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zoom RSS 誠実な愛 Tヨハネ3:18-24   2011/2/27

<<   作成日時 : 2011/03/14 20:22   >>

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有言実行という言葉があります。

もともとは「不言実行」という言葉をもじって作られた言葉のようですが、恥ずかしい話ですが、わたしはこの不言実行という言葉が元の言葉であると言うことを知りませんでした。
「不言実行」とは、口はうまくないが実行力のある者に対して、肯定的な意味合いで用いられることが多い。とありました。
いわば、ほめ言葉です。
その対義語であるとされる「有言実行」とは、どうなるでしょうか。
言ったからには、実行しなければなりません。

最近では、マニフェストなることばで選挙公約を言い表しますが、元々は所信表明演説を指していたそうです。
語源はラテン語の「手(manus)」と、「打つ(fendere)」からきているそうです。

宣言書・声明文の意味で、個人または団体が方針や意図を多数者に向かって知らせるための演説や文書である

もし私たちがこの教えを語るなら、18節「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」と言う教えを、真剣に受け止めなければならないでしょう。
大切なのは結果だけではありません。
むしろ、その過程においてしようとしたかどうかが一番求められているのです。
なぜなら20節に「心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存知だからです。」とあるからです。
結果は心に責められるものだったかもしれない、しかし、その心にはこの御言葉に従おうとする思いがあったと神様には分かるというのです。
私たちは自分の力だけで何事もしなければならないのではありません。
むしろ神様が成してくださるのです。
私たちがおごり高ぶらないためにも、神様の助けの中で、私たちをご自身の業に携わらせて下さるのです。
世があなたを憎むまでもなく、私たちの側で、愛をあきらめてはいけないのです。
そして22節「神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。」このように告白しようではありませんか。
そのためには、父なる神様に愛されている経験を沢山する必要があります。
愛するとはどういうことなのか。神様の愛を受けて学ぶ必要があります。
神様の愛の内にとどまり続けましょう。そして、神様に私たちの内にとどまっていただきましょう。
その時、私たちの間に愛し合う関係が見事に建て上げられていくはずです。
その時、私たちはお互いの愛を通して神様が共におられることを感じるでしょう。

私たち人間はそれぞれどれだけ多くのものが欠けているかということを自分でよく知っています。
しかし聖書の力ある言葉は、内側に引き下ろすことではなくて、様々な人間的な悲劇的なことを承知しつつそのままで放置してはいないということです。
人間は愛に向かって解放されているのです。
だから私たちは、神の愛にすがって、信じて「行いと真実とをもって」疑わずに愛へ向かうことです。その時、神に基づいてですが、時間と空間の中で、「心と口と手をもって」何事かが起こるのです。
そのような祈りと神の加護をもってしても、人間の行為が、言葉のそのようなまったき意味において起こらないとするならば、愛していないのです。
なぜそのようなことが言えるかといいますと、祈りは主イエスのみ名によってなされます。
すると祈る人がその人の内に聖霊によりとどまって、イエスの言葉が絶えずその人のうちに生きて働きます。

3:22神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。

この22節の言葉は祈りが聞き入れられる条件よりもむしろ、その祈りの可能性の根拠が論点だということです。
神はご自分に属する人々に、その願いを求めるものを与えてくださいます。
それは私たちが神との正しい関係に入っているからです。
すなわち、神の戒めを守り、御心にかなうことを行っているからです。
繰り返しますが、私たちは神の戒めに反し、御心にかなうことを行えぬことをいつも悔いています。
しかし神はそう思われていないということです。
パウロはローマへの手紙で、
8:33だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。と言い切っています。
私が神を選んだのではありません。
神が私を捕らえ、神のものとしようと清めてくださるのです。
であるなら誰がいったい訴えるのでしょうか。
私たちは、選ばれた神にひたすら向かって、信じ着いていけばいいのです。
同様に、Tヨハネ3:21愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、という言葉も同じように考えてよいのです。

この箇所は原文のまま訳すと、「心が私たちを責めなければ」です。
ここには私には罪がないとか、罪を犯したことはないといった自分の不完全さについての無感覚ではないことがはっきりしています。

<神の偉大さは、その判断がわれわれ人間以上に鋭い(カルヴァン)ことにあるのではなくて、神が卓越したもうのは、罪を赦したもう恩恵にある(ルター)。

このキリストにある平安のことをここでは言っているのです。
神の愛は私たち人間に比べられないほど偉大です。
だからこそ、わたしたちは、自分の過ちを認めるしかない正にその時、兄弟愛を正しく実践するための力を新たに授けてくださる神の愛の圧倒的な力を経験するのです。

何事についても心に責められるところがないキリスト者はこの世には一人もいません。
むしろそのことでははるかにきよい人が、もっとも深刻に真摯に悩むといってもよいのです。
その悩み、その恐れは、私たちの自分に頼ろうとする誇り、傲慢を打ち砕き、私たちを深い自己嫌悪に陥れるのです。
しかしその時まさに、私たちはただちに私たちのすべての罪のために死んでくださったキリストの十字架の犠牲、いけにえに逃れ、そこに私たちの神の御前でゆるぎのない確実な、絶対的な平安を持つのです。

キリスト者が何事についても心に責められないなら、それは罪や不完全についての何も感じないか、麻痺してしまっているのであって、これほど危険なことはありません。
しかし、キリスト者は罪を悔い改めると同時に、キリストのあがないに逃れ、神のキリストにある恵みにいだかれている真の平安と確信を持つことが許されるのです。
これが福音です。キリストの教えであり救いです。
このキリスト者の平安のゆえに、ヨハネは21節で「神の御前で確信を持つことができると断言するのです。

そしてこの神による平安をもち、恐れなく神の御前に出て大胆に祈るとき、私たちの求めを神に申し上げ、神に求める時に、22節にヨハネが言うように、神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。
間違いなく、私たちが求めるものは何でも神から与えられるのです。

祈るときに、私たちは神がどのように、キリストにあって私を愛し、私に和らぎ与えてくださるのでしょうか。
私をただキリストにある神の価なしの恵みによって神の子としていてくださるかを、本当に心から信じ、告白をしなければなりません。
反対に、私たちがもし自分の愛の業に頼って神の御前に立とうとするなら、わざわいです。
自分たちがこれほどの思いで、これほどの行いによって、と思う心です。
水曜日の学び会はいよいよヨブ記を学び終えます。
善人ヨブの態度も、この態度だといえます。

私たちが、行いに頼ってそれを根拠として神の前に出ようとするとき、そのうちには恐れの原因しかありません。
そのような訳で、キリストにある神との平和のない者、恐れる者は、大胆に腹蔵なく祈ることはできないのです。
もう一度重ねて誤解のないように申し上げます。
長老ヨハネは私たちが神の戒めを守り、私たちの御心にかなう行いによって、私たちが祈り求めるものは何でも神から与えられる根拠となるといっているのではないということです。
私たちの祈りが神に聞かれ、答えられるのは、私たちのどのような行いに対する報酬ではないのです。
私たちの祈りが聞かれるのは、私たちの求めが神の御心に一致するからなのです。
ヨハネ福音書で言われている(15:7)あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。と言われているのはこのことです。
キリスト・イエスご自身でさえ、ゲッセマネに祈りで、「みこころならば」「みこころを行ってください」と父なる神の御心と一つになることを欲して祈っておられます。
私たちの祈りもいつでも、どのような場合でも、この目的から外れてはなりません。
この目的に向けられなければなりません。
ですから、祈りにおいて、神の御旨にかなわないことを求めたり、神の戒めに背くことを願ったりしてはならないのです。
キリストにあって神との交わりにある者にありえるでしょうか。
私たちの祈りがこの目的、神の御旨が行われ、神の御栄えが現されるというこの目的に向けられるときに、そのような祈りこそ、キリスト者の自由な祈りであり、そしてそのような祈りは何でも聞かれるのです。


以上のように、神への祈りはすべてイエス・キリストを通して聞かれます。
ところで、ヨハネがこの書簡の中で「信じる」という言葉を用いるのはこれが最初です。
ここから先、この「信じる」という概念は「愛」の概念と並んで支配的な役割を演じることになります。
といいますのは、信仰は救いに至るための不可欠な条件だからです。
信仰はキリストに向けられたものであります。
それはイエスを神から遣わされたメシアと認めることです。
信仰とは、このイエス様が神の子であるとの、神の言葉を無条件的に肯定することを求めます。
イエスを主であると認めないで、祈りは神に届かず、達しないのです。
これは大問題でして、イエス・キリストの名を信じるとは、「イエスの名を信じる」ということであり、「イエスが神の子、私たちの救い主である」ということを信じることなのです。
名前とは、その人格を表します。
ある名をもって呼ばれる人の人格の本質を表現するのは、その名前です。
イエス・キリストに与えられているその特別な性質を指し示す名は、神の子という名です。
決定的なのは、いつも何を信じるかです。
つまり信仰の対象であるどなたの名を信じるかということです。

神の掟が何かというと、御子イエス・キリストの名を信じることです。
3:23その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。
兄弟姉妹が互いに愛し合うことは、とてもすばらしいことです。
でもその根拠、愛の基は神にあるということです。
神が愛であるということは、お題目ではなく、神が御子イエスであり、聖なる霊の神であるからです。
声明や宣言にとどまることはありません。
ですから、三位一体の神ご自身の存在自体が愛なのです。
天地万物は、その神の愛のほとばしりととることができます。
それ故に、神に背き、堕落した私たち人間が滅びずにいられるのは、この神の愛から生じることです。
父なる神ご自身は義であり裁きの権能を帯びておられますので、人間の悪を断罪されます。
しかし、神の愛は、御子なる神イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、魂が滅びることのないようにと救いの言葉を語り伝え、さらに罪深い私たちのために、私たちは自ら決して神に立ち返れないので、御子を十字架につけて身代わりとして贖罪を行ってくださいました。

さらに祈ることもできず、信じ切ることもできない弱い私たちに、神の約束の言葉さえ心から従えない者たちのために、御子の復活・昇天の後に聖霊なる神をお遣わしくださり、神の愛を完成するために、歴史の時間の中で現してくださったのです。
その愛を知るためには、兄弟姉妹がお互い愛し合わないと分からないと、ヨハネは口を酸っぱくして語り聞かせています。
24節で言われているように、神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった"霊"によって分かります。

ですから、主イエスを神の御子、救い主と信じること。
私たちの信仰の不安定、祈りの確信の薄さが揺らぐこととは間逆にあります。
私たちの内にある、神が与えてくださった神である聖霊に祈ることによって、強められ、励まされ、堅くされるのです。
人間のする良いことと、神のこととは違うのです。
神の愛に基づいた兄弟愛は、政治より、国家行事より重要です。
まったく<私たち人間の罪よりも重要です。
私たちの信仰よりも重要です。
死より重要なのです。
全てに勝って重要なのです。
その愛を示された主の名を信頼し、主の愛に生かされてまいりましょう。

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