日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS キリストに似た者となる 2011/2/13 創立記念礼拝 Tヨハネ3:1-10 

<<   作成日時 : 2011/02/13 12:24   >>

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昨日は、CECの研修会でした。
雪の降る中の中野教会でしたが、小岩教会の坂本先生を講師にとても有意義な研修となりました。
私たちのナザレン教団の基でもあるジョンウェスレーの母、スザンヌの信仰と教育から学びました。
スピリチュアルディレクター、霊的指導者という観点からお話いただきました。
私たちは、誰かに導かれ教会に集うようになりました。
最初はただ居るだけであったかもしれません。
しかしいつしか、祈りの生活へと変えられ、今日まで教会生活を送ってきています。
そこには必ず霊的な指導者がいたのです。
指導者というと、上から下への徒弟関係のようになってしまいますが、意味合いとしては同行者、同伴者という考え方だそうです。


さて、私たちは、なにか目標を定め、それに向かって準備し進んでいくときにイメージを持ちます。
また、なにかスポーツをする場合など、イメージトレーニングという練習を用いることが多いと聞きます。
ここで、こうやって、相手がこう来たら、こう…。
実際に身体を動かすのではなく、頭の中で想像しながら集中力を高める練習方法です。


「わたしは神の子だ」と認めることについてイメージしてみましょう。
いい歳をして、何を今更、神の子などというのだ、という思いもあります。
では、私たちの命は誰から来たのか、ということを考えれば、肉体の父、母の背後に神の大いなる摂理があることを見ることができます。

天地万物の創造主である神様は、わたしたちすべての人の父だからです。
いまでこそ、創造者・設計者などという表現をすることができますが、当時、父から子へと祝福が授けられていたのですから、父と子のイメージで表されているのです。
そのお父さんが偉大な愛をわかってほしいと、創造のときから共におられた神の子であり、主イエスを天から送って下さいました。
主イエスの自己犠牲的な愛によって、わたしたちは罪をゆるして、あるがままの自分をうけいれてくださる大きな神様の愛を知ることができるのです。
だから、わたしたちは初めから神の子だったし、今もそうなのです。
罪を犯し、放蕩息子になっていた時でも、神の子だったのです。
だから、神の愛に目覚めたあなたは「わたしは神の子だ」と認めて下さい。
この認識、この気持ちがいっさいの土台です。

主イエスを自分の友とする、「それはむずかしい」と思う人も居られると思います。
当然だと思いますが、主は小さきものの友として歩まれました。
罪人、病気の人、やもめ、子供…。自分だけでは生きていけない、そのような人にこそ進んで友として共に歩んでくださいました。

自分はほかのだれともちがう、それはそれでいいんだと思えて来るでしょう。
あるがままの人間は、それぞれ違っていておもしろい。失敗だってわるくない。
道を間違えれば正しい道をおぼえて、次は間違えないで走れます。
神様もあなたのことをそのように思って見守っているのです。
あなたは天地創造の初めから「神の子」であります。
だから自分を大切にして、主イエスのパートナーとなって下さい。
主イエスはあなたを受けいれて、天にある神の家族の一員として認め、「わたしの弟よ、わたしの妹よ」と愛してくれます。
これが自分を好きになる秘訣です。

ヨハネはここで、信仰者・教会に行っている人は清い生活をする人になれ・・とは言っていません。
信仰者は今までと全く違った人生を生きる人なのだと言っているのです。
どうしてでしょうか。
生きる目標、望みが変ったのです。
今までの私達の望み、目標は自分を喜ばせること、自分の満足と納得、この世がすべてで、死んだ先のことなど分かりません・・でした。
しかし、「今私達は神の子ども」、神様との関係で生きるようになりました。
人は結婚すると変ります。
もう他の人は後回しです。
どっちでもいいのです。
大切なのは奥さん、だんな様です。
その関係を第1に生活し、相手が喜んでくれる事が自分の喜びとなりました。
神の子どもであるとはキリストとの関係で生きる人、キリストにお会いすることを目標に生きる人になったということです。
キリストが喜んでくださることが喜びです。
だから、3節の「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」などは当たり前のことです。
しかし、もし、信仰者が「今、私達は神の子ども」、今までと全く違った人生を生きる人なのだ・・と言うことを忘れるなら、クリスチャン生活は律法、掟を守る生活となり、苦しいだけです。

もし、あなたが、信仰生活に疲れを感じているとすれば、「今、私達は神の子ども」と言う事実を忘れ、目標から目が離れ、電源が抜けているのです。
あなたの目が主イエスから離れ、自分自身の都合や人の目や口に向けられているのです。

先ず、「今私達は神の子どもなのだ」と確認しましょう。
ならば、「御子が清いように、自分を清めます。」この「自分を清くする」とは、6節を見ますと、「罪を犯さない」と言うことのようです。
そう考えると、罪を犯さない人はただ一人しか居ないわけですが、だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯さないというのです。
罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。

ここでも、自分を清くしなければならない、罪を犯してはならない・・と言ってはいません。
「罪を犯しません。」とは、結果です。
大事なことは目標をはっきりすることです。
長老ヨハネは今までの歩みを振り返りながら申します。

わたしがここまで来られたのは「キリストに対するこの望みをいだき、キリストのうちにとどまり続けたからです。
つまり、十字架から「わたしの母マリヤを頼んだよ。」と主イエスのまなざしを思い出すのです。
再び主イエスにお会いするときに、ありのままに主にお会いする、
同様にありのままの自分を見ていただくことになります。

その結果、自分は今日まで守られてきた。
清さを保ち、罪を犯さずに済んだ。成功!失敗する人は、6節後半
罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいないのです。
つまり、罪から離れられないのは、その人は、結局、「今私達は神の子どもなのだ」ということを忘れ、自分のことを考えるか、人のことを考えて、キリストから目が離れ、いつまでたっても、キリストが働いてくださるという自分自身の経験をもつ事が無いからです。

神の子どもとしての信仰生活とはどのようなものかは9節にかかれています。
3:9神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。
だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。
なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。
その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。

神から生まれたものとは、つまり、「神の子ども」私達のことです。罪を犯しません。
これは、英語NIVではNo one who is born of God will continue to sinと訳されています。
神から生まれたものは罪を犯し続けることは無い・・うれしいですね。
その理由は神の種がその人のうちに留まっているからです。
種とは聖書のことばであり、又、聖霊でもあります。
聖書のことばを用いて聖霊が私達に罪を自覚させてくださるから、罪を犯し続ける事が出来ません。

3:10神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。

主イエスはぶどうに木の話をされました。
「私はぶどうの木、あなた方はその枝です。」
枝である私達にキリストが命令されたことは「良い実を沢山つけよ。」ではなく、「わたしに留まっていなさい。」でした。
良い木につながる枝は、必ず、良い実をつけるのです。
神の子どもとして、キリストの留まりながら、罪を犯し続けることは出来ません。
それは、木であるキリスとご自身がつながっている人の人生に良いもを結ばせてくださるからです。

あなたはあなたの人生を振り返ってどのように仰りたいですか。
本当に感謝しつつあのパウロのようにいえる人生、ヨハネが私達を招いてくれている人生を生きたいものです。
ヨハネのように「今、私達は神の子ども」と言いましょう。
主が弟子の足を洗い、互いに愛し合うようにと示されたように、主にとどまり続けましょう。

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