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zoom RSS 命を結ぶ 2011/4/3 Tヨハネ5-6-12

<<   作成日時 : 2011/04/03 21:09   >>

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1+1はいくつでしょうか。
算数的な普通の考え方でいえば、応えは当然2です。
なぞなぞだったりトンチクイズなら別の答えがあるかもしれません。

しかし、世の中はなかなか、そのとおりになるとは限りません。
東日本大震災、福島原発の事故の為に長期広範囲にわたる影響が懸念されます。
例えばこのために皆で祈る力、応援しようと思う心は、必ずしも1+1は2ではありません。
これはプラスになる場合です。
逆に買占めをする場合などは1+1が暴力的に増えてしまうということもあるかもしれません。
世の中はこのように、必ずしも頭の中だけで計算したとおりになるとは限らないものです。

或いは、正解は必ずしも一つではない、と言うこともあります。
安全でかつクリーンな発電であるはずの原子力発電。
しかし一旦事故が起これば、人間にはだれもとめることができないものとなってしまいました。

いろいろな人がイロイロなことを言って、何を言っているかわからない。
何を信じたらいいのかわからない、そんな状況ではないかと思います。
マスコミも、誰に何を聞けばいいのか、専門家が少ない中、推進派と反対派、それぞれの立場がある中、自分の責任をできるだけ軽くするために都合のいい情報だけが外に出てくる。
震災のショックだけでなく、二次的、三次的な人間不信になってしまう、そんな状況が避難地域では起こってきています。

本当に心が痛みます。
1日も早い復興と、全ての事態が落ち着き、平常戻ることができるように祈り続けて生きたいと思います。

さて、
私は 高校生の時に教会に行き始めました。
他の教会に通う友人が「主イエス信じて永遠の命が与えられて感謝します!」っていう祈りを耳にしました。
死んでも生きる命。
とても、自分の頭では理解できない、つまり受け入れられないことでした。

よく、止まない雨はない、と言います。
地球が生まれてから、一度も雨がやまなかったことはありません。
必ずいつか止む。

逆に、一度も永遠を知らないのに、ましてや 生まれて十数年しか立っていない高校生が、永遠の命 などということを語ってもいいものだろうか。
と違和感を覚えたのです。

岩崎恭子という水泳選手が1992年のバルセロナオリンピックで金メダルを取ったとき「いままで生きてきた中で一番幸せ」と言いました。
大人たちは感動と同時に、そのコメントに笑いました。
中学2年生の人生なんて短すぎる、という思いからでした。

永遠の命ってなんでしょうか。
実際、未信者や救われたての人に「永遠の命って何ですか?」って質問されたらどう答えればいいでしょうか。
自分の人生さえ全うしていないのに、永遠などどう

「永遠の命」このことについて11-12節に明確に説明されています。
永遠の命とは、御子の内にある、つまり主イエスの命こそが永遠の命だということです。
その主イエスの命が私たちの内にあるのです。
長老ヨハネは13節でこの手紙を書いた理由を書いています。

それは、私たちがもう既に、つまり主イエスを信じたときに永遠の命を得ているということをわかってもらうためだと書かれています。
この箇所を味わえば味わうほど、凄いことだと思わされます。
主イエスの命が私の内にあるのですから。
主イエスが私の内におられる。
これはものすごいことです。
しかし同時に思わされます。
この主イエスの命にどれだけ信頼しているでしょうか。

古い私は十字架で死にました。
今、私は新しくされ、主イエスの命が私の内におられ、その命で生かされているのです。

その命に信頼するとき、身を任せるとき、私の内で命が満ちて、ご自身を現わしてくださるのです。


私はただ主イエスの命に身を任せるだけ。
私が主イエスのために出来ること、何もないです。
主イエスと一緒に生きているのではなく、主イエスが歩まれた足跡を歩ませていただいているのです。

主イエスの命の流れに身を任せたいと思わされています。

長いこと生きていますと、様々な不安や恐れ、心に沸いてくることがあります。
ストレスとして自分自身をさらに苦しめます。
しかしそれは沸いてくるだけで、何の害も及ぼしません。
自分で何とかしようと考えるから、
あるいは、自分で何とかできると考えてしまうから、自分で自分の首を絞めてしまうのです。

だからと言って、自分からは何もしない、と言うのではありません。
自分でできることは自分でして、後は主にお任せしてしまえばいい。
私は主イエスの命で満たされ、主イエスの中に安息しているから、後は全て神様が責任を持って最善へと導いてくださるのです。
それを受け入れ、それに従えばいいだけのことです。
たまには、自分の思いと違う結果が示されることもあります。
それを思い悩むと、また元に戻ってしまいますから、そのことも受け入れる。

人生は、ある意味綱渡り状態です。
下を見たら恐れるのは当然です。
実際、綱を渡っているのは私じゃなくて主イエスだと思えばいいのです。
私は主イエスの内で主イエスにお任せしているだけ。
主イエスは私をどのようにこれから導かれるのでしょう。
そう思うとわくわくしてきます。
すべては主の御手の中だから主に全く信頼するだけです。

この、第一ヨハネが書かれた当時、グノーシス主義というギリシャの哲学的な考え方がありました。
霊は聖なるもので義、肉は俗なるもので悪、そんな相反するものと考える二元論から成り立っている考え方でした。
その論理から言うと、もしイエスが神であるなら、人間の姿をとるはずがない、
つまり人間の姿で現れたならそれは神ではない、という考え方でした。
そして神が目に見える肉体をもって地上にこられた(受肉)ということを否定しました。
そういう背景があって、受肉、つまり霊の神さまが、肉の人間の姿でこられた、という真理を改めて主張しているのです。
そして、そのイエス・キリストは、神の子であるというしるしとして、ご自身バプテスマを受けられました。
それは「水」によってです。
さらに、十字架上で「血」を流して私たちの罪を全て清めてくださった、という意味で、「水と血」という言葉で、霊なる神さまが肉体をもつ人間となって来て下さったことを示しています。
そしてそこに本当の救いがあるのです。
キリストがバプテスマを受けたというのは理解しがたいことではないでしょうか。

バプテスマは罪の許しのために受けるものであって、罪のないイエスさまが、洗礼を受ける必要はないだろうと思われます。
しかしそれは、罪なきイエスさまが洗礼を受けるという行為によって、やがて罪人となって十字架で神の罰を受けるのだということを前もって示した行為であり、「水と血」による受肉の福音にはそういう意味があります。
だからこそ、私たちの救いは確かなものであるといえるのです。
また、この箇所を三位一体の考え方を説明している、と主張する人も居ます。
霊、水、血という言葉は信仰を意味してますので
同じと考えてもよいと思います。
水は悔い改め
血はキリストを信じる事
霊はイエスの霊になりますから
三位一体を頭で理解するのは難しく、正しいといえるのは霊があり、水、血 であり、これが一致している。
だから私は水を信じるが霊を信じない、と言う事は言えません。
神は信じるがキリストは信じない、あるいはその逆もない事になります。
聖霊はわたしたちのうちに宿り、わたしたちをうちから清めます。
水と血は私たちの内にありますが、水、すなわち洗礼によって、血、すなわち聖餐によってわたしたちを清めるものです。

キリストを内に宿す
イエス・キリストの十字架の愛と復活の記念である聖餐式のパンと葡萄酒をいただく
ことでキリストの愛の内に入れられ、永遠の生命を約束されるのです。
しかし、それは何かおまじないのようにそういう効果があるのかというとそうではありません。
そんな、世間によくある、お大師さんのお水をいただいたら病気が治るというようなものではありません。
本当はイエス様の愛を信じ、愛にお応えする、愛というものは受け入れてはじめて有効になるということです。

神の愛に委ねてまいりましょう。

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