日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS ここに愛がある  2011/3/20 Tヨハネ4:7-20 

<<   作成日時 : 2011/03/27 18:39   >>

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今から13年前、私は仙台に転勤を命じられました。
仙台に着任して新人研修をしていたとき、現地採用の仙台生まれ仙台育ちの女子社員より、「もうすぐ地震が来ますよ。大変な時に仙台に転勤できましたね」と言われました。
仙台の人たちは、地震がもうすぐ来ることを知っていましたし、その教訓は震災を知らない若い世代にきちんと受け継いでいたように思います。

しかしながら、津波に対する認識が甘かったというか、人間の想像をはるかに超えた自然の猛威が津波という形で襲い掛かってきたのだと思います。

自動車がまるでプラモデルのように流され、屋上や屋根の上に乗ったままになっていたりする映像を見ました。
公営団地の5階部分まで水位があったことがわかる跡がつけられていたところもありました。
この高さまで防波堤を築いていれば、自分たちの生活圏は守れるだろう、人間の知恵と技術によってその高さは定められました。

私たちの常識をはるかに超えた地震と津波が襲ってきたというほかにない出来事であったということだと思います。


さて、私たちの常識では、信仰とは私たちが神を愛することから始まると考えます。
しかし、聖書は信仰とは神が私たちを愛してくださったことから始まると教えています。

聖書に書かれている「愛」という表現は4種類ありますが、ここでいう愛は神様が一方的に世を愛する愛「アガペー」です。

アガペーの愛は、「愛される者のうちにその理由が見出され得ない愛」とか、「愛される価値のない者を愛する愛」などと言われることがあります。
愛する側の態度は、「あなたは愛する価値がありますよ」と断定する主体的な動作を意味します。
この主体的な価値判断という愛は、神の人間に対する自由で慎重な選びの愛において始まったと言えます。
私たちが人々の目に価値のない者として映っても、神は私たち一人一人を尊重し、「価値ある者」と認めて下さったということです。
このような神の愛は、神への反逆と罪の汚れの中にある人間に対し、イエス・キリストを通して具体的に現されました。
第一ヨハネ4 章9 節にはこうあります「 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
神の愛はキリストによる十字架と、キリストを信じる信仰者の救いの確かさという点において明らかにされています。
わたしたちが愛されたとは、私たちの罪をあがなういけにえとして御子が遣わされたことだと長老ヨハネは言うのです。

神は人類の救いのために慎重にお考えになり、計画して御子イエス・キリストを立てて下さいました。
また御子を信じる者たちをあらかじめ定めて下さいました。
そして私たちにイエス・キリストを信じる具体的な信仰を与えて下さり、その信仰に基づいて神は御自分の約束を誠実に果して、私たちの罪を赦し,神の子としての祝福にあずからせて下さるのです。
神が世界を創造し,その中を被造物で満たされたということの中に,神の創造的な愛があります。
創造の冠である人類の堕落に対して十字架の救いと回復のわざを担われたキリストの中に、神の再創造の愛、不変の愛を見ることができるのです。


加藤常昭先生の説教を学んでおりましたら、この箇所の所にこのようにありました。

ある英語の注解書に「ハイウオーターマークが記されている」とありました。
ハイウォーターとは大水です。
神の愛があふれるとここまで来る、という意味だというのです。
私は神の愛には限界はないとは思いますが、無限の愛 などと言ってしまうと、逆に見えにくくなってしまう。
自分の愛の常識は、このくらいだったけれど、実際にはそれをはるかに超える神の愛のレベルがあり、それは、しっかり刻まれている。
たまにその印を見て、神の愛の大きさ、力強さを知るというのです。


人は自ら神から離れてしまう罪のゆえに目が「愛」なる神様から離れ、生きる目的を見失ってしまいます。
また、神様から離れた人間は「愛」を忘れ、罪を犯し続けています。
「義」なる神様は罪を犯し続けている私たち人間を裁かずにはおかれません。
しかし、神様は、なおも私たちを愛してくださり、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子、主イエスをこの地上に遣わしてくださいました。
そして、私たちの身代わりに、主イエスを十字架上であがないの供え物としてくださったのです。
ここに真実の「愛」があります。
私たちは、この神様の「愛」を受け入れるべきです。
このお互いに愛するということは、その愛は人間から出る愛を言っているのではありません。
つまり、“愛は神から出るもの”であり、真のキリスト者はその神の愛をよく経験し実践しており、またその愛をくださる神様を知っている人なのです。
愛 することの出来ない者は神を知らないのです。
キリスト者であっても、清い心と愛の心がないならば、その人はまだ神を知らない者であるというのです。
なぜ ならば、「神は愛である」からです。
神のご本質である愛を受けていながら愛なき者は神を知らないのです。
岩波訳の聖書では、「愛さない者は神を知ったことがない」と訳されています。
つまり、神様のことがよくわからない。
愛の側に属していないということなのです。
神様の本質は愛そのものであり、その愛をどのよう な方法でわたしたちに現わしてくださったのでしょうか。
今の時代は、多くの人がその事を知らず、自分勝手に、自分のためだけに生きようとしています。
しかし、そのような生き方は、生きているのではなく、まさに「滅んでいる」状態だというべきかもしれません。
人として、本来の生き方を生きようとするならば、神に創られた者として、神の意図に立ち返り、神がそうであられたように、愛に生きることが求められているのです。
それが本当の意味で「生きている」ということなのです。




私たちは、確信をもって「神は愛である」といいたいと思います。
その愛がここにあります。
こことはどこでしょうか。
こことは紛れもなく、ここだということです。
神が愛です、愛が神ではありません。
私たちが人間的な愛を示した、ここに神があると錯覚してはなりません。

「愛する者たち、互いに愛し合おうではないか」ということは「さあ、神を知ろう、神を礼拝しよう」ということです。
神を拝むことは、一人でもできるかもしれませんが、それだけでは不十分です。
それだけでは、キリストイエスの愛における神を知る道ではありません。
「神のみ前にでよう」と同様に「共に愛し合おう」が伴わなくてはなりません。


同じ日本という国に生まれ、ほんの少し住んでいる場所が違っていただけで、家族も家もなにもかもを失ってしまった人たちがあります。
必死に家族を守りつつなくなった方もありました。



前奏の為に選びました曲は聖歌397です。賛美歌21にも掲載されています。
作詞・作曲をしたJ.V.Martinは、大阪市立高等商業学校(現 市立大学)の英語講師として大阪に住んでいました。
関東大震災のこの日たまたま東京に来ていて被災しました。
マーチンは被災者を見舞うために明治学院大学を訪れました。
そこで深い悲しみの思いを抱いて、瓦礫と化した街を通りながら、その絶望と悲しみに包まれたグランドで、輝く十字架を目にしたのです。
暗闇の中に浮かぶ十字架でした。



遠き国や、海の果て いずこに住む民も見よ
慰めもて、かわらざる  主の十字架はかがやけり
慰めもてながために  慰めもてわがために
揺れ動く地に立ちて  なお十字架は輝けり

水はあふれ火はもえて  死は手ひろげまつまにも
慰めもて変わらざる  主の十字架はかがやけり
慰めもてながために  慰めもてわがために
揺れ動く地に立ちて  なお十字架はかがやけり

仰ぎみればなどおそれん  憂いあらず罪もきゆ
慰めもてかわらざる 主の十字架はかがやけり
慰めもてながために  慰めもてわがために
揺れ動く地に立ちて  なお十字架はかがやけり


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