か。
どこかに飛び出していくと第一線で活躍する人になるのでしょうか。
久米先生は 自分にとって、家族や千葉の教会の人たちと過ごすことが第一線だし、更に言えば部屋に閉じこもり神に祈ることが本当の第一線の現場だとおっしゃいました。
わたしたち一人ひとり キリスト者にとって、教会にとっての第一線とは何でしょうか。

今でこそ12使徒は歴史的に見ても重要な役割であり、超有名人ですが、当時はただの学のない田舎ものでしかありませんでした。
彼らがどのようなことばを語ろうとも、群集がその言葉に引き寄せられるなどということは普通では考えられないのです。
キリストを救い主として受け入れて生きると言うことは、常識が変えられると言うことです。
すべて神によって 最善へと導かれているということを受け入れることです。
古代教会はバザーも伝道集会もやっていません。
彼らは救いをする前の昔の自分より、誠実に仕事をし、家庭で愛を表現し、隣人との平和を心がけるように努めました。
それがキリスト者の最善の奉仕だといえるでしょう。
私たち一人ひとりが、霊に満たされ夫々の最前線で祈り、小さき者のために仕えて参りましょう。
また、そのような成田教会でありたいと願います。


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