日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 愛の教え Tヨハネ3:11-18  2011/2/20 

<<   作成日時 : 2011/02/20 14:37   >>

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教会の中にも幾つかの専門用語があります。
聖書のみ言葉の多くもそうですが、教会内の信徒に向かって「兄弟」「姉妹」などというのもそうです。
初代教会のころ、教会に集う人々が互いに兄弟姉妹と呼び合い、基督の血をのみ、基督の身体を食べるなどということを行っている、
とても恐ろしい集団だ、と恐れられていたことがあったそうです。
いまでも、「よう、兄弟!」などと呼び合う業界はいかがわしいのかもしれませんが…。

先日の教師研修会の話し合いの中で、教会の中で信徒同士が「兄弟姉妹」と呼び合うのは、新しく教会に見えた方を疎外してしまうのではないかという話がありました。
しかし当時は、神を父と呼び、神の祝福に与る者は、神の子であり、ともに兄弟姉妹であるという考えがありました。


ここで長老ヨハネは、信徒たちに向けて、「兄弟たち」と呼びかけます。
そして、現在の私たちに「互いに愛し合うこと」を命じています。
そして、その理由はそれが、「はじめから聞いている教えだからです」と言うのです。
私達が愛し合うことは、聖書が初めから繰り返し教え、命じていることであるというのです。
そのことは言い換えると、聖書に証しされている神は、人間を「互いに愛し合う」者としてお造りになられた、ということになります。
私達は、それぞれに歩んでいる日々の暮らしや人生は異なります。
またそのご生活において皆さんが抱えている悩みや問題は一人一人違います。
けれども、私達は何かのはずみで、たまたまこの世に生まれて来て、またいつかは消えていなくなってしまう、意味のない虚しい存在なのではありません。
人間は、神の似姿として創造され、命と生涯を与えられているのです。
神の似姿と言われると、不思議な思いを抱かれるかもしれません。
でも似姿というのはお伽話のようなことではありません。
私という人間を神は御自分の似姿とされるほどに愛し、かけがえのない尊い命、生涯に生かし全うなさることを決意されたということなのです。
この神が私達に「互いに愛しなさい」とお命じになられているのです。
ところが聖書を読んでみますと、神に愛される人間が互いに愛し合うどころか、相手を傷つけ、奪い、殺してしまう恐ろしい姿の存在であることが分かるのですね。

旧約聖書の創世記4章に、カインという人物が出てきます。
カインにはアベルという弟がいました。
二人はそれぞれ異なる仕事をしていたのですが、ある目、二人はそれぞれに得た収穫を神に捧げました。
カインは「土の実り」を捧げ、アベルは「肥えた羊の初子」です。
ところが、神はアベルの捧げ物はお受け入れ下さったのですが、カインの捧げ物には目を留められませんでした。
どうして神は、弟のアベルの物は受け入れられたのに、兄のカインの物はそうされなかったのでしょうか。
神とは何と不公平なお方なのだろうか、そう思われるかもしれません。
けれども、神は決して不公平なお方でもエコヒイキされるお方でもありません。
神は義しい方です。
そして私達にも御自分の前に義しい人間として生きることをお求めになられるのです。つまり、アベルは神に愛される存在として、神に信頼し、仕えて誠実に生活していたのです。
そして感謝のしるしとして一番良い子羊を神に捧げたのです。
でもカインはそうではなかった。
カインには自分が神に愛されていることや生かされていることに対する感謝の思いはなかったのです。
しかもカインは自分が神に対して義しく生活していないことにすら気づいてはいませんでした。
ですから、カインは弟の捧げ物を神は受け入れられたのに、自分の捧げ物を受けいれなかったことに激しい怒りを抱いたのです。
そしてカインは神に対して激しく怒って顔を伏せたのです。
しかし、神に対して怒りを向け、顔を伏すということは、とても恐ろしいことではないでしょうか。
私達は神によって命を造られ生かされているのです。
神に愛され喜ばれる者でなければ、本当には生きることができないのです。
ところが、その神に顔を向けて生きることを放棄して、怒りを抱くなら、それは命を失うこと、死を意味するのではないでしょうか。
カインは愚かにも神に敵意と憎悪を向け、神を無視して生きようとしたのです。
そこに弟のアベルを殺すという出来事が起こったのです。
私達は連日のように、殺人事件の報道を耳にします。カインが弟のアベルを殺したように、親が子を、子が親を、兄弟同士の殺人も珍しくありません。
でも、実際に殺人を犯した人は特別な人間であって、そんなことはしない私達には無関係なことなのでしょうか。
そうではありません。
聖書にはこう書かれています。「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」。
私達は、あの人がいなければ、この人がいなければ、自分はどんなに幸せに暮らせるだろうか、そう思ってしまうことがあります。
あの人がいなければ、学校は楽しい、あの人がいなければ職場はスムーズだ。
そして出来ることならば、その相手を殺してしまいたいとさえ願うのではないでしょうか。
私達は実は、自分の家族の者でさえ憎むのです。
しかし、それは同時に、「永遠の命」すなわち神の命を失うことになります。
神の前にも、一緒に暮らしている人々に対しても、生きている意味や価値のない不必要な存在として命を失うのです。
そこには生きる望みや喜びはありません。

それでも、神は御自分に対しても隣人に対しても敵意と憎悪を向け、殺意さえ抱く私達罪人を愛して下さるのです。
そして罪を赦してお救いくださるために、神はその独り子であるイエス・キリストを十字架におかけになられたのです。
このことによって、私達は愛を知ったというのです。
イエスは罪なき神の子であられましたが、私達を神と人とに愛される尊い命に生きる者とされるために、御自分の命を十字架に捨てて下さったのです。
そのことによって、私達は愛を知ったのです。

愛とは相手が願うことや求めることに応じたり、手助けしたりすることなのでしょうか。
私達は常に自分に都合のいいように生活したいものですから、自分にとって喜ばしいこと、満足することをしてもらうことが愛されることだと思うのです。
しかし、聖書が明らかにする、愛するというのはそういうことではありません。
聖書には「兄弟のために命をすてるべきです」と記されています。
イエスが、私達を罪から救われるために御自分の命を十字架に捨てて下さったように、私達も兄弟の命、生涯が神に愛され喜ばれるものとされるために、自分を捨ててこれに仕えて生きるのです。
これが愛するということなのです。
兄弟を愛し、そのために生きることは私達には難しいかもしれません。
でも、神は私達をまず愛されました。
この神の愛に信頼しで従うのなら、神は私達を必ず愛することのできる人間にして下さるはずです。


長老ヨハネは「神様に愛され、子とされたことを知り、それを体験しているからです」と前回の箇所で証ししています。
また今日の箇所では、「兄弟を愛している自分を見て、死から命へと移ったことが分かる」と前回とは違う確信を通して安心していると証ししているのです。
つまり、こうまとめることが出来るのではないでしょうか。
私たちは信仰を持った今でも罪を犯さないとは言い切れない。
でも、もし失敗して罪を犯したとしても、父なる神様の愛は、変わらず私たちを包み込んでくださる。
確かに罪に対しては厳しいけれど、そこにこそ愛があり、私たちを悔い改めへと導いて下さる。
そして、赦しを請う私たちを見捨てることなど決してない。
この父なる神様に対する信頼が私たちの安心へと繋がっているんだと・・・。

与えられた愛を、使っている自分がいる。他者へと注ごうとする自分がいる。
神様の愛を知ってから自分は周りの人を愛そうとするようになった。
何度も何度も確認していただきたいと思います。
自分の中ではっきりと神様の愛と、愛が与えられたこの恵みを味わうことが出来るように確認していただきたいと思います。


昨日の結婚式で読まれた御言葉の少し前を思い出します。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」Tヨハネ4:10

この神様の愛を知った私たちは、神様の愛のうちにとどまることが大切なのです。
そして、神様の愛のうちにとどまり続けるならば、私たち自身が出来る、出来ないに関わらず、自分が神様に愛されたように他者を愛そうとするようになるのです。
だからこそ、14節「兄弟を愛しているから」私たちの内に神様はいてくださっている、死から命へと移されたと告白することが出来るのです。
多くの人々はキリスト教のイメージとしてこの「愛」を持っていると思います。
「互いに愛しなさい。」「汝の敵を愛せよ」
しかし、きちんと聖書に触れていない人の多くが、この教会で教えられている「愛」を馬鹿にしたり、信用しなかったりします。
残念なことに、本当の意味を理解できないからです。

18節「子たちよ、言葉や口先だけでなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」
見ず知らずの困っている人のために、あなたは何ができますか?
どれほどの犠牲を払うことができますか?
・・・聖書は命を捨てるべきですというのです。
ほとんどの人が馬鹿馬鹿しいと思うでしょう。
また、前向きに考えたとしても、とても無理だと思うのではないでしょうか?
だから、誰もこの教えを真剣に受け止めずに、妥協点を探しているのだと思います。

例えば、世界平和のために 祈るとします。
たった一人、お前が朝祈った所で、世界に平和がおとずれることなどない、多くの人がそう思うかもしれません。
そして、本当は世界の平和のためでなく、偽善のために祈っていると思われてしまうのです。


長老ヨハネを始め初代のキリスト者たちは、妥協しませんでした。
自分自身もキリストの苦しみの一部を担っているのだと喜んだのです。
誰かに馬鹿にされても、誰かに貶められても、迫害に遭って殺される時にも、彼らの内には神様からの豊かな愛が注がれ満ち溢れていて、この身を捧げますと迫害者のために赦しを祈ったのです。
聖霊によって力をうけているからです。
私たちも、聖霊に導かれる民として、教えに従い歩んでまいりましょう。



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