日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 真理の霊に生きる Tヨハネ4:1-6  2011/3/13

<<   作成日時 : 2011/03/14 20:27   >>

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東日本一帯を襲った大地震から二日目の朝を迎えました。
世界一地震に対して研究熱心で、備えていたはずの日本が、その予想をはるかに超えた自然の力に、どうすることもできなかったという惨事だとおもいます。
幸いにも成田教会は食器棚のガラスは外れ、食器が飛び出して割れた程度でライフラインも遮断されませんでした。
私は知りませんでしたが、加良部小学校を避難所として夜を明かされた方が多くいらっしゃったようでした。

さて、みなさまのお祈りに支えられ、先日の年会において按手礼を受けることが出来ました。
私が按手礼を受けるために準備した論文は、「聖なる方向性」に関するもので、聖霊の次元についてした。
霊には方向性があり、どちらからか私たちの目に見えない方向からやってくる、明らかに体感し、どこかにながれていく、というものでした。
それは縦でも横でも上でもない全く人間には感じない高い次元から聖なる霊は神から私たちに向けてまっすぐ出ている、と論じました。


聖書は霊の存在を前提としています。
創世記の人間創造の記事で、土くれから作られた人間の鼻に神様が息を吹き込み、それで人は生きるものとなったという記述があります。
ここに記されている「息」という言葉はヘブル語でネフェシュといいます。
このネフェシュは「霊」とも訳されています。
霊が離れるとき人間の息は止まり、また元の土にもどります。
霊によって、人は生きるものとなる。それが聖書人間観です。

ヨハネは、霊には神様から出てものとそうでないものがあるといいます。
この背景にも教会を混乱させてきた偽教師、偽預言者たちの教えがありました。
彼らは自分たちが優れた霊能力を持っていると騙っていました。
きっとこの偽教師や偽預言者たちというのは魅力的な人たちだったのでしょう。
世の中には、アイドルと呼ばれる人たちがいます。
アイドルというのは偶像のことです。
彼らの仕事は人に夢を与えることです。
ひとときの安らぎや夢を見させてくれます。

昨日より東京ディズニーリゾートは休止だそうです。
21日をめどに再開の時期を考えたいということでした。
阪神大震災のときに、どうであったか私は知りませんが、1日休園にするということは莫大な売り上げ減ですし、従業員の給与補償を考えると大きな損失です。
私が知る限り過去において計画的な休み以外で何日も連続して休園にしたのは天皇崩御の時だけだそうです。
夢の国には休みがないからだそうです。
実際には埋立地であるがゆえに駐車場が液状化現象になったということや、
突然の地震に乗り物の安全が確保できるかということが挙げられると思います。
それでも営業してしまおうという顧客無視の利益重視でない経営態度が伺われます。
11日の晩は、自分自身も自宅に帰る事の出来なかったスタッフが園内にのこされたお客様のために笑顔で接待をしたそうです。
あくまで夢の国の出演者に徹したということでしょうか。
比日常を売ることがサービス業であるということかもしれません。

時としてストレス社会を生きる私たちにはそのような非現実が必要なのだろうと思います。
しかし、それは現実を生きているからこそ価値あるものなのです。
悲しいかな、まやかしであることがわかっているから楽しめるものでもあります。
聖書の中には、生々しい人間の現実が記されています。
特に旧約聖書のイスラエルの歴史の中に、福音書に記されている弟子達の中に、人間の弱さ罪深さ、愚かさや醜さという現実がはっきりと記されています。


偽預言者たちは、そのような人間の弱さや罪深さ、愚かさや醜さを持っていないかのごとくにふるまいました。
だからこそ彼らは、主イエスが肉体を持って世に来られたということを否定します。
それは、彼らにとって肉体は人間の弱さの象徴だからです。
神の子がそのような弱さを身にまとうはずがない、と彼らは考えていたのでしょう。
しかし、神様の霊が私たちに示してくださるように、主イエスは肉体という弱さを持って世に来られました。
そして、人として、人が経験する傷みや苦しみを経験してくださいました。
それは、主イエスが私たち人間の罪を負ってくださるために必要な道のりでした。
主イエスご自身は罪を犯されませんでしたが、人の罪のために主イエスはののしられ、侮辱され、裏切られました。
そのようにして傷みと苦しみを通して主イエスは人間の罪を背負ってくださいました。ですから、主イエスが肉体を持ってこられたということを私たちに示す霊は、私たちに罪の現実をも示す霊なのです。

ヨハネは気をつけることについて、その教え自体よりもその背後にある霊に気をつけなさいと教えています。
つまり、意図的に神様から引き離そうとする存在がいるということです。
ということは、私たちは自分の失敗と同時に、自分を神様から引き離そうとするものに対しても気をつけなければならないということではないでしょうか。
問題はことが起こるその裏側に存在するものということになるでしょう。
結果的に同じ失敗に見えても、そこに働く神様から私たちを引き離そうとする存在があるかないかで、まったく違うものになるということです。
だからヨハネは、霊に気をつけなさいと言ったのです。
1節「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうか確かめなさい。偽預言者が大勢世に出ているからです。」
この「確かめなさい・試しなさい」(ドキマゾー)は、その的確に判別し認識することです。
キリストを内に宿し、キリストの内にあることを認識できるのは神から賜わる霊である。
それが無いとすれば、それは神から出たものではなく、偽預言者から出たものである。なぜでしょうか。
ヨハネはこの見分け方も教えています。
2節「イエス・キリストが肉となって来られたということを、公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。」
3節「イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。」
まず一つ目の見分け方は、イエス・キリストのことを否定しているかどうかというポイントです。
神が人間となってくださった、そしてこの世で生きて下さる中で義を貫き、何の汚れもない生贄として十字架にかかって下さった、このことを否定するということは、これ以上ない犠牲を払ってまでも愛を示された神様の愛を拒絶することになるでしょう。
だからこれを受け入れるかどうかが見分けるポイントになるのです。
神様の愛を知っている者にとってこれだけは、愛を知っているがゆえに否定できないものではないでしょうか。
そして、二つ目の見分けるポイントは、5節「偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。」
つまり、偽者は、真理に属する私たちのいうことに耳を傾けない。
聞こうとしないのです。
ということは、私たちにとって、聖書の言葉に耳を傾けないかどうかが問われているということではないでしょうか。
御言葉に教えられ戒められ支えられていく歩みは、何によりも確かな道なのです。
そして、二つ目のポイントはそれだけではなく、彼らの話の内容に注目することでも、神様から離れていることが分かると言うのです。
世に属し神様の恵みによる救いを否定する彼らは、世が受け入れやすい話をしているというのです。
神様が人間になるなんて考えられないとか、死んだものが生き返るなんてありえないとか、理解できないことは受け入れなくてもいいと考える世は、受け入れやすい話だけしか話さないし聞かないということです。
結局は、御言葉に対する態度に表れるのです。
物事を見極める時、ぜひ、このポイントで見極めてもらいたいと思います。
まず、キリストを否定するものかどうか。
そして御言葉に耳を傾けているかどうか。
へりくだって御言葉に従っているかどうか。
これに反するものはすべて神様からのものではありません。

実は、論文を書いていて、パタリと筆が止まってしまった事がありました。
「神の次元」というのを幸福の科学や創価学会などでもその教義としていると知ったからです。
自分の考えている聖化についての考え方がさももっともらしく語られているかと思うと苛立ちを覚えたのです。

偽情報というのは、あたかも本当のように語られるから余計に厄介なものです。
市原で起きた石油コンビナートの火災で、水蒸気や煙の中に有害物質が溶け込んでいるから雨に当たらないようにというデマがインタネット上を駆け巡りました。
伝える人は、善意で伝えます。
しかし真実ではありません。
真実から出ていないからです。

かつて、マルクスという経済学者・哲学者は「宗教はアヘンである」と批判をしました。宗教によって惑わされ、現実が見えなくなることはあるでしょう。
昨今の新興宗教をみても、周りが見えなくなることも、そして、自分自身を見失うこともあるでしょう。
しかし、神様を信じるというのは現実と向かい合う力をいただくことでもあるのです。私たちに作り出した偶像は、非現実によって私たちにひとときの夢と、それによって現実を生きる力を与えてくれます。
それは確かなことです。
しかし、時としてそれはアヘンのように私たちの感覚を鈍らせ、非現実から非現実へと現実逃避の人生に私たちを誘うこともあるのです。
そして、偽預言者たちはそのような道に人々を誘いました。
人を惑わす霊は時として魅力的です。
私たちは厳しい現実よりも、惑わされることを望むからです。

しかし、真理の霊は、私たちに真理のみを示します。
それは、厳しい現実と向き合うという恐れを私たちに抱かせるでしょう。
けれども、真理の霊は逃れの道を用意してくださっています。
その逃れの道は現実逃避するための単なる逃げ道ではなく現実を乗り越える道です。
困難を切り開く道です。
主イエスが共に歩んでいてくださること、孤独ではないことを真理の霊は教えてくれるからです。


最後に4節「子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。」もう既に勝ったと言われているのだからとうかれて気を抜いてはなりません。
もしそうならば、気をつけなさいとは教えないでしょう。
気をつけて見分けていくと共に、もし世のものが入り込んできても恐れる必要はないということではないでしょうか。
私たちのうちにいる方は世にいる者よりも強いのです。
神様の御思いだけが成っていくことを信じましょう。
そして、私たちはへりくだってこう祈ろうではありませんか?
主の祈りの中で祈っているように、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。」と・・・。
この祈りにこそ、私たちの謙遜が表されています。
さて、愛し合うということが教えられている真ん中に、この見分けることが勧められていることを思う時、私はどうしてもエフェソの教会を思い出してしまいます。
よく忍耐し疲れず偽者を見破ったけれども、愛を忘れてしまったという神様からの警告を思い出すのです。
どうしても持っている私たち人間の弱さなのだと思います。
間違いを指摘した時、全人格を否定してしまう。
何か問題があったときも、どうしても裁いてしまう。
見分けるその心にはいつも愛を持っておかなければならないのです。

心に愛をもって歩んでまいりましょう。

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