日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 喜びに満ち溢れる 2011/1/2 Tヨハネ1:1-10

<<   作成日時 : 2011/01/02 13:23   >>

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ヨハネ福音書は、「初めに言があった」ではじまります。
この「ことば」は教会用語では「み言葉」と使われることもある、聖書に書かれている言葉という意味があります。
同時に、この世界の創造の初めから存在しておられて、神のみ元から地上に来られた神のみ子イエス・キリストを指しています。
このヨハネ福音書は、天地創造のときからおられるイエス・キリストが、私たちの罪の赦しのために十字架におかかりになって、再び天へ戻られたことを証ししています。


新年から読み始めましたこの「ヨハネの手紙一」は、年代的に「ヨハネによる福音書」よりも少し後に書かれたものですが、同じヨハネの教え、伝承を受け継いで書かれています。
このころには既にマルコ福音書があり、パウロの手紙も教会の中にありました。
すでに、直接主イエスから話を聞いた人がいなくなってきたころ、教会の中に間違った教えをする人たちが出てきました。
このヨハネの手紙は、教会の中に信仰の命が失われた頃に書かれました。
信仰の命が失われるということは、人を誘う気も起こらないという感じということができると思います。
そのような状態の教会になってしまった紀元後100年頃の教会に対してもう一度教会の中に信仰の命が溢れることを願って書かれています。

「ヨハネによる福音書」では「初めに」とありますが、ここでは「初めから」(1節)とあります。
福音書ではイエス様がこの世の初め「に」存在したと語っています。
ここでは「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの」となっています。
これを「あなたがたにお伝えするよ」とあるのです。
ですからここでヨハネが「初めから」と言っているのは、この世界の初めからという意味だけではありません。
ペトロやヨハネたちの使徒たちから自分たちに伝えられた福音の証しを私たちはしっかりと聞いて受け止めています。
アーメン、ほんとうにそのとおりだとわかったので、これをあなたがたにお伝えしますよと言っているのです。

その福音の内容はなにかと言うと、「命の言」とあります。
だからこの「命の言」を初めから聞いていて私たちに伝えたいと言っている。
くどいようですが、「ヨハネによる福音書」では、神のみ言は、世の初めから存在していて、地上においでになったと語られています。
これに対して「ヨハネの手紙一」では、ヨハネ福音書が受け止めた命のみ言としてのさらに展開してイエス様を説明しているわけです。
これが地上に顕れたということだけでなく、その後もこの命のみ言が今もなお働いている。
初めからあった命のみ言が、今もなお働いていて、私たちはこれを受け取って、あなたがたに伝えていきます。こういう意味です。
だからここで「わたしたちに顕れたこの永遠の命」(2節)とある「わたしたち」というのは、イエス様が天に昇られたその後に生きている「わたしたち」のことです。
このわたしたちに永遠の命が顕れたという意味です。
永遠の命とは、キリストの復活の力に与ることです。
この力に生かされて、神が今のこのわたしと共にいてくださるという喜びを失わない中で生きることです。
ここに信仰の原点があることをこの手紙は伝えるのです。
そして、命の喜びが介在して、それを証しする者へと導かれることが2 節に記されています。
なぜ証しをするのか。
それは、単純に自分が与えられた喜びを伝えることが嬉しいのです。
どこに嬉しさが現れるのかというと、 自分が神に贖われて生きていることの喜びを人に伝えた時、その人もまたイエス・キリストの命に生かされるようになる様子を見ることが嬉しいのです。
このことを伝えるのが3節です。
「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたに伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」
ここでの二つの交わり、つまり、わたしとあなたとの交わりと、わたしたちと神との交わりが一つとされるときにこそ、そこに命の喜びが溢れ出てくることをヨハネの手紙は語るのです。

主にある神の家族としての交わり、コイノニアに入ることです。
今日はこうして皆さん集会に来ておられますけれども、こうしてわたしたちが交わりに入る。ということが大事です。
なぜなら、このことが、命のみ言が今もなお働いていることを証ししているからです。だから、命のみ言があるからわたしたちがそれを聞きに来るということでもありますが、それと同時に、わたしたちがこうしてここに集められている、このことが、実に不思議なことです。
これが命の言が働いているという意味なんです。
ですからこの集まりは、わたしたちが自分の気分次第で、パーティやサークルのような集まりではありません。
一人で聖書を読んでいてもつまらないとか、聖書のわからないところを教えてもらう場所というものでもありません
それでは教会が「あったほうがよい」程度のものに過ぎなくなってしまいます。
この「コイノニア」の中身は何でできているかと言えば、それは父なる神との交わりに結びついていることです。
それはみ子イエス・キリストとの交わりに結びついているのです。
ですからこの「交わり」はわたしたちの趣味の会ではありません。
これは「み霊の交わり」「聖霊による交わり」です。

イエス・キリストというひとりの人格的な存在、personです。
だからイエス様との人格的な交わりです。
ただの霊的な原理原則ではないですね。
はっきりとイエス・キリストというひとりのお方のみ霊、わたしたち人間に神を顕してくださるために人間となられてこの地上に来られたイエス様のみ霊と出会う。
これがこの集いの意味なんですね。
ですから、教会で福音が語られる。
そのことが、イエス様との交わりを形成していく、それが同時にわたしたちお互いの交わりを形成していく。
ある一つのテーマについて、討論会や講演会をやっているんではありません。
わたしたちがイエス様の人格的なみ霊との出会いについて語り合う、その語り合うそのことによって「コイノニア」が生まれてくる。

私がこうして皆さんに語っているのは、集会の人数を増やすだとか、なにか私の利益になる目的があってやっているのではありません。
自分がイエス様を信じていて嬉しい、み霊にあるよろこびです。
これが私をして語らせるんです。
この喜びを皆さん方と共に分かち合いたいためです。
「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるため」(4節)とあるのは、この意味です。
5節にヨハネは「神は光である」と言っています。
聖書の中で、「神は〜である」とはっきりと定義しているところは実はあまり多くありません。
ヨハネ系の文書にはそれがあります。
この手紙の4章8節に「神は愛である」とあります。
「神は霊である」も「ヨハネによる福音書」4章にあります。
イエス様については、「私は世の光である」「私は命の光である」と言われています。
6節では光とはなんでしょう?光とは見るものです。
それを「仰ぐ」ものです。
人をしてそちらのほうへ「向かわせる」ものです。
だからわたしたちはそちらへ「歩く」のですね。
ですから光は未来を照らすんです。
わたしたちが「未来に向かって歩くように仕向ける」のが光の働きなんです。
この光の中を歩くことによって、わたしたちが文字通り「一歩一歩」と光の中を歩いて行くことによって、私たち自身が光になっていくのです。
するとね、わたしたちの内に働く闇の力、「罪」という名の闇の力ですね、これが少しずつはがされていく。
わたしたちがあえて光に身をさらして、光の中を歩んでいくことが、自分の内に潜む闇に克つ方法だと聖書は教えます。
ですから、光も闇も、神の正義も罪も、「歩むこと」、すなわち行動することに結びついています。
罪は、わたしたちの「考え」ではない。
迷いでも憎しみでもない。
そういう状態のままで、光の中を「歩こうとしない」こと、自分自身の罪の中にじっと留まっているだけで「動こうとしない」こと、ここに罪があるのです。
これではほんとうのコイノニア、交わりは生まれてくることはありません。
なんのために集まっているのかわからないことになります。
光の中を歩くことによって(7節)、光のようになること、一歩一歩と罪に克つことです。
「信じる」とはそういうことです。
だから信仰の「仰ぐ」という字は光を仰ぐことです。
これは悟りではないです。瞑想でもないです。
光に向かって行動することが生きることです。
だからヨハネはここで、わたしたちの罪がどんなに重くても、あえてイエス様のみ霊の光に向かうなら、その罪が赦されると書いているのです。
歩くことそのことが赦しなのです。
み霊の光の内を歩んでいくと、いやでも、自分の欠点や罪が見えてきます。
見えてくれば、当然落ち込んでしまうこともあります。
見えてきても、それを自分で隠そうとしない。
それでもなお、イエス様の光の中を歩く。
だから「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません」(8節)とヨハネは言っているのです。
同じことを次に「自分の罪を告白する」と言っています。
自分の罪を自分から隠さない。自分にへつらわない。
あるがままを見つめると、自分の罪を自覚することができます。
だから、イエス様のみ霊の光を歩むこととわたしたちの罪を言い表すこととは同じです。こうして罪を自覚する。
自覚するということは、罪の方向、闇の方向から方向展開するということです。
メタノイア 悔い改めという方向展開をすると罪に勝てる。
そして罪から解放される(9節)。
これが、罪が赦されるという意味です。
こうすることによって、わたしたちは交わりを保つことができる。
これがみ霊にある交わり、コイノニアのほんとうの姿なのです。
最後に大事なこと。
「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすること」(10節)とあります。
ほんとうの神、真実の神とは、人間にその「罪を自覚させてくださる」神のことです。その人の罪をはっきりと示してくれる神、これがほんとうの神です。
罪とはなにか?罪とは不信仰です。
その罪の根は傲慢です。
仏教でもキリスト教でも、人類に与えられている真理をおこなわせる知恵とは、必ず人間の罪を自覚させる力を持っています。
真の神と偽りの神との違いがここにあります。
人が真理を行うか否かがこれで決まるのです。

私たち自身は、自分から真理を行うことが出来ません。
だからこそ、み言葉によって養われ、お互いに祈りによって支えあい、交わりによって励ましあい、聖霊によって導かれて教会の交わりの中に身をおくことが重要なのです。
そのことによって 喜びに満ち溢れた人生を歩むことが出来るのです。

2011年が主にある交わりの1年でありますように。
目に見える形での交わりと養いの場である聖餐に預かりましょう。

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