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zoom RSS 賜物としての聖霊  2011/5/8 使徒言行録2:36-42

<<   作成日時 : 2011/05/08 23:42   >>

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私は牧師になる前に、人材ビジネスで何千人も面接をしました。
少し悪い言い方をすれば、ある意味、自分のことを棚に上げて人を値踏みするわけです。
でもそれは、それぞれの賜物を見極める仕事であったと自分自身では正当化しています。
しかし、この自己正当化というのは、本当はとても罪深く恐ろしいことだと思います。

長い間テロとの戦いをしてきたアメリカはその膨れ上がった軍事費を縮小していくために撤退のタイミングを見計らっていたようです。
言葉は悪くなりますが、大将の首を取らなかったら負け戦、ベトナムの二の舞になってしまう、だから即処刑してしまったとか。
全ての責任はテロリストにあるという論理のようですが、本当にこれでいいのか、という思いになります。
浜岡原発の停止も英断なのかどうか、議論の分かれるところです。
具体的な代替案のない一方的な命令では、単なる思い付きになってしまいます。
政権交代して民主党が政権与党だからできた、という着地を目差して欲しいと思います。

私たちは、物事の神様が取り扱ってくださることを祈るしかありません。

さて、主イエスはこの聖霊のことを、ヨハネ福音書14章の中で、こう紹介しています。
真理の霊、この霊があなた方と共におり、これからも、あなたがたのうちにいる。私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。
弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせて下さる。私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。

聖霊が私たちに与えられるということ、それは、イエス様が天に帰られたのちも、私たちがしっかりと、神様によって支えられということです。
私たちがつねに、神様と共におり、神様からすべての必要なお導きと知恵と、平安に満たしていただける、保証なのです。
弟子たちは、この主の、「あなたをみなしごにはしない」との約束を信じていました。
弁護者が確かに来てくださることを信じて、エルサレムにとどまっていました。

そして、そのことを喜びをもって群集に伝えたのです。
先週もお話したとおり、目の前に居る人たちの多くは、主を十字架につけろと叫んだ人たちです。
その人たちを改心させることは簡単なことではありません。
しかし、その力強い説教によって、悔い改めが起こり、主を信じるものが起こされました。

ペトロの伝道説教を聞いて、一度に三千人もの人々が救われたとか、信者たちがすべての物を共有にしていたとか、そのことを思うと、現在を生きる私たちとの姿の違いを感じます。
いっぺんに3000人に語るチャンスもなかなかありませんし、あったとしても、そのメッセージを聞いてすぐ福音を受け入れる人が次々と起こされるチャンスもありません
それは自分の力のなさ、主の教えからどれだけかけ離れていることだろう、と落ち込んでしまうこともあります。

どの時代のキリスト者もこの姿を目指して、祈り努めてきました。
ペトロの説教には現在も語られる説教の原型があることを先週もお話しました。
教会が成立する力の源もここにあるということができると思います。
この箇所には聖霊の働きを感じ、悔い改めが促され、信仰者が起こされる、その理想的な姿が描かれています。
しかし、聖書に書かれているこのことを手本としなさい、ということではありません。
また、何も自分たちの不甲斐なさを言い訳しようと言うのでも、自らの不信仰を弁解するつもりもありません。
そうではなく、ある意味ではただ単純に、キリスト教会の最初の姿を、聖書は描いているのです。
それは歴史家でもあったルカらしい記述だと言えます。
どんなに大きな教会も最初から大人数が居た訳ではありません。
少しずつ成長していくのです。
それと同じように、キリスト教会もいつまでも同じ有様であったのではないのです。
三千人もの人々が一挙に救われたのは、キリスト教会がまだ生まれたばかりで、多くの祝福を必要としていたからです。
4:4を見ますと、『しかし、二人が語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった』とありますけれども、これも同様です。
子供の時に必要であったものは、大きくなるに従って、必要ではなくなってきます。
今朝の箇所である2:44に記されています、『信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った』という事柄も、社会主義的な共産生活を理想としていると語られることも多いのです。
けれども、しかし、共産主義の理想として読むよりも、むしろまだ教会が幼かったころだったために、ここに書いてあるようなことが必要だったと読む方がよいと注解書にありました。

今回の震災で被災した地域の状況を見ても、最初は避難所一緒に居ることが大切で、ライフラインの復旧に伴い徐々に個別化していくのです。
復興の段階を踏まえた支援が求められるのもそのためです。
実際、弟子たちのように家も仕事も捨ててイエス様に従ってきたような人たちや、ガリラヤの民衆のように貧しい人たちも多くいました。
あらゆる地からエルサレムに来ていた人たちも多く居ました。
ですから余計に、助け合いを必要としていたのです。
なぜこのようなお話しをするのかと言いますと、この箇所を理想として読むことには多くの危険が伴うからです。
ああ昔は良かったなあ、と懐かしむ思いで読んでしまいますと、その後に展開していく主の救いの御業が見えなくなってしまいます。
言い換えると、例えば伝道集会を開いて、ここに書いてあるのと同じように、三千人もの人々が救われないと、失敗だとみなしてしまいがちです。
あるいは、常に共同生活のようなことをして、財産や持ち物を分け合わないなら、教会の本来の姿からかけ離れていると思いがちです。
でも、そうではなく、これはその時点の教会のありようであり、また多くある例の一つに過ぎないのであって、これを唯一無二の教会のあるべき姿として読むのは誤りなのです。
私たちが目を向けてしまいがちな読み方を、本来ルカが語ろうとしたことが見えてくるのです。

ペトロの伝道説教の最後に、彼はこう言って兄弟たちに訴えました、『だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです』(2:36)と。
使徒ペトロが長々と語ってきた説教の最終的な結論であり、一番語りたかったことです。
旧約の預言者たちのように彼は、個々人というよりもイスラエルという神の民全体を問題にしております。
それは一億総懺悔のように、反省しているようで、結局誰も責任を取らない、ということではなく、個々人が真の悔い改めに至るように、個々人の大本である人間そのものを問題にしているのです。
つまり問題を掘り下げて、根っこの深いところにメスを入れたのです。
言い換えれば、あなたがた神の選びの民が今まで散々神に逆らい、神の預言者たちを迫害してきた罪は、命の君であるイエス様を殺してしまう、というところにまで至ってしまったのだ、と言うのです。
私たちは誰も自分で責任を取りたがりません。
学者がこういったとか、実績がないとか、責任は自分の前からどかしてしまう。
生肉用だと言われたから、仕入れた などと言ってしまう。
事柄が大きいとなおさらのことです。
むしろ被害者になりたがる。
同情を買おうとするのです。
でも、預言者たちのメッセージの集大成として、ペトロは神の民の罪を主イエスの光のもとにさらして、そうだ、イエスを殺した責任はあなたがたにあるのだ、とはっきりと語りました。
「だから、日本のすべての国民よ、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。
この『あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです』という物言いは、これだけを見ると、まるでこの時初めて人間イエスが、神様によって主、またメシアにしてもらったような印象を受けるかも知れません。
実際、エホバの証人の人たちはそうやって読むのですけれども、文脈を辿れば、そうでないことが分かります。
言いたいのは、主でありメシアであるイエスを、あなたがたは十字架につけて殺してしまったのだ、ということです。
もちろん殺されたままではありませんで、復活され、天の王座に即位されたわけですが、しかし、殺した責任はあなたがた自身にあるのだ、とペトロは明確に告げたのです。


37節、人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と質問しました。
神の前に、向き直った真剣なたましいです。
人は皆神から離れ、好き勝手なことを行い、正しい者は一人もいないと聖書に書いてありますが、それに気付くものは幸いです。
神の子救い主イエス・キリストに対して手をかけて、十字架につけてしまった人の罪は、救い主を手にかけてしまった人の罪は、何によって赦されるのでしょうか。
しかし、この罪は、ユダヤ人だけのものではありません。神を受け入れず、神の御心よりも自分の願いを優先させることこそ、神に敵対することであり、キリストを十字架につけることなのです。
「私はどうしたらよいのでしょうか。」
神の前に、罪が示された人の言葉です。
パウロも、ダマスコの途上で主に出会った時、主を迫害していたと気付いた時、目が閉ざされて見えなくなった時、どんなにか絶望したことでしょうか。神に敵対して、自分はいったいどうしたらよいかと思ったことでしょう。
これに対するペテロの答えは、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」というものでした。
「悔い改める」とは、向きを変えて再出発するということです。心の方向を向け直して、新たに出発するということです。

最後に、ルカはこの大切なことを、『パンを裂くこと』(42節)という言葉で強調していると思います。
単に愛し合い、助け合いの精神が大事だ、ということではなくて、イエス様との交わりこそが教会を形作るのだ、ということです。
そのイエス様を分かち合うところでだけ、教会は教会としての存在価値を発揮するということですね。
だからパン裂きはとても重要なことでした。

使徒言行録に、使徒たちの力強い働きを見て、お金を積んでその能力を売ってほしいと
頼んだ人の話がありますが(使徒8章)、聖霊は、悔い改め、イエス・キリストの名によって洗礼を受けたすべての人に与えられる、神の賜物、プレゼントなのです。
あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも。
ユダヤ人にも、異邦人にも、という意味が伺えます。
神が招いて下さるものだれにでも。救いと聖霊は、与えられます。
ペテロは、力強く証しし続けました。そして、「邪悪なこの時代から救われなさい」と語りました。
不正な、よこしまな、曲がった時代。
神を信じ、主としてあがめ、神の御心に従うという、明確な意識のないところには、人の生まれながらの罪に従った世界が繰り広げられます。
人が見ていなければ、気づかなければ、何をしても構わないというまがった風潮がはびこる中、この時代から救われなさいと、ペテロは語りました。
ペテロの言葉を受け入れ、3000人が仲間に加わったとあります。
これは主が3年間の間に導いた数を超えるものだったのではないでしょうか。
聖霊により、弟子たちは、主の約束の通り強められ、地の果てまでも証し出来る者となりました。主がなしたよりも大きな御業に携わらせていただくものとなりました。
弟子たちは、教え、交わり、聖餐と祈りに熱心でした。

私たちも共に交わり、共に教えあい、聖餐と祈りを大切に主に喜ばれる歩みをしてまいりましょう。

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