日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 我が内に居ます主 2011/1/16 Tヨハネ2:1-8

<<   作成日時 : 2011/01/30 01:20   >>

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この手紙の1章では、光である神と救い主イエス・キリストについて伝え、神の子どもとされた私たちも光の中を歩んでいなければならない、と強調しました。
そして、ヨハネがこの文を書き送る理由は「私たちが、光の中を歩んでいて、光である神と交わりを持つようにするためだ」です。
さらに、「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」とあります。
私たちが光である神と交わりを持つためには、私たちも光の中にとどまらなければならない、言いかえれば、罪を犯してはならない、ということです。
主を信じて救われるところで終わらずに、罪から完全に離れるべきことを、もう一度説明しているのです。
まずは信じること、そして、罪から離れることが大切だというのです。
思い切って信じることまで至っても、罪から離れることは出来ないのではないか、そう思う人が多いのではないでしょうか。
多くの人が主を信じると言いながらも、「罪から完全に離れることはできない」と思っています。
マタイ26:41に誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」とあります。
ペトロと弟子たちはこのようなおことばを聞いても、疲れに勝てなかったので、祈っているうちに眠ってしまいました。
ある人はこの場面を引用して、肉の世界に生きている人間としては神のみことばを完全に行うことは出来ない、と主張します。
しかし、聖書のどこにも、人間は弱いので罪を犯してもかまわないと説明している箇所はありません。
主イエスがこのように言われた時は、弟子たちがまだ聖霊を受けていなかった時です。自分の力ではできないことも、聖霊に助けられればできます。
[ローマ8:26]に「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」とあります。
樋口先生が昨年この箇所からお語りくださったことを思い出します。
自分の力では情欲に勝てなくて、罪の誘惑に陥った人でも、聖霊の力を受ければ、十分に罪と戦って勝つことができます。
そのためには絶えず祈って、いつも聖霊に満たされていなければなりません。
ペトロも、聖霊を受ける前は疲れに勝てなかったし、恐れのゆえに主イエスを知らないと言ったりしました。
しかし、聖霊を受けた後は、神の力を現して大胆に福音を伝えました。
結局、十字架に逆さにつけられて殉教に至りました。
もちろん、人がイエス・キリストを受け入れたからといって、直ちにすべての罪を完全に捨てることはできません。
救われたらすぐ御霊の歩みに入るのではなく、信仰が成長するまで時間がかかります。まだ聖められる前は、心で、行ないで、罪を犯したりもします。
幸いにも、主を信じる前に犯した罪はもちろん、救われた後、まだ信仰が少ない時に犯した罪も、イエス・キリストが贖ってくださいました。
それで、本文[1節の後半]に「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」とあるのです。
世の訴訟をたとえに挙げると、裁判では判事と検事、弁護士がそれぞれの役割をします。検事は法律に基づき、被告に刑罰を与えるように要求します。
弁護士は被告の立場で弁護して、刑罰を軽くしようと努力します。
霊的に、私たちも白い御座の大審判の時は、裁判長である神の御前で裁判を受けるようになります。
耕作を受けた魂たちが被告の立場になり、旧約の預言者である「モーセ」が検事のような役割をします。
[ヨハネ5:45]を見ると、主イエスが「わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。」と言われました。
だからといって、謙遜な預言者モーセが各人の罪と咎を暴き出す役割をする、という意味ではありません。
「モーセが訴える」ということは、白い御座の大審判の根拠になる法典が、まさに「モーセの律法」だからです。
聖書を読むと、十戒をはじめ、神の戒めをたびたび「モーセの律法」と表現しています。
これは、モーセがその律法を神からいただいたからです。
このモーセの律法に照らして各人が裁判を受けるとき、私たちを弁護してくださる方が、まさに救い主イエス・キリストであります。
「わたしには何の罪もなかったけれど、この魂たちの罪を贖うために血を注ぎ出しました。彼らはわたしを信じて罪を悔い改めたので、その罪の代価はわたしがすでに払いました」と弁護してくださるのです。
このように主が神の御座の御前で弁護してくださるから、聖徒たちは罪に定められることから解き放されるのです。
また、[ローマ8:34後半節]に「死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」とあります。主は最後の審判の時まで、何も召し上がらないで、私たちのためにとりなしの祈りをささげておられます。
主イエスは十字架を負われる前、最後に過ぎ越しの晩餐をとられながら、「神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」と言われました。「ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」ということは、単にぶどうの汁を飲まないという意味ではありません。
これは霊的に、まことのぶどうの木、すなわち、イエス・キリストによって創造されたすべてのものを食べることも飲むこともしないという意味です。敵である悪魔・サタンが権威を持っているこの地上で、聖徒が信仰の戦いをしている間、主イエスも断食しながら、その苦しみにあずかるのです。そして、聖徒の犯した罪について、ひざまずいて涙で祈り求められるのです。
尊い神の御子が私たちのために十字架の苦しみを受けられたのですから、これだけでもどれほど恐れ多いことでしょうか。これを信じると言いながらも、すみやかに聖められずに、いつも主の心を痛めて繰り返して罪を犯すなら、それで毎回、主がとりなしの祈りをささげられるようにするなら、どれほど申し訳ないことでしょうか。愛する聖徒の皆さんは、すみやかに聖められて、罪から完全に離れますように。それで、皆さんのゆえに主が涙を流されることがこれ以上ないようお願いします。
本文[2節]に「この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。」とあります。
旧約時代は、人が罪を犯せば、動物をほふっていけにえをささげることによって罪が赦されて、神と和解していました。新約時代は、主イエスが罪のための小羊になられ、私たちの罪のために死なれたので、神と私たちの間を和解させてくださいました。
[ローマ3:23-24]に「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」とあります。
この前、[第一ヨハネ1:9]で言ったように、私たちが自分の罪を言い表わすなら、イエス・キリストが私たちの罪を赦して、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。確かに罪を犯した罪人ですが、信仰によって義と認められて、あえて神を父と呼べるようになるのです。
このような主イエスの犠牲はすべての人類のためのものです。どこの国、どの民族でも、金持ちや貧しい人、たくさん学んだ人や、学ばなかった人、老若男女、誰でも同じです。主を信じさえすれば、誰でも罪を赦していただき、神と和解することができます。
愛する聖徒の皆さん、この[1-2節]のみことばを通して、もう一度父なる神の愛を悟るようお願いします。
神はすでにモーセを通して律法を与えてくださいました。
みことばどおり守り行なえばいのちを得て、そのとおりに行なわないなら、死へ向かう真理の法を明らかに提示してくださいました。
しかし、神は、肉の空間で生きていく人の子らが自分の力だけではみことばどおり行なえないことをすでにご存じでした。肉の空間では、肉の属性に従って肉に染まっていくはずです。しかも、歳月が過ぎるほど世は罪と悪がもっとはびこっていきます。情欲に酔って、不品行と放蕩を追い求めながらも、罪が罪だとも知らずに生きているのです。
こういう人の子らを救うために、神は世界の始まる前から隠しておかれた奥義、すなわち、ひとり子主イエスを遣わされました。罪のない主イエスが血を注ぎ出して死なれることによって罪人を救って、罪人のために弁護してくださる方にされたのです。
ところが、ここで皆さんがもう一度心に留めるべきことがあります。主イエスがすべての人のために死なれたといっても、その恵みを受けて味わうのは各人の選択にかかっているということです。自由意志の中で、自分のほうからイエス・キリストを信じなければなりません。また、その信仰は行ないで証拠を見せる、まことの信仰でなければなりません。本当に主イエスが自分の罪のゆえに十字架の苦しみを受けられたことを信じる人ならば、当然、罪から離れなければならないのです。

続く本文[3-4節]に「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。」とあります。
皆さんが主を本当に知ったなら、十字架にかかってくださったその愛もわかるはずであり、それなら当然、主を愛するでしょう。
そして、主の命令を守らなければなりません。
世の人々が恋愛する時も、その愛が熱い時は相手に全部合わせます。
服の色や食べ物の好みまでも、相手が何が好きなのか調べて、その心に合わせようとします。
私は、香穂によく聞きます。
「何が食べたい?」
私の場合はその通りにすることは少ないのですが、

霊的な愛はさらにそうです。
主を愛するということが事実ならば、主が願われることが何か調べて、そのまま従っていくようになります。
すなわち、その命令を守るのです。
しなさいと言われたことはして、してはならない、と言われたことはしません。
守りなさいと言われたことは守って、捨てなさいと言われたことは捨てます。
以前、いくら好きだったものでも、主が嫌われるなら、心から嫌になってしまいます。
ところが、「神を知っている、愛している」と言いながらも、御霊の願うことに従わずに、自分の欲と肉の思いの通り、肉に従っていく人がどれほど多いでしょう。
そうしながら、「父よ、愛してます」と言うけれど、神はこれを偽りだと言われます。
神を「父」と呼ぶ子どもならば、聖なる神のように聖でなければなりません。
うわべで信じるふりだけするのではなく、心の奥底から悪を捨てていく時でこそ、主を愛するという証拠が見せられるのです。
このように心を変えさせなければ、その信仰は真実だと言えないのです。
教会に熱心に通っていても、自分の益に合わなければ、神のみことばに逆らったり、ますます信仰生活をおろそかにしたりします。
困難にあえば神を恨んだり、さらに神に敵対することも見ます。
また、ある人々は、まるで主イエスの当時のパリサイ人のように、形式的な信仰生活に偏ったりします。
信仰の年数が長くて、聖徒を教える務めを受けていても、昔の人たちの言い伝えと自分の枠の中に閉じ込められているので、聖霊のみわざは体験できないのです。
むしろ、どこかで聖霊のみわざが現れる、というと、それが間違っているようにさばいて罪に定めます。
愛する聖徒の皆さん、神の命令を守って聖められていかないなら、いくら長い間教会に通っていても、霊の信仰が成長しません。
ですから、困難があれば世の方法に従って行なって、神に祈ると言いながらも人に頼ります。
[マルコ11:24]には「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」とあります。
いくらこのようなみことばが聖書に記されていても、いざというと自分の中に真理がないから、神の御前に大胆に出て行くはずがありません。
信じられる信仰が与えられないのです。
それで、病気にでもかかるなら、神に頼らないで病院に行って、薬を飲んで手術をします。
ふだんからも健康食品やらフィットネスやら、このようにからだに良いと言われていることを熱心に探します。
私は今、「運動をしてはならない」と言っているのでもなく、「良い物を食べてはならない」と言っているのでもありません。
肉の秩序に従って、時には適当に運動もするのが良いし、食べ物もあまり脂っこく有害なものよりは、どうせなら健康に良いものを食べるほうが良いです。
しかし、本当に神を愛して頼るなら、何より魂に幸いを得ていて、神に喜ばれることにもっと関心を持たなければなりません。
そうではなく、いつも肉的なことに心が傾いているなら、神が何と言われるでしょうか?
主イエスがこの地上で父の働きをなさっていたとき、毎瞬、どこに関心を持っておられたでしょうか?
また、使徒と預言者たちが働いていた時は、毎日何を考えて生きていたでしょうか?
最近はやっている健康食品が何なのか、運動にはどこの施設がいいのか、こんな食品がダイエットにいいって、どこどこへ行けば安く買えるって、何々の運動が健康管理にいいってなど、こういうものに関心を持って生きていたでしょうか?神が守ってくださらなければ、いくら良いものを食べて健康管理をちゃんとしても、それで健康が守れるのではありません。
主のしもべやレビ族はもっと自分の心を顧みますように。24時間、皆さんはどこに心を注いでいるでしょうか?「父よ、愛してます。主よ、愛してます」こういう告白をささげるとき、神はその告白を喜んで受け入れられるでしょうか?「そう、あなたの愛をわたしは知っている。わたしもあなたを愛している。」このように答えてくださるでしょうか?
もちろん、聖徒の皆さんもみなそうならなければなりませんが、特に主のしもべやレビ族は、神に自分の人生をささげた方々です。それなら、神の国と魂のために皆さんの人生を全的に投資しなければなりません。本当に御霊の歩みに入り、神に栄光を帰すために、心と思いと最善を尽くさなければなりません。世の人々が会社に通っているように、目の前に与えられたことだけを適当にして、肉に従って生きてはいけません。代価を受け取って働く雇い人ではなく、神のまことのしもべ、まことの信仰の働き人にならなければならないのです。
ひょっとしてでも自分の益に従って適当に生きながら、「私はそれでもこれくらいはするから」と、自分を合理化して言い訳したのではなかったのか、顧みられますように。神の命令を守って、真理を皆さんの中に刻みつけること、それが皆さんにとって最大の関心事になるようお願いします。

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