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zoom RSS 愛の教え Tヨハネ3:11-18 2011/2/20 夕礼拝

<<   作成日時 : 2011/02/21 18:53   >>

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愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。
私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛すように、と長老ヨハネは勧めます。
これは表面的な愛ではない、真実な愛をもって互いへの愛を表現するように ということです。

イエス様は嫌いな相手でもその人をそのまま愛することを示されました。
どのように愛を表現すればよいかわかりませんという方もいらっしゃるでしょう。
難しいことではありません。
自分のまわりの人(家族、友人、職場の人等)の願っていることをともに願ってみましょう。
その人がつまずいている問題点が解決するように願ってみましょう。
そのように願うほどに自分のまわりのあの人を許せるようになります。
イエス様はそのような愛を私達にお与え下さる方です。


作家 眉村卓という人と奥様との闘病生活を描いた映画が公開されています。
映画のタイトルは『妻に捧げた1778話』、胃を宣告され、五年後の生存率は0%と宣告された妻に、作家である夫は毎日ショートストーリーを書き続けた、という実話です。
病に対して、のんびり、ゆったりした気持で日々を過し、笑うことによって免疫力が高められるということから、自分にできることを実行したのでした。
小説を書き始めるにあたり、幾つかの条件を作りました。
病人の神経を逆撫でするもの、深刻な話、これ見よがしのアイデアストーリーは書かない。読んであははと笑うか、にやりとするものを心掛ける。エッセイではなくフィクションで、一回原稿用紙三枚以上。妻ひとりが読者ながら売り物になるレベルを維持する、等々である

映画公開の宣伝番組で、その当時書かれた原稿用紙が写されていましたが、両手に抱えられないほどの量がありました。
著者はインタビューに対して、どんなことを書いたのか覚えていない と言っていました。
とにかく必死だったと。
私は、書き始めることはできるかもしれませんが、一話一話完結していくことはとても難しいと思います。
説教を作ることのほうがはるかに簡単です。
なぜなら、素材や切り口を工夫して、十字架の愛を結論で説けばいいからです。

日野原重明先生が、『テンダー・ラブ』という著書の中で、愛というものは、どれだけの時間をその愛の対象にあげるかによって計られる、という趣旨のことを書いておられます。
ともにいるだけではなく、愛しているよと動作や言葉に出して言うことも大切と書いています。
欧米人のように、愛しているということは余り美徳とはされませんでした。
日本人はとかく恥ずかしがり屋ですから、以心伝心でわかるじゃないか、と仏頂面を通すことが多いのですが、これは多くの場合マイナスです。

また、私たちは遠くにいる誰か、名前も知らない誰かのことをかわいそうだ、と哀れむことはできても、自分の身近にいる人は愛せない場合があります。



思い切って家族同士、夫婦は勿論、友達同士でも時間を取り、心を分かつ努力をしてみましょう。

日野原先生は同じ著書の中でこんな話を紹介しています。
ある牧師のお嬢さんがお医者さんと結婚し、二人の男の子を設けました。
しばらくして、検診で乳ガンが発見されました。
それも体のあちこちに転移してほとんど回復の望みのないところまで進行していました。
そのお母さんは7歳と9歳の男の子にあてて、16歳になるまでの毎年の誕生日と、中学の入学祝い、高校の入学祝いに向けて、沢山の手紙を残しました。
子どもとの別れをただ嘆き悲しむだけでなく、手紙を書き続けることによって、お母さんの愛が、その死後も子どもたちの中で成長し続けることを願ったのです。
さらに葬儀の時のためにお友だちにあてた手紙も書きました。
その中で、病にかかって初めて、互いを思いやること、互いに赦すことの大切さが分かったこと、神の愛の中に子どもたちを委ねられることをはっきりと語っています。



やはりその本の中で日野原先生が、
愛には、与える愛と受ける愛とがあり、愛はその二つの思いと行動のバランスの中に成り立つものです。・・・
と言いながら、自分は本当に愛を相手に注いでいたか、相手の心を満たすことよりも、受けることばかりを考えてはいなかったかを問いかけるようにと勧めています。
こわ張った表情をまず取り除き、笑顔をもって愛を表現してみましょう。

さらに日野原先生は、愛とは赦すことだと書いていました。
赦す事は人間には一番難しいことかもしれません。
なぜなら、赦す事は自分を殺すことだからです。
自分を殺すといっても、自分の命を絶つということではありません。
自分自身の主張をぐっと飲み込む、ということです。
ある人にとって、これは屈服、敗北を意味するかもしれません。
だから、赦す事は難しいのです。
自分は許すことはできても、あの人のためにはここは許してはならない、と思うこともあるかもしれません。

日野原先生の言葉をもう一度引用します。
愛するということの裏には辛いこと、血の出るような苦しみもあるのです。
だから、私は本当の無償の愛というマントの裏地は、辛さで血のにじんだ布で覆われていると言いたいのです。
人を赦すということには、血の出るような苦しみを伴うことがあるのです。
その血の代償として、愛を受け入れる人は救われるのです。・・・


本当に重い言葉です。
私はイエス・キリストの命がけの愛によって救われ、愛を知った、だから、私も命がけで隣人を愛する。

自分のために生きている人は、究極のところ、他者を愛することも他者を許すこともできないのかもしれません。
他者へ関心を向けても、それがヒューマニズムの愛にとどまっては、神の御心だとはいえません。
愛すべき相手の向こう側に、その方をも神は愛しておられるのだ、という思いがなければならないのです。


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