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zoom RSS 新しい掟 2011/1/23 Tヨハネ2:7-17

<<   作成日時 : 2011/01/30 01:36   >>

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モンスターペアレントなるものがニュースをにぎわせています。
クレームとして挙げられたもののいくつかをご紹介したいと思います。

▽娘はピアニストになるためのレッスンを受けている。指を傷つけたらいけないので、休み時間は外に出さないで欲しい
▽子供の財布が学校で紛失した。学校が弁償しろ!
▽息子は塾通いで疲れているから、授業中は寝かせて欲しい
▽翌日の天気を調べて、傘が必要なら連絡してくれ
愛知県内の小学校
▽休んだ2週間分の給食費を返して欲しい
▽仏滅に修学旅行に行くとは何事か!
▽親子共に朝が弱いから、モーニングコールをして
▽子供に掃除をさせるな、業者に頼め

兎角にこの世は住みにくい。

世と世にあるものを愛するな
世は世の欲が入りこんできます。
肉の欲、目の欲、生活のおごりが信仰を曲げることが起こります。
だから「世と世にあるものを愛するな」とヨハネは叫びます。
「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。
世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。
しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます」(2:15-17)。
この世の肉の欲、目の欲、生活のおごりとは、直接的には、人間の本源的な欲望を指します。
多くの人が今現在の満足を求めますので、欲と欲がぶつかり合って、世には争いが絶えません。
食欲を満たすために他人のものを奪ったり、性欲を満たすために他人の人格を侵したり、権力欲や地位欲を満たすために競争相手を押しのけたり、財産欲を満たすために他人の財産や権利を侵害します。
「自己中心主義」です。
食糧価格の高騰によって第三世界に飢餓が生じています。

フェアトレード(公平貿易)とは、発展途上国で作られた作物や製品を適正な価格で継続的に取引することによって、生産者の持続的な生活向上を支える仕組みです。
これまでの一方的な資金援助は、援助する側の都合によって左右され、継続性に欠けるという問題点がありました。
それに対し、フェアトレードは、私たち消費者が自分の気に入った商品を購入することでできる身近な国際協力のかたちなのです。
この方法なら、援助する側の負担も少なく、無理なく継続的な援助ができます。


それを解決するために2008年ローマで食糧サミットが開かれました。
食糧価格上昇の一因とされていますバイオ燃料(穀物で石油代替品を製造する)の主要生産国であるアメリカやブラジルはその生産をやめようとしません。
食糧価格の上昇は自国にとってプラスだからです。
現代の日本でも、この自己中心主義があふれて住みづらい世の中になっています。

アメリカと中国が会談を開いたというニュースを見ましたが、あれが外交・政治なのかという思いがします。


皆さんは言うかもしれない「私たちキリスト者はこのような自己中心主義の欲からは解放されています」と。
おそらく、そうでしょう。
しかし、教会の中でもっとも恐るべきものは、そのような表面的な欲ではなく、私たちの心の中にある欲、「人に喜ばれ、尊敬され、世の誉れを受けたい」という、社会的な欲です。
それは反面、「他人に馬鹿にされたり、非難されたり、仲間外れにされないようにしようとする心」を生みます。
罪よりも恥を気にし、神よりも人にならおうとする態度です。
「人間関係中心主義」と言えるでしょう。
ヨハネ教会の問題は、一部の人たちが、自分たちは正しい、それが受入れられなければここを出るとして教会を割って出て行ったことです。
神よりも人に関心が行く、この「人間関係中心主義」の欲が教会の交わりを壊し、教会を分裂させたのです。

長老派は福音書に書かれたパラクレートスの表現を改めています。
天の父のもとにいるイエス自身が唯一のパラクレートスとし、その霊はイエスから切り離せないものだとしました。
むしろ受肉したイエスを信じる信仰が真の信仰であり、イエスが歩んだように歩むように、神の掟(互いに愛する)を守るように、それが真理だと強調します。福音書の「弁護者である聖霊」を、注がれる油(2.27)、神の種(3.9b)などに言い換えています。
これは分離派が内在する「パラクレートス(聖霊)」を全面に押し出していたので、それを避けたのかもしれません。
たとえ罪を犯しても、告白すれば、御父のもとにいるキリストが弁護者として赦してくださる・・・長老派はヨハネ福音書の弁護者の意味を変えていると言えます。

福音書が書かれた時代のヨハネ共同体では「互いに愛し合う事」が新しい掟(ヨハネ13・34)でした。
分裂後、長老は分離派が道徳的律法を無視している点を見逃さず、初めから受けていた(昔からあった律法)古い掟(律法)を重視し、律法を新しい掟として教えたようです。
しかし、「闇(放縦主義)」である彼らが去ったので(すでにまことの光が輝いているから)、共同体は真の平和と愛の秩序を取り戻した事を強調します。
おそらく長老は、律法を重視する使徒継承教会(主流派、大教会)の影響で、新しい倫理規定として分離派が無視した律法(マタイ福音書的律法)を実践するよう求めたのでしょう。
「あなたがた」という言葉を多用してこの掟を浸透させています。
しかし、分離派が去った現在は、初めからある「愛の掟」を、再度「新しい掟」として確認させようと試みているのではないでしょうか。
こうした文章では、いささか混乱を生じたのかもしれません。
そうした事から、ヨハネの手紙2では、明確に「新しい掟(律法)」ではなく、「初めの掟(愛の掟)」に戻るようにと、地方の教会宛に書簡として指示を送っています。


今日の招詞としてヨハネ13:34-35を選びました。
次のような言葉です。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなた方が私の弟子であることを、皆が知るようになる。」
イエスは最後の晩餐の席上で弟子たちの足を洗われました。
ユダヤでは食事の前に、召使が客の足を洗い、清めてから、食事をするのが慣わしでしたが、その日は誰も足を洗ってくれませんでした。
弟子たちは困りました。
自分が同僚の足を洗うのはしたくない、足を洗うのは召使の仕事であって自分の仕事ではない、弟子たちはそう思っていました。
その時イエスが立ち上り、たらいに水を汲んで、弟子たちの足を洗い始められました。
弟子たちは、びっくりし、恐縮します。
その弟子たちにイエスは言われました「師である私があなた方の足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ13:14)。イエスは弟子たちに「神の国ではほかの人の足を洗う人が一番偉い」ことを、身をもって示されたのです。
そしてイエスは弟子たちに言われました「私があなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。
イエスは、愛するとは仕えることであることを示すために、自ら弟子たちの足を洗われました。
イエスが弟子たちの足を洗われたとき、その中にはイスカリオテのユダもいました。
既にイエスを裏切ることを決めていたユダの足をも、イエスは彼の悔い改めを祈りつつ洗われます。
自分に背こうとする者の足をも洗うのが神の愛です。
私たちはイエスを通して、この神の愛を知りました。
この神との関係なしに「愛し合いなさい」といくら叫んでも、愛は生まれてきません。
神が人を愛されたから、人は人を愛することが出来る。
神が人を赦されたからこそ、人は人を赦すことが出来る。
神の愛が先行する、あなた方はその愛を受けなさいと聖書は教えます。
これは心理学でも実証された真実です。

心理学では神の代わりに、親という概念を用います。
「親に愛された子供は、他者を愛することが出来る。親に赦された子供は、他者を赦すことが出来る」。
逆に言えば、親の愛を十分に受けていない者は、他者を愛することが難しいのです。

ヨハネは言います「私たちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです」(3:11)。
愛の不足は人の性格をゆがんだものにします。
愛ほど、大切なものはない。
愛は命の問題でもあります。
この愛とは、親が子を愛するような愛です。
親は子が生まれると、食物を与え、身の回りの世話をします。
雨の日でも晴れの日でも、子の世話をします。
そうしないと、生まれたばかりの子は生きていけないからです。
このような愛をいただいて、私たちは大人になります。
そして、大人になった今もこの愛を必要としています。
聖書は神がこのような愛で、私たちを愛されていると告げます。
この愛こそが、私たちに必要な霊の糧なのです。
この霊の糧をいただくから生きていけるのです。

私たちの愛の本質は自己愛であり、むさぼる愛です。
愛されたいから愛する、相手に価値があるから愛するのです。
従って、相手が愛してくれない時、相手が裏切った時、相手の価値が下がった時、私たちはもうその人を愛することはできません。
世に離婚がこれほど多いのは、世の愛=ギブアンドテイクの愛がいかにもろいのかを示しています。
このような愛では、私たちは生きていくことが出来ません。
人に裏切られるたびに人生が閉ざされていく生き方になります。
イエスが教えてくださった愛は、このような愛とは根本的に異なります。
それは、相手の足を洗う愛です。
私たちもイエスにつながり続ける時、そのような存在に変えられていきます。
イエスの愛に留まっていれば、私たちも豊かに実を結ぶ者となると約束されているのです。

それこそが新しい神の掟なのです。

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