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zoom RSS 主の復活の証人として 2011/5/1夕礼拝 言行録2:22-32

<<   作成日時 : 2011/05/05 10:47   >>

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先ほどお読みしました聖書の個所は、イエスの弟子の一人ペテロが、イエスの死後、初めて語った宣教の言葉です。
ここでは主に3つのことが語られていますが、その宣教の内容は、およそ2000年が経った今も変わっていません。
このペトロの説教に教会で語られる説教の全ての要素が入っているといわれています。

ここで、ペトロが語った説教のポイントをいくつかにまとめてみましょう。
ペトロはここで旧約聖書を引用しながら語っていますので長くなっているのですが、重要なポイントは次の3点になるだろうと思います。
勿論、詳しく分けていけば、もっとたくさんになりますが、重要なポイントは次の3点になるだろうと思います。

1.ナザレ人イエスは神から遣わされた方なのに、あなた方は殺した。
2.神はこのイエスを復活させメシアとした。
3.私達は聖霊を注がれたその証人である。

まず1番 エルサレムにいた人々にとって、主が十字架にかけられたのはつい40日前の過越しの祭の時ですから、多くの人が覚えていただろうと思います。
バラバを赦すのか、主イエスを赦すのかとピラトが問うた時に、群衆は自らの口で主イエスを「十字架につけよ」と叫んでいます。
きっと、ペトロのこの説教を聞いていた人々の中には、実際あの時に「十字架につけよ」と叫んだ人もいたと思われます。
その人達にとって、このペトロの罪の告発は、これは自分のことが言われている、そう思わざるを得ない大変厳しいものだったと思います。
しかし、これは何も主イエスを「十字架につけよ」と叫んだ人達だけの問題ではないのです。
主イエスをまことの神として受け入れることの出来なかった全ての人に対して、これと同じ罪を犯していると告げているのです。
「罪人」という言葉は、私共にとって決して気持ちの良い言葉ではありません。
一体、自分はどんな罪を犯したというのかと言いたくなる。
この罪人ということについて様々な言い方は出来ると思いますが、聖書はつまる所、私共の罪というものは、神の御子イエスを十字架につけた犯人であるということなのだと告げているのです。
確かに、私共は二千年前の主イエスを十字架につけたあの場面に居合わせてはいません。しかし、自分を造られた神様を崇めず、自分こそ人生の主人として生きている人は、結局、主イエスを殺した人々と同じ所で生きているということなのであります。
神様と敵対して生きている。
その敵対関係がもっとも具体的に示されているのが、神の御子を殺すという、あの主イエスの十字架の出来事なのであります。
ところが、神様はその主イエスを三日目に復活させられました。
そのことによって、主イエスが誰であるかということをお示しになった。
救い主、メシアとして明らかに示されたというのです。これが第二のポイントです。
もし、主イエスが十字架で終わったのならば、主イエスが救い主であるということは明らかになることなく、一つの昔話として、忘れられたことでしょう。
しかし、それは神様の御心ではありませんでした。
神さまは主イエスが誰であったのかということを、復活という人間の常識を打ち破った出来事によって、明らかにされたのです。
ですから、主イエスを十字架にかけた人々の罪は、神の御子を殺したということになるわけで、そのままに放っておかれるはずもない。
これを聞いた人々は恐れました。
そして、人々は使徒達に問うたのです。
37節「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか。」これは、どうしたら自分達は、自分が犯した罪を赦されるのか、どうしたら神の怒りから逃れることが出来るのか、そう問うたということなのでしょう。
ユダヤの人たちは、怒った神がいかに恐ろしいかと言うことを旧約聖書を通してよく知っていたからです。
弟子達が、主イエスは復活したということを告げると、それを聞いた人々に恐れが生じ、使徒達に救いを求めるという出来事が起きたのです。

さて、イエスの復活について、ひとつ不思議な出来事があります。
それは、イエスの遺体が無くなってしまっているという事実です。
もし、イエスの遺体があったなら、ペテロはこのような強烈なメッセージを語れないし、語り続けたとしても誰一人として信じる者はいなかったでしょう。
ペテロのこの宣言を完全否定する遺体があるのですから。
しかし、歴史を振り返りますと、未だかつてイエスの遺体が発見されたことはありません。
弟子たちを迫害し、何としてでもキリスト教を阻止しようとしていたローマ政府ですら、イエスの遺体を示すことができなかったのです。
なぜでしょうか。
イエスの遺体を厳重に管理していたのは彼らのはずです。
イエスの遺体を示せば、完全にキリスト教を根絶できたはずです。
しかし、彼らは最後までイエスの遺体を示しませんでした。
いや、示せなかったのです。
それは、厳重に管理されていたはずのイエスの遺体が、彼らのもとからこつ然と消えてしまったからです。
はたして、誰が、何のためにイエスの遺体を盗んだのでしょうか。
考えられる可能性は3つです。

@ 弟子たちが遺体を盗んだのか
墓の警備をしているのは、訓練された大勢の番兵たちであり、遺体を盗むためには、この番兵たちと戦わねばなりません。
元漁師など戦いに不慣れな弟子たちが、仮に遺体を盗むことに成功したとしても必ず死傷者が出るはずです。
しかし、その後も弟子たちは無傷で歴史の中に登場しています。
A 墓を管理していたローマ政府が隠したのか何のために。
キリスト教を阻止したいと願っていたローマ政府にとって、イエスの遺体を隠すことは自分たちの立場を不利な状況に追い込むことになります。
イエスの遺体さえあれば、復活を叫ぶ弟子たちの宣教を食い止めることができたはずです。隠す理由が全くありません。
B 聖書が記すようによみがえったのか
常識的に考えるとそのようなことが起こるはずがありません。
あの釈迦や孔子やマホメットのような人々ですら、よみがえらなかったのです。
しかし、イエスは自らを人間とは言わずに、神の子と紹介されました。
イエスが神の子かどうかを論じる上で、はたして人の常識がどこまで通用するというのでしょうか。
一方、科学的にイエスの復活を再現し、証明することはできません。
復活を匂わせる数々の状況証拠があります(遺体が消えた事実、福音(十字架と復活)を命懸けで伝えた弟子たち、500人以上もの人々が同時に見たという目撃証言、礼拝する日が日曜に変更になった、迫害下の中でも爆発的に増えた信者・・・)。
これらの状況証拠をつなぎ合わせていく時に、何が浮かび上がってくるでしょうか。
弟子たちは、はっきりと証言しています。「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません」(使徒4:20)。

では、イエスがよみがえった事実は、私たちにどのような意味をもたらしているのでしょうか。
それは、これまでイエスが語ってきたことがすべて事実であったということです。
イエスが語ってきたメッセージは、主に3つにまとめることができます。
第1に、「すべての人は万物の創造者である神とその教えから離れて自分勝手に歩んでいるので、神のおられる天国には決してたどり着くことはできない」というものです。
私たちがどんなに言いわけしようと、私たちの心の中まで知っておられる神は、はっきりと言われます。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉(天国)を受けることができない」(ローマ3:23)。
第2は、「しかし、それでも神はなお人を愛され、救おうとされている」というものです。そのために神はご自身のひとり子イエスを救い主として世に遣わし、私たちすべての罪をイエスに負わせ、十字架の上で身代りに罰を受けさせたのです。
神はあなたを愛するあまり最愛のひとり子を犠牲にするという愚かな道を選ばれました。ここに神の驚くべき私たちへの愛が示されています。
聖書は言います。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)
第3は、「誰でも、私を信じる者は、私と同じようによみがえり、神と共に永遠に生きる」というものです。
イエスは語られました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)。

イエスがよみがえられたことにより、私たちはこれまでイエスが語ってこられたことが、すべて事実であったと知ることができます。
それゆえ、この地上にあって、自分の救いをこの目で確認することができなくても、私たちは確信を持って生きることができるのです。


主の復活は、決して、私たちと無縁のものではありません。
いやそれどころか、イエスの復活は、私たちに生きる道を示し、私たちの救いを確証する、私たちの人生にとって最も大きな出来事なのです。
クリスマスよりももっと重大な出来事だと言えるでしょう。
救い主イエスはよみがえられました。
さあ、私たちも共にこの復活を喜ぼうではありませんか。
人間の想像をはるかに超えた 神の御心を証ししたいと思います。

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