日本ナザレン教団 成田キリスト教会

アクセスカウンタ

zoom RSS − タイトルなし −

<<   作成日時 : 2011/04/22 23:24   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0





「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。」。
4つの福音書すべてがこのことを記録しています。
この当時、十字架刑は最も残酷な刑の一つでした。
十字架では手と足に、太くて大きい犬釘を打たれ、地面から約1mの高さに、宙づりにされやがて叫びをあげながら死んでいきました。
首をはねられれば一瞬で死ぬことができますが、十字架刑は出血多量で死ぬまで時間がかかりました。
こういう生き地獄のような状況ですから、死刑員たちの精神状態たるや、半狂乱のごとくであったと思われます。
その現場に主イエスとは別に同じ日に死刑が執行される二人の男がいました。
死刑員たちの心の変化を詳細に記録しているのはルカ書です。
主イエスを真ん中に右側と左側に十字架刑の男たちがいました。
マタイとマルコ福音書では、この二人を「強盗」と説明しています。
現代の言うところのテロリスト、政治犯だったかもしれません。

ルカ23:39
「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
人間殺気立つと他者に攻撃的になることがよくあります。
それも自分に罪があると罪のない様子のイエスを見て癪に障ったのでしょうか。
犯罪者なりに、イエスと言うナザレの男に救い主としての期待をしていたのに、裏切られた、という思いがあったのかもしれません。

イエスは「自分を救えない救い主」と嘲笑されます。
人々がイエスに求めたのは、栄光の救い主でした。
力によって敵を打ち倒し、人々の尊敬と信頼を勝ち取って、自ら道を切り開いていく救い主です。
人々は、病人をいやし、悪霊を追い出されるイエスの行為に、神の力を見ました。
力強い説教に、神の息吹を感じました。
神の力があれば、自分たちの生活を豊かにしてくれるに違いないと人々は期待し邸他のです。
しかし、イエスは救いとはそのようなものではないと拒否されます。
期待を裏切られた人々は怒り、イエスを十字架につけます。
「民衆は立って見つめていました」(23:35)。
私たちもまた民衆の一人として、その場にいます。
私たちもまたイエスを嘲笑する人々の中にいます。

全ての人が自分を嘲笑する中で、イエスは祈られました「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(23:34)。
イエスは自分を嘲笑する人々を恨めしく呪うのではなく、その赦しを神に祈られます。
私たちは不思議に思います。
何故、この人はこのような祈りをされるのだろうか。
神の子だから出来るのでしょうか。
聖書は、イエスが激しい葛藤の末に、この言葉に到達された事を隠しません。
捕らえられる前の晩、イエスはゲッセマネで祈られました「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください」(22:42)。

しかし、イエスは続いて祈られます「しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください」。
死にたくない、辱めを受けたくない、それは人間が普通に持つ感情です。
しかしそれがあなたの御心なら従っていきますという決意です。
人間としての思いと神の子としての思いが葛藤し、「汗が血の滴るように地面に落ちた」とルカは記述します。
その試練に勝たれたゆえに、今イエスは、自分を殺そうとする者たちのために、祈ることが出来るのです。

ところが、ルカは一つの、しかも大きな変化を見逃しませんでした。
彼はここに驚くべき記録を残したのです。
それは囚人たち二人の両極端の変化です!暗闇と光。
このことは他の福音書記者は記録していません。
それは・・・一人がイエスをののしるや否や、もう一人強盗が声を荒げ、その罵りを制したのです。
「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。」
イエスを神と呼び、そしてこのように続けたのです。42節。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」
罪びとの精一杯の信仰告白です!しかしこの二人、あまりにも明暗が違いすぎです。
話が旨すぎです。他の福音書は二人がののしったとだけしか書かれていません。
この変化はルカ書だけです。

ルカ23:33を見てください。「そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
磔刑にかかる直前の二人は、確かに、にわかには信じられない声を聞いたのです。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
この言葉は、注解書によればこれは、十字架に関わったすべての人間のためへの大祭司の祈り、とりなしの祈りだとありました。
すべての人間です。
服をクジで分け合っている目の前の兵士だけではなく、
十字架に付けろと言った群衆だけでなく、
主イエスの十字架のきっかけとなったファリサイ派、律法学者だけでなく、
ホサナと叫んだすべての群衆。
十字架につけろと言った民衆。
そして十字架の上の犯罪人。
そして・・・私たち・・・つまり全人類です。

棕櫚の主日に主イエスを迎え「ホサナ」賛美しました群集は、その同じ唇で一斉に「殺せ!十字架につけろ!」と叫びました。
人は賛美する口で神を、友を呪うことが平気でできてしまう。
主イエスはそんな人類のために、十字架の上で執り成し祈ったのであります。
二人の男はその祈りの声を聞きました。しかしどうでしょう?一人の男は聞いただけです。
だからののしり続けました。
「殺せ!殺せ!」と。
しかしもう一人の男。この男は、その言葉に涙し、感動し、悔い改め、そしてその御言葉に受け入れたのです。
だからののしりの声がこう変わりました。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」するとイエスは・・・「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。」
この変化を知って私は気づかされます。
信仰は確かに二種類あると。
ただ耳に聞くだけの信仰と、信仰に生きるという信仰です。
その二つはまるで天と地ほどの違いがあるのです。

イエスが十字架で苦しんでおられた時、弟子のペトロはそこにいませんでした。
自分たちも捕らえられ、殺されることを怖れて、遠くから見ていたのです。
そのペテロが何故、十字架こそ救いであると言えるようになったのでしょうか。
もしイエスが、私たちの期待通り、その力を示して十字架の縄目を破り、下に降りて、罪ある人々を裁かれたら、どういうことが起こったでしょうか。
「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう」と言う祭司長、律法学者たちは、真っ先に裁かれるでしょう。
そしてイエスの救いは、イエスを信じ、イエスに仕える信仰者たちに与えられます。
しかしどこにその信仰者がいるでしょうか。
弟子たちはイエスを見捨てて逃げています。
彼らも救いの対象にはならないでしょう。
私たちも群集との一人として、イエスをののしっています。
私たちも救いからはずされます。
正しい者だけが救われるのであれば、救われる人は誰もいなくなります。
だから、イエスは十字架で人々からの嘲りを全て引き受けることによって、ご自分を打たれ、私たちを救おうとしておられるのです。
イエスは十字架の苦しみと死をご自分の身に引き受けて、その代わりに私たちの赦しを父に願われたのです。
「父よ、彼らをお赦しください」。この“彼ら”とは私たちであり、何をしているのか知らないのも私たちだということになります。
このイエスの祈りによって、私たちに救いの道が開かれました。
ペテロはそのことを、身をもって体験したのです。
イエスを裏切り、見捨て、逃げたペテロは、もう救われる価値はないと思っていました。しかし、復活されたイエスはそのようなペテロに現れ、彼を赦し、さらには信徒の群れを委ねられました。
だから今、ペテロは告白することが出来るのです「この方は十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担って下さいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」。
ペテロ自身がまさに、イエスの「お受けになった傷によって、いやされた」のです。
十字架の傷によるいやしこそ、救いなのです。
私たちが与えられる救いはイエスの十字架の上に立っています。

月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
− タイトルなし − 日本ナザレン教団 成田キリスト教会/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる